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【真珠】「最後に……少しだけ」


 月ヶ瀬家に戻るため、荷物を貴志の車に積み入れる。

 着替えとわたしのバイオリンと貴志のチェロ──それから、トウモロコシは絶対に忘れてはならない。


 業務用冷蔵庫の一角に預かってもらっていた嬬恋産トウモロコシは、昨日鬼押出し園の産直で購入した時と変わらず、とてもみずみずしかった。



 貴志は宿泊の際にはチェロを持ち歩いているようだけれど、今回は何故か、祖父と紅子の二人から「忘れず持参するように」と言われたようだ。




 チャイルドシートに座り、ベルトを装着した後、空調の風よけが手元にないことに気づく。


 貴志が、羽織っていた薄手のシャツを代用にしようとボタンに手にかけたので、申し訳なく思って遠慮する。

 その時、良いものがあったことを思い出し、それを取ってほしいとお願いした。


「そのシャツ、貴志も日除け代わりに羽織っているんだから、脱がなくてもいいよ。あれを使えないかな──ほら、エルからもらった黒い布」


 エルは『聖布』と呼んでいたが、薄絹の上質な大判ストールだ。

 子供の身体をすっぽりと覆ってくれる大きさがあり、実はお昼寝する時にかけたら肌触りが良くて、とても気持ちが良さそうだなと思っていた。


 どんな(いわ)れがあるのか、エルに質問するのをすっかり忘れていたが、とても素敵なものだったので、ありがたく今後も使わせていただくつもりでいる。


 その黒い薄絹は、貴志の手によって皺にならないよう、わたしの荷物の一番上に収められていたはずだ。


 貴志も「そうだな。今はあれを使うか」と呟き、トランクから取り出すと、肩から滑り落ちないように被せてくれた。


 朝食後から、眠気が訪れている。

 昨日の疲れも出ているのだと思う。

 本当に難儀な一日だったのだから。


 中禅寺湖からの移動中、ずっと昼寝をしていたとはいえ、その後の日程が体力的にも精神的にも過密で、更に就寝時間も貴志とエルとのアレコレにより相当遅かったのだ。


 思わず大きな欠伸(あくび)が出てしまう。


「晴夏が来た時に起きていられるように、今は寝ておいた方がいい。それに、今日は神林(かんばやし)先生のお孫さんも来るんだろう?」


 貴志がわたしの頭を撫で、優しく微笑む。


 そうだ。

 今日は翔平と飛鳥が、夏の旅行のお土産を持ってやってくるのだ。


 夏休みに入った直後から、たしか航空会社に勤める父親の駐在先に遊びに行っていたのだ。

 暫く会えないことを知った時は、ものすごく寂しくなって「行っちゃヤダ」と泣いて困らせたことを覚えている。


 ミャンマーの──たしか、ヤンゴンに行くと言っていた筈だ。


 真珠の意識下では、その地名が魅力ある呪文のように聞こえ、魔法の国にでも遊びに行くのかと羨ましくも感じていた。

 今では、伊佐子の知識によって、国名と都市名だと勿論理解している。


「翔平に、ごめんなさいをしないとだ」


 わたしは小さく呟いた。


 幼い子供の約束──しかも、『真珠』はウィディングドレスを着たいがためだけに取り付けたもの。


 翔平も子供の戯言(たわごと)と理解しながら、仕方がないな、とその場を収めるために交わしてくれた(ふし)もある。


 そうと分かっていても、約束を反故にするのだ。

 その事実が心に陰を落とし、申し訳ない気持ちが生まれてしまう。



 わたしは胸元で光る、小さなペンダントに触れた。

 助手席の日よけの裏側についた鏡で、輝く『宝物の証』を確かめながら、貴志に声をかける。


「貴志、婚約って──もうしたことになっているの? 名目上のことだから、格式ばった結納とか、そういったことはしないんでしょう? わたしは、子供過ぎて、きっと理解できないと思われているだろうし」


 貴志が、微妙な表情を見せた。

 何かあったのだろうか?


