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【真珠】『シエル』


 エルの黒曜石の瞳が、不可思議な光を湛える。

 そこにあるのは、思慕の念。

 彼と共に過ごした今日一日── 一度たりと見せなかった、その心。


 思いもよらない言の葉に、エルの手に重ねられた自らの右手が震えた。


 彼はわたしに、何を求めているのだろう。

 想像すらできなかった事態に、鼓動が速度を上げた。



 ──感情を表すことのない人だと言っていたのは『ラシード』?



 出会った当初、伊佐子の魂を望んでいると感じたのは、わたしの錯覚だったのか。



 権謀術数渦巻く王宮生活──彼は本音を隠し、相手を(あざむ)くことすら難なくしてのける日常を送っているのかもしれない。



 わたしを見つめる眼差しが、貴志のそれと重なる。



 今、エルがその瞳に映しているのは──真珠。


 間違いようもない。

 目の前で、彼が望んだのは──わたし自身だ。



 あの時感じた疑問を、何故そのままにしていたのだろう。

 エルはハッキリと言葉にして、わたしに伝えていたではないか。


 シェ・ラへの『音の奉納』の際、彼が囁くようにその口にのせた科白(セリフ)が耳奥に流れる。



 『運命の導きに敬意を示し、我が女神──


   貴女に……()()()()()()()()()()()



 ──神の御前にて、彼は嘘偽りのない心を告げていたのだ。



 あの時、彼が見せた満足そうな笑顔。

 その科白(セリフ)と笑顔に戸惑った、この心。

 ──今やっと、腑に落ちた。



 月が出なければ──おもむろに呟いたエルの言葉がよみがえり、この胸に波紋を広げる。



 嗚呼、そうか。

 天空に月が懸からなければ、あれが最初で最後──彼がわたしに伝えた『真の心』になる筈だったのだ。





 エルが微笑を見せ、その美しい(かんばせ)を夜空に向ける。

 その視線の先には、煌々と光を放つ白い月。



「月は陽光を受けて輝く、太陽の愛し子。

 『伴侶』となる者には光の『祝福』を、心を許したその『伴侶』には月光の『契り』を──私の名を──妻になる者でさえも口にすることのない、この名を……呼んでほしい。

 真名を預ける──それが、この想いの──『証』」



 わたしは首を左右に振りつづける。

 ──どうして良いのか、分からない。



 こんな風に、誰かにはっきりとした言葉で『想い』を告げられたことは一度たりとない。

 そう──貴志からも、音色でそれを伝えられたことはあれど──口にのせて『愛』を囁かれたことは……一度もないのだ。



 心が動転している。

 けれど、答えなくては。


 狼狽えながらも、振り絞るように声を出す。


「う……受けとれない……だって……だって、わたし……っ」


 心も身体も、声でさえも震えが止まらない。

 動悸で顔に熱が集まり、両目にジワリと涙が滲む。

 


 わたしは胸元で輝く『宝物の証』──貴志から贈られたペンダントを握りしめた。



「一度だけでいい──私の名を、貴女に呼んでいただけたら──それだけで本望。

 同じ『想い』を返して欲しい訳ではありません。

 ただ、この『心』のみ、此処へ置いていくことを許していただきたい。それが、私の願い」



 エルの双眸から、『想い』の奔流が流れ込み、わたしの中に満ちていく。


 彼の心に同調しているのだ。

 切ない痛みが身体中を巡り、身動きがとれない。



 どうしたら?

 どうしたらいい?


