【真珠】誠実であるために
エルは、別れ際、貴志になんと言ったのだろう。
聞こえなかった最後の言葉について、考えようとしたけれど、それ以上、エルのことを心に留める余裕は与えられなかった。
角を曲がり、わたしたち二人がエルの視界に入らなくなったところで、貴志の腕が伸び──背後から、突然抱き寄せられたから。
貴志の腕の力が加わり、後ろから抱きしめられる。
時間にしたら、ほんの一瞬のことだったけれど、何故かとても長い時間彼に抱きしめられているような気がした。
貴志はホゥと息を吐くと、わたしをいつもの縦抱きの体勢に持ち上げる。
ほんの数秒ではあるけれど、彼が安堵と焦燥と、それだけではない様々な感情をかかえながらも、口に出さずに堪えてくれたことが伝わり、苦しくなる。
「疲れているだろう? このまま抱えて行くから、眠ってしまってもかまわない」
指でわたしの髪を梳いてから、掌をわたしの後頭部に置いて優しく撫でる。
彼はそのまま自分の肩にわたしの頭を引き寄せ、寝かしつけの姿勢をとった。
「本当はすぐにでも抱き上げて、休ませてやりたかったが……」
そう言って言葉を濁す貴志の首に、わたしは腕をまわして抱き着く。
「うん……分かってる。……控えようと思っていたんだよね」
誰の前で、とは言わない。
貴志はそれに対して、沈黙を肯定にかえた。
少しだけ身を起こし、彼の瞳を見つめる。
「貴志も疲れているのに、ごめんね……ついてきてくれて、ありがとう」
わたしは再び貴志の首に両腕を絡ませ、猫のように甘えたくなり、すり寄る。
彼は規則正しいリズムでわたしの背中を叩いてくれた。
目が冴えてしまい、眠れる気はしなかったけれど、彼の肩にコテリと頭をのせる。
部屋に戻るまでの間、貴志もわたしもお互いに一言も言葉を交わすことはなかった。
…
ベッドの上にわたしを降ろした貴志は、一旦寝室から出て行った。
「何か飲むか?」と質問され、わたしが頷いたので、どうやら飲み物を取りに行ってくれたようだ。
わたしはベッドの上で正座をしながら、彼が戻るのを待つことにした。
貴志がペットボトルと缶ビールを手に戻ってくる。
「真珠?」
かしこまってチョコンと正座をしているわたしの姿に、違和感を覚えたのだろう。
貴志はわたしの名前を訝し気に呼んだ。
「あのね、貴志……何があったか、気になる……よね?」
ペットボトルのキャップを外していた貴志の手の動きが止まる。
「……エルからある程度の話は聞いている。あいつも……立場上、先に進む必要があると言っていた。お前も外出から戻ってから様子がおかしかっただろう? 混乱させるかもしれないと、呼び出しがある可能性を伝えられずにいた。そこは謝る……すまなかった」
貴志の言葉から、わたしの質問をはぐらかすよう、別の話題にすり替えようとする素振りが伝わる。
こちらが黙っていると、貴志は動き出し、キャップを外した状態の冷えたミネラルウォーターを差し出された。
それを受け取りながら、わたしは口を開く──話題を元に戻すために。
いつもならば、踏み入ってほしくないからこその話題転換だと理解し、大人の対応で流すところだ。
でも、今日に限っては、絶対に譲ってはいけない──それは直感だった。
「貴志は、気にならない? エルと何があったのか。わたしが貴志の立場だったら気になる。それに……何も話さないのは、貴志に対して誠実じゃない気がする。でも……」
言葉を切り、少し躊躇いながら続ける。
「貴志に、屋上で何があったのかを話すと、今度は……エルに対して……誠実じゃない気がするの。こういう時、普通ならどんな対応をするものなの? 初めてのことばかりで、どうしていいのか分からない。わたしはどうするべき?」
一息で自分の心の中に芽生えていたわだかまりを伝え、少しでも昂ぶった気持ちを落ち着かせようと、受け取ったボトルの水をゴクゴクと飲む。
勢い余って口角から水が零れ落ち、身体に巻いたままになっていた黒い聖布を湿らせた。
わたしが慌ててそれを外すと、白い夜着が顔を出す。
貴志が咄嗟に黒の薄絹を受け取ると、その流れで皺を整え、ハンガーにかけてくれた。
「ありがとう……?」
わたしのお礼が最後に疑問形になってしまったのは、貴志の表情が見る見るうちに、笑顔に変化していったからだ。
何故、彼はこんな表情をしているのだろう。
どこに笑うような要因があったのか全く分からず、わたしは彼の顔を凝視した。