「いや、義兄さんが張り切り始めていたんだが、美沙の体調不良で有耶無耶になっている」


 へ!?


「着物を着せて結納を交わすお前の姿を、写真におさめるんだと息巻いていたらしい」


 誠一パパ、あまりに想定内過ぎて溜め息も出ない。

 娘を溺愛するあまり、写真マニアになっているのか。

 いや、それは薄々感づいていたが、美沙子ママだけを目に入れていてほしい。切実に。


 わたしはハッと息を呑んだ。

 そうだった──今夜は、とうとう父と一緒にお風呂に入り、同じベッドで眠ることになるのだろうか。


 それについても対策を講じなければならなかった。

 何故、わたしの身の上には、こうも面倒な事態ばかりが息つく間もなく降りかかって来るのだろう。


「結果的に結納という形はとっていないが、昨日の会議の時点で既に婚約は交わされたと見做され、話は進められている」


 そうなのか。

 既に、わたしは貴志の婚約者という扱いになっているのか。


 『この()』のフラグを気にしていたが、高校生になるまでに解消するのであれば、おそらく問題ない。

 そこに気づき、心に多少の余裕が生まれる。



 そうすると不思議なもので、対外的にも貴志の特別な存在になれた気がして頬が緩んでしまうのだ。



 美青年とちびっ子の組み合わせ──何か裏で工作があったことは容易に分かる関係ではあるけれど、それでも嬉しいと思ってしまうわたしがいる。


 我ながら現金なものだ。



「一時的とはいえ、その契約の期間……貴志はわたしの婚約者で──わたしは貴志の、未来のお嫁さん候補?」



 わたしが嬉しそうに訊くので、貴志は少し動揺しながら「そういう……ことだ。おそらく」と答え、慌ててエンジンをかける。


 女性の扱いに長けていた筈の彼が、わたしの言葉に対して照れ隠しをするのだ。それだけで、何故こんなに嬉しくなるのだろう。


 車を動かそうとサイドブレーキに手を伸ばした彼の動きを、わたしは咄嗟に止めてしまった。


 貴志はわたしの目を見つめ、不思議そうな表情で問う。


「真珠? どうした?」


 駄目かもしれない──そう分かってはいるけれど、わたしは、もじもじしながら貴志にお願いをしてみる。



「貴志──駄目……だとは思うんだけど、あのね……家に戻ったら、みんなの前では……、その……だから、今、最後に……少しだけ……」



 わたしの態度に貴志がフワリと優しく微笑み、すべてを言い終わらないうちに、彼の親指がこの唇を塞いだ。



 ああ、理解してもらえた。

 たったそれだけのことで、身体の中心を甘酸っぱい痛みが駆け抜ける。


 熱を持った瞳で貴志を見つめると、彼のもう一方の手がこの頬を包み込む。

 求められているような錯覚をおぼえ、わたしの鼓動は更に早くなり、切ないまでの苦しさが喉元にせり上がる。


 わたしも貴志の唇の上に、小さな指を這わせると、彼の瞳が潤んだように揺れた。



「俺は、お前を大切に想う気持ちを、隠すつもりはない──かと言って、周囲に心配をかけるつもりもない。お前も特別気負わず、いつも通りにしていろ。その方が色々と上手くいく」



 貴志の真っ直ぐな視線をうけて、わたしは頷いた。


「それに……お前が俺のことを好ましく思っている事実は、間違いなく家族には伝わる」


 どういうことだろう?

 ──と、わたしは首を傾げる。



「特に、美沙と母さんには、会った瞬間に看破される筈だから、覚悟しておいた方がいい」



 意味はまったく分からなかったが、その他の情報をもらえないまま、車は滑るように地下駐車場を後にした。



  ──忙しい一日が、いよいよ動き出す。








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