【真珠】貴志、襲来!
(味がしない……)
今日の夕ご飯は、大層なご馳走だった。
今まで縁の切れていたタカシ叔父さんが、我が家にやってくることになっていたから――我が家の女性陣が、腕によりをかけて頑張った力作なのだ。
お祖父さまも、「旨い酒があるから、それを冷やにしておくように」と家族に伝えて、朝からソワソワと何度も台所に顔を出していた。
わたしはその夕飯を、とてもとてもとても楽しみにしていた ――のだが、蓋を開けてみればタカシ叔父さんは、あの「葛城貴志」。
この名状しがたい気持ちを何と呼べばよいのだろうか!?
脳が味覚を伝達できないほどに、わたしの神経は麻痺しているようだ。
美味しいご馳走を食べているはずなのに、まったく味がしない。
これは砂なのか? ご馳走の筈なのに。
(何故だ!?)
昨夜「タカシ叔父さんイコール葛城貴志疑惑」は完全に晴れた筈なのに!
ドンと来い! なんて調子に乗ったから、仏罰でも下ったのだろうか?
あの浅草寺での演奏で、すべてが良い思い出で終わるはずだったのに。
ぐわんぐわんと音を立てながら、頭の中で色々な疑問がまわる。
ちょっと待って。ええ? じゃあ、お祖母さま、本当は身体弱いの? あんなに元気そうなのに?
それに、お祖母さま、旧姓は葛城だったの?
「星川さん」じゃなかったの?
毎年夏に遊びに行く中禅寺湖畔に佇む「星川リゾート」が祖母の実家だ。だから、ずっとわたしは「星川」が旧姓だとばかり思っていた。
少なくとも、5歳の真珠はそう思っていたのだ。
しかも、浅草寺にて、我が家の誰にも似ていないことに安堵し、彼の存在はわたしの中から消えかけていたというのに――完全に油断しているところを、突然襲われたような気分になる。
しかも、貴志め――
玄関で「伊佐子」と呟いて、わたしをその目で認めた筈なのに、あろう事かその後は一切素知らぬふりを通すのだ。
その方が助かる……本当に助かるのだが――なんとなく面白くない。
わたしは、あんなに慌てて変な声を出し、顔に笑顔を張り付けつつも心は滝の汗を流していたというのに。
彼だけは平常心なのだ。
八つ当たりだと言うことは分かっている。が、真珠の五歳児の脳の処理能力の問題なのか、最近――いや、この身体で「前世」を思い出してすぐの頃からかもしれないが、どうも行動及び言動や考えの稚さをヒシヒシと感じる。
我慢がきかなくて辛い。
癇癪を起こさないだけ、まだマシなのだろうか。
なんというか、精神と肉体の年齢差に、双方が対応できていない感じなのだ。今のわたしの対応能力は、中学生? いや小学校高学年がやっとのような気もする。
わたしを視認してから動きの止まった貴志に対して、母に「どうしたの?」と訊かれ、彼はすぐに正気に戻った。
「ああ、昔出会った、この世のものではない女性に似ていたので……」
彼は母へにこやかに答えた後こちらを一瞥し、顔をスッと横に逸らし、口元に手を当ててクッと笑ったのだ。
母は「変な子ね」と不思議そうにしていたが、冷や汗が流れそうになった。
くそう、貴志め。
電波な幼女が、まさか自分の姪っ子だとは思いもよらなかっただろうに、あの余裕のある態度――腹が立つがカッコいいと思ってしまう攻略対象補正に、自分でもウガーッとなるのだ。
己が嘆かわしい。
いや、ダメダメだったのは自分だ。
なんて電波な対応をしてしまったのだろう。
もうどうしていいか分からず、彼が気になって気になって、何度も貴志を盗み見している現状のわたしだ。
少し落ち着けとも思う。
対する貴志は、それさえも絶対に気が付いた上で、素知らぬふりをしているのは間違いない。
掌の上で転がされている感が何とも歯がゆかった。
これか? この扱いを『主人公』は受けていたのか?
恋愛免疫のない女子高生。
こんなことをされたら、気になって気になってコロッと参ってしまうのではないか⁉
いや、わたしも免疫については皆無なのだが、そんなことに思い至る余裕さえもない。
もう知らぬ存ぜぬで通そう。
そう、あのときの真珠は幽霊に憑りつかれていて記憶がないことにしよう。
よし! そうだ! そうしよう!