 エルがわたしの右の掌を、両手で包む。



「私は──この秘匿された真名シェ・ラ・シエル=アルサラームの名に懸けて、月の女神シェ・ティの御前で誓いましょう──私は貴女を護る為に『在る』ことを」



 エルが顔を上げ、動揺で揺れるこの瞳を捕える。


 わたしは何も応えられずに、ただ茫然と佇むだけ。



 この身体の震えに気づいたエルが、苦しげに瞼を細め、わたしの右手からその両手を離した。



「私の願いは、この名を呼んでもらうこと── 一度だけでいい……『シエル』と、ただ一言……」



 シエルと呼べるのは、王族のみ。

 本来であれば敬う意味を込めて『()シエル』と呼ばねばならぬ、王族の名前。


 しかも彼の名は、王族でさえも滅多なことでは口に出すことのできない──隠された名だ。



 彼は何故、この願いを口にしたのだろう。



 貴志を想う自分の姿と、エルの姿が重なった。


 貴志が別の女性を想うことを想像しただけで息が詰まった、あの苦しさ。

 他の女性と歩む未来を思い描いただけで、彼を誰にも譲れないと感じた強い独占欲。



 エルは──どんな思いで、わたしと貴志を見ていたのだろう。



 目を閉じて、深く息を吸い込む。

 取り乱した気持ちを、一刻も早く落ち着かせたい。



 エルの想いに、同じ心を返すことはできない。

 既にわたしの中で芽吹いた貴志への想いは、抑えようもなく枝葉を広げ、この心の中心で大樹に姿を変えている。



 今のわたしが、エルの為にできること。

 それは──



「……『シエル』……」



 彼の望みを叶えること。



 口の端にのぼらせること(あた)わず。

 そう言われ続けていたその名で──彼を呼ぶ。



 わたしには知る由もない、彼等独特の宗教観の世界。

 秘密とされた名前に、エルが抱く思いとは?



 向けられた想いには、応えることはできないが──名前を呼ぶだけであれば、彼の望みを成就させることはできる。



 わたしのこの選択は、間違っているのだろうか?



 真名を呼ぶことなど大それたことだと、拒絶することもできた。

 けれど、それでは──真の心を打ち明けてくれた彼に対して、誠実ではないような気がするのだ。



 彼の名前を『預かる』という意味は、正直よく分からない。

 名を呼ぶ許しを得た、と受け取るのであれば──今だけ。

 この時間だけは、彼の本当の名前で呼んでみよう。



 秘匿された、大切なその名を。

 何度も、何度でも。



 わたしが彼の名を声に出すのと同時に、エルの呼吸が止まり、瞳が大きく見開かれた。



「シエル──シエル……綺麗で、とても優しい響き」



 真綿で包み込むような、穏やかな音の連なり。

 彼の真名は、寛容で、どこか高潔な調べを内包する。



「シエル……誰も呼べないなんて勿体ない。美しい音色のような名前……シエル──シエル? 大丈夫? どうしたの?」



 エルの──シエルの口元が震え、見開かれた黒曜石の瞳が潤んだような気がした。



 その口元を手で覆った彼は、(ひざまず)いた姿勢のまま顔を隠すように(うつむ)く。

 身体が小刻みに揺れ、声を押し殺すように喉から嗚咽が洩れ()づる。



 アスファルトの上に、輝く雫が(こぼ)れ落ち、染みを作ったのは幻か。 




「想いを寄せる者から、真名を呼ばれるというのは──これほどまで……」




 シエルの掠れた声が、その口から洩れた。



 禁じられるほどに、望み、手を伸ばしたくなる人間の不可思議な感情。

 もしかしたら、彼は、幼い頃から──その真名で、呼ばれることを渇望していたのかもしれない。


 肩を震わせるその様子は、何故か幼子のように見えた。



 子供をあやすように抱きしめ、慰めたい衝動に駆られる。

 けれど、彼の想いを知った今──それをすることは、シエルに対して失礼な行為にあたるような気がして、踏みとどまった。



 彼は王族。そして教皇という地位につく──人の上に立つ人間だ。


 落涙するその姿を、誰の目にも触れさせたくはないだろう。


 わたしは彼からそっと視線を逸らし、夜空を照らす月を見上げ、深く息を吸った。





 聖布越しに映った十六夜(いざよい)の月は、いつもより白く透き通り──輝いて見えた。










読んでいただきありがとうございます。

次話は、仮題ではありますが『月の女神の吐息』を予定しております。


貴志クンがそろそろ動き出すかな(ΦωΦ)フフフ…♡



活動報告に、なんと! わたくしめが描いたイラストを掲載いたしました。


理香(貴志の慈悲回のセクシーショット)

紅子(炎の女、リベルタンゴ回の衣装)

真珠&貴志(クラシックの夕べ、最終日)

真珠&エル(聖布をかけられた真珠)

のイラストを載せました。


よかったら見てやってくださいませ〜


https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/2572298/


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『くれなゐの初花染めの色深く』
克己&紅子


↑ 二十余年に渡る純愛の軌跡を描いた
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↑ 少年の心の成長を描くヒューマンドラマ
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