【真珠】『悪い男』と『悪い女』
貴志がコーヒーテーブルに置かれた時計を確認する。
既に日付が変わり、子供が起きているには不自然な時間帯だ。
「お前はそろそろ休んだほうがいい」
そう言って、彼は缶ビールのプルトップに手をかけた。
「貴志は一緒に寝ないの?」
わたしが訊ねると、貴志は少し気まずそうな表情を見せる。
「少し飲んで、そのまま何も考えずに眠りたいんだ」
彼の言葉に、わたしは肩を落とす。
「ごめんなさい。わたしが起こしちゃったから、眠れなくなっちゃったんだよね」
申し訳ない気持ちになって謝ると、貴志は言葉を詰まらせ、意を決したように語りはじめた。
「今夜のお前──今は子供に戻って見えるが、夕食後から何故か……成長した姿に見えることが時々あって、正直かなり……マズかった」
貴志は何を思い出しているのだろうか、顔下半分をその手で隠し、心なしか頬が紅潮しているようだ。
「お前が現実には子供だと分かっているから、自制できた。が、惑わされそうになった──とだけ言っておく。後は……察してくれ」
エルが告げた内容を思い出す──理の違う魂を持つ心と、それにそぐわない器。そこから生じる揺らぎに一種類の酒精が加わることにより、男性は理性を奪われ、惑わされるという。
貴志は既にワインを飲んでいる。
今からビールを口にすれば、それも治まるのだろう。
けれど、子供の姿に戻ってしまうことに、寂しさを覚えずにはいられない。
貴志は辛いと言っていたので大変申し訳ないが、もう少しだけ彼の目に映る自分を、大人の姿で留めたかった。
彼の一時帰国もそろそろ終わりを告げ、これから暫く離れて過ごす時間が訪れる。
子供の姿では、他の女性に太刀打ちできない気がして、その不安を彼にぶつけたばかり。
貴志は裏切ることはないと断言し、彼からの深い愛情を感じることもできた。
それでも、心の奥底では、気持ちに余裕を持つことはできない。
恋愛において未熟者ゆえ、正誤が分からず、自分に自信がもてないのだ。
だから、大人の姿のわたしを、貴志の瞳に焼き付けたいと思ってしまい、寂しさを感じてしまったというわけだ。
でも、これで、彼を悩ませることになった現象も、複数のアルコール摂取により落ち着くはずだ。
本来の姿に戻ってしまうことを少しだけ残念に思い、彼が喉の渇きを潤す様子を黙って見守った。
ビールを流し込み、一息ついた貴志がこちらを見て首を傾げて、目をこする。
そこでわたしはハタと気づいた。
──先ほど貴志は何と言っていた?
『今は子供に戻って見えるが』
確か、そんなことを洩らしていなかったか?
──と、いうことは、酒気は全て抜けていたということ?
──で、あるならば、今また口にしたお酒は一種類。
「ねえ、貴志? もしかして、またわたしのこと……子供に見えなくなって……いる?」
貴志が目頭を抑えて何度も瞬きを繰り返し、深く息を吐いてから吸い込んだ。
「いや……その通りなんだが……どうしてそれを……」
わたしは貴志にもたれかかり、うふふと笑う。
本来の精神年齢くらいには、見えているのだろうか?
そう思うと、実は嬉しい。
「子供に戻ってほしい? それとも、今夜は……大人のままで、いてほしい?」
貴志に身を預けたまま上向くと、わたしは熱のある潤んだ眼差しで、その双眸を見つめた。
ギョッとしたような表情を見せた彼は反射的に仰け反ると、赤くなりながら視線を逸らしてしまう。
「わたしは、できることなら、貴志に成長した姿を覚えていてほしい──駄目かな? つらい? もし大変だったら、戻し方はエルから聞いているの。だから……貴志が、選んで?」
深い溜め息が、彼の口から吐き出される。
「正直、心は休まらないが──お前は、それを望んでいるんだろう?」
それだけ言うと、貴志は出会った当初よく見せていた、色気ダダ漏れの艶やかな笑顔を覗かせた。
慣れていた筈なのに、その表情を目にするだけでドキリと心臓が跳ね上がる。
嗚呼、わたしの心も、休まりそうもない。
──でも、今夜くらいは、いいでしょう?
貴志を見上げると、彼はわたしの髪を手に取り、少し悪戯な微笑を浮かべ、そこに口づける。
「ただし──何か起きても、知らないぞ?」
軽口を叩き、貴志がニヤリと笑う。
まったく、本当に『悪い男』だ──一瞬、自分が子供だということを忘れ、すべてを許したいと思ってしまったではないか。
でも、大丈夫──貴志は、少しの意趣返しを込めて、そう言って揶揄っているだけ。その表情で分かる。
だから、わたしもそれにあわせて返答した。
「多少なら……何かあっても──寧ろ、わたしの望むところだけどね」
彼を真似て、不敵な笑顔で挑発する。
「おまえは……『悪い女』だ。なかなか、末恐ろしい」
楽しそうに笑う貴志が、わたしをゆっくりとベッドに横たえる。
「貴志、抱きしめて──朝まで、離さないで。今夜だけは」
彼に抱き着き、懇願する。
「お前は……その姿で、それを言うな──拷問に近い」
半ば独り言のような呟きが耳に心地よい。
なぜだろう。
彼の声が、子守唄のように徐々に遠のき、くぐもった音として伝わりはじめる。
「今夜は、ありがとう。貴志、大好き……ううん、この気持ちは……」
そこまで口にしたところで、とうとうわたしは目を開けていられなくなった。
それは前触れもなく子供の身体に、突然襲ってくる。
──睡魔だ。
「真珠?」
突然、寝息に近い呼吸がわたしの鼻から漏れ、貴志の拍子抜けしたような声が部屋に響いた。
この眠気が心底うらめしい。
折角、良い雰囲気だったのに。
「まったく……月ヶ瀬の晩と同じ展開か……懐かしいな。でも、今夜は──一緒に眠ろう」
彼の優しく笑う声が届く。
どんな表情をしているのだろう。
知りたいけれど、瞼が重くて開かない。
彼の大きな掌が、頬に触れたような気がした。
(お願い……朝まで、離さないでね)
もう一度だけ、そう伝えたかったけれど、既に声が出ない。
折角、二人きりでいられる最後の夜なのに。
残念に思いつつ、急激な眠さが思考を閉ざす。
遠くなる意識の向こうで、突然、貴志が慌てたように起き上がる振動が伝わった。
ああ……この音は──
貴志のスマートフォンのメッセージ着信音だ──こんな夜中に、誰だろう?
微睡みの渦に巻き込まれながら、貴志の話し声が聞こえた。
電話をかけたの?
誰と話しをしているの?
話の内容が気になったけれど、もうこれ以上、意識を保つのは難しかった。
(ああ、そうだ……今日は、ハルが遊びに来るんだっけ……翔平にも……謝らなくちゃいけないんだった……)
絡め取られるように眠りの国へと誘われ、わたしは夢の世界に旅立った。