わたしのただならぬ様子に気づいた兄は、わたしと貴志を何度もチラチラ見ては何か言いたげにしている。
絶対心配をかけているんだと思う。
うう、ごめんなさい。
夕食をすすめていくうちに「貴志はまだ21歳で、叔父さんという年齢でもないから『お兄さん』と呼んだら?」と祖母に勧められ、わたしはそう呼ぶことにした。
「はい、お祖母さま。貴志兄さま」と口に出した瞬間―――穂高兄さまが珍しくフォークを落とした。
そして、ものすごく良い笑顔で「いえ、やはり叔父上に向かって兄と呼ぶのは失礼にあたります。ねえ、真珠?」と言って、自分のナプキンでわたしの口元を拭き始めた。
(え? 汚れてた? 恥ずかしい。おかしいな、気をつけて食べていたのに。ありがとうございます! お兄さま)
まあ、そんなこんなで、結局呼び方については有耶無耶になってしまった。
お兄さまのあの笑顔は、何故か壮絶にこわ……美しかった。
穂高少年のあの純真な笑顔はどこへ行ってしまったのだろう?
でも、高校時代の孤高の美青年を彷彿とさせる、彼のこの表情も素敵だ。
…
実は、この和やかな夕食になる前には、ちょっとした問題も起きていた。
貴志が祖父母に、今までの親不孝を謝ると共に、爆弾発言をしたからだ。
通された和室で両親二人に対して、彼は手をついて謝罪した。
両親とわたしたち子供は、親子の会話を邪魔しないよう遠慮しようと思ったのだが、貴志の希望により聞いてほしいということになった。
知っておいてほしいから、と本人は言っていた。
「父さん、いえ、月ヶ瀬幸造さん……伯父さん、と呼んだ方が良いのかもしれないですが――」
と言葉を濁した。
祖父母は、目を閉じて「ああ、やはり……」という顔をしていた。
「いつから気づいて……?」
祖母が、穏やかな口調で問うた。
曰く、彼は祖父母の実の息子ではなく、甥に当たるらしい。
それに気づいたのは中学生の時。
学校で必要とされた戸籍を取り寄せた時に、どういう物なのだろうと興味本位で封を開けて見てしまったのが始まりだと語っていた。
その頃から、この月ヶ瀬グループを率いていくのは自分ではなく姉の美沙子であるべきだ、との思いが生まれ、その気持ちがどんどん大きくなっていったと口にした。
父との険悪な状態も生じ、ついには家を出てしまったということだ。
「結局、俺は……、いえ、わたしは逃げたんです。すべての責務から……」
貴志は、祖父の弟と祖母の親友との間の子供で、貴志の実の両親が事故で他界し、まだ一歳にも満たない月齢で我が家に引き取られたのが20年前のこと。
「聡いお前が、今まで努力してきたこと全てを投げ売ってまで、月ヶ瀬を出ると言い出したことに疑問を感じていたが、まさか……それが原因だったとは……。済まなかった。お前のことはずっと、本当の息子だと思っていたんだ――だから、話せないこともいくつかあった……本当に申し訳ない」
お祖父さまも畳に手をつき、額づいた。
大事な我が子と思って育ててきた祖母が、中学生の貴志を放って置くことなどできる筈もなく、祖母が自分の実家に引き取ったらしい。
そこで、わたしの曾祖母が「葛城」の姓を残すため、養子縁組をしたとのこと。
ちなみに星川リゾートは、祖母の兄が継いでいるのだが、あいにく跡継ぎに恵まれず、将来は月ヶ瀬グループ傘下に組み込まれることになっている。
何故、祖母のお兄さんご夫婦の養子にしなかったのか疑問に思ったが、どうやら莫大な相続税を払うことになるための対策だったようだ。
大人の世界は難しい。
…
そして、ここで面倒くさいことが起きた――父だ。
「美沙子、実の弟さんではない彼とホテルの一室にいたのか。貴志くん、君を疑うわけでは……ないが、その、美沙子には姉としての気持ちで対応してくれている……と、思っても?」
と、少し震え声だ。
父は、殊に、母に関してだけは、どうしても我慢のハードルを下げられないようだ。
外ではかなり遣り手らしく皆に頼られ、社内には「誠一サマ倶楽部」なるものが存在するらしい。会員には男性社員もいるとのことだ。これは秘書さんがお母さまと世間話しているのを聞いて知った。
「え? 貴志は赤ちゃんの頃からオムツを替えたり、お風呂に入れたりしてたし、何かあるわけないでしょう?」
母も母で、父の嘆きの理由が分からないようだが、貴志はまさか自分が夫婦関係に亀裂を加えた張本人だったとは思ってもいなかったようで、慌てて平謝りしていた。
姉夫婦の見事な相思相愛っぷりに、少し泣きたいようなホッとしたような、そんな顔をしていた彼が印象的だった。
その後、誠一&美沙子の昼メロが始まりそうだったのを祖母が阻止し、夕食まで辿り着いたのである。
なんだか色々と人生というものは壮絶だな、と思った。
後から、お祖母さまの体調が気になり、母と祖母がいる時に聞いてみたのだが、貴志の言っていた「泣いてばかり、寝込んでばかり」は、なんとマサカの更年期――
わたしは思わず力が抜けてしまった。
壮絶な病を押して、気丈に生きているのか? と心配していたのだが、なんというか……少しホッとした。
勿論、更年期障害も大変辛い症状で、人によっては命の危険もあるということは聞いたことがある。
女性のホルモンバランスのサイクルというのは神秘ではあるが、当の本人にとっては本当に辛いものなんだろうな、と思った。
当時、中学生の貴志が更年期障害の症状の辛さを理解できるわけがない。
わたしだって、まだそれがどういう物なのか、想像もつかないのだ。
父は忙しくて家庭を顧みない、と感じてそれに反発し、現れた綻びを修繕できないまま、気づけば親子の絆に大きな亀裂が入ってしまったのだろう。
跡継ぎ問題に悩んでいたことが根幹にあったとは言え、少年時代に苦悩の日々を送ったのだ。話を聞いていて、しんみりしてしまった。
「成長して、やっとあの時の父さんの気持ちが……理解できるようになりました。月ヶ瀬グループ全社員の生活を守るための責務の重さと、大切さも――……今まで、ご心配をおかけして……本当に申し訳ありませんでした」
そう、彼は締めくくった。
貴志は今晩、祖父母とわたしの両親と共に飲み明かすらしい。
わたしと兄は、そんな大人たちを他所に、早々と床についた。
…
その夜、珍しく喉の渇きで目が覚めた。
家族は既に寝静まっているようだ。
キッチンで水を飲んでいると、和室に人の気配がすることに気づき、部屋を覗いてみる。
(あれ? 誰だろう?)
そう思って、開いている唐紙から中を見ると、祖父の浴衣なのか、寝間着代わりにそれを羽織り、縁側に座りながら月を眺めている貴志が視界に入った。
さすが攻略対象――綺麗だなと、そんなことを思いながら、呑気にその構図を堪能した。
布団も綺麗に準備されている。
家族みんなが昔話に花を咲かせ、お酒を酌み交わしている間に木嶋さんが準備してくれたのだろう。
貴志は風呂上がりなのだろうか。
髪に残る滴が、時折ポタリと肩にかけたタオルに落ちていくのが見えた。
酔っているのだろうか、そこはかとなく上気した顔が艶めかしい。
そんなことを考えながら貴志を覗き見ていたら、視線を感じた彼がわたしに気づいた。
(しまった――)
大仰に肩をビクッと跳ね上がらせて、わたしは固まる。
(うっとり見惚れている場合じゃなかった!)
貴志はゆっくり歩いてきて、鴨居に手をかけ、そこに寄りかかりながら、わたしを見下ろした。
「ああ……、やっと来たな。真珠……いや、伊佐子?」
彼は色気だだ漏れの笑顔で、わたしの腕を取りグイッと部屋に引き入れた。
「な……ナンノコトデショウカ? タカシオジサマ?」
引き攣る笑顔と上擦った声で、そう言葉を紡ぐのに必死になるわたしを他所に、貴志は後ろ手の襖をパタリと締めた。







