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【真珠】『色』と『欲』


 時々、後ろを振り返りつつ、わたしは前を進むエルを追いかける──彼の語る言葉に耳を傾けながら。



「大人の魂と子供の器。その均衡の危うさは、男を惑わす。お前が生み出す不可思議な色香が、自らの『欠け』を補おうとする男を誘うんだ。わたしの聖布で身を隠させたのは、今夜のお前は特にそれが顕著だから──何かが起きる予感はあった。だからお前たち二人に忠告もした。

 ……貴志と、今宵(こよい)、何があった?」



 エルはこちらに視線を向けることなく、前へ前へと歩いていく。



 彼が貸してくれた黒の聖布を頭から被ったわたしは、その言葉を聞き、咄嗟に口元を抑えた。



 貴志と過ごした時間──結局、彼は唇で肌に触れてはくれなかった。


 焦らされるたびに、燻る熱が身体を支配した。

 その慰めかたも分からずに、眠る彼の隣で身体の熱を持て余し、寝付けずに苦労したのだ。



「何もなかった──何もなかったから、身体に熱が溜まっているんだと思う」


 問いに対する答えを小さな声で呟くと、エルは突然立ち止まった。

 わたしもそれに合わせて歩みを止め、彼を見上げる。


 エルは振り返ると、驚いた表情を見せた。


「昼間、あれだけ教えろと恥ずかしげもなく(わめ)いていたが、お前は……どうやって理解したんだ?」


 貴志と交わした会話で理解できたのだけれど、その内容を伝えることは(はばか)られ、わたしは押し黙る。


 あれは二人だけの秘密の話だ。

 誰にも伝えることはないし、わたしにとっては、貴志の心を理解できた宝物のような時間。


 この件に関してだけは、問われても答える気はなかった。


 エルは真剣な眼差しをわたしに向ける。



「いいか? 真珠。ひとつ忠告しておく。今後、お前の『欲』が消化しきれていない状態で、酒気を帯びた男には近づくな。

 酒精は神とつながる聖なる水だ──それはお前の真実の姿を暴き、男を惑わせる。お前の心と身体を(けが)されたくなければ……心しておくんだ」


 お酒?


 エルの語った内容は、漠然としていて、完全には理解できない。


 でも──


「貴志は今夜、お酒を……ワインを一杯だけ飲んでいたよ? それでも、何も……」


 何も無かった──そう反論しようとして、ハッと息を呑む。


 いや、違う。

 いつもだったら貴志は『触れたい』などと言わない。



「貴志は飲んでいたのか!? お前は……身の内にそれだけの『欲』を抱えて、よく無事で……いや? 本当に何もなかったのか?」



 エルがその手を、聖布越しにわたしの頭の上に載せる。

 彼の(まなこ)を彩る黒曜石の双眸が、気遣わしげに揺れた。



「貴志がお前に危害を加えるようなことをするとは思えない──が、普通の男であれば、理性が呑み込まれ、正常な判断がつかなくなる。

 酒に宿る神気と、お前という似て異なる(ことわり)に生きる魂──この危うい揺らぎは、男女という性に別れ不完全に造られた人間にとって、媚薬のようなもの」



 エルが案じてくれた内容に、わたしは慌てて(かぶり)を振った。



「貴志は! そんなことしないよ。わたしが望んで……もっと触れてほしいとお願いしても……直接触れてはくれなかった。……許されたのは、同じベッドで眠ることだけ」


 わたしの言葉にエルが目を見開き、声を大きくする。


「真珠!? まさか、お前は……酒を摂取した貴志に、関係を求めたのか!?」


「待って! 関係って……少しだけ唇で触れてほしいってお願いしただけだよ。頬とか、顔に触れてほしくて……でも、髪にしか触れてはくれなかった……それに、わたしは今はまだ子供だし、大人になったら──」


 朝まで熱を交わす約束をとりつけた──そう口をつきそうになり、慌てて言葉を止める。



「お前がそこまでの『色』を見せても、貴志は何もしなかったというのか……」



 エルは溜め息をついて、わたしの頭頂に置かれていた手を動かした。

 まるで出来の悪い子供を、仕方がないと呆れながら撫でるような仕草だ。




「『目』は、その者の魂を映す鏡だ──異国の故事にもそんな言葉があるだろう? 貴志から、何か言われたことはなかったか? あいつは──あいつも『正しき心』を持つ男。おそらく誰よりも鋭敏な感性で、お前の真実の姿を見抜いている筈だ」


 『目は心の鏡』──たしか……『孟子』の言葉だったろうか。


 貴志が先日、口にしていた言葉を思い出す。


『子供として扱うのと、その『目』をしたお前を抱きしめるのは、意味が違うんだ』




 エルの手が頭上から離れ、再び二人で歩き出す。


「真珠、お前の姿──おそらく、今夜の貴志の目には『女』の姿に映っていた筈だ。何も起きず、お前が無事だったことのほうが奇跡に近い。

 あいつの……鋼鉄の理性に救われたな。

 触れることさえできないほど、お前を大切にしていることが──証明されたと言うわけだ。これ程の想い……これでは、わたしには──」


 彼の言葉は最後、独白めいていたため、すべてを聞き取ることができなかった。


「エル? ごめんなさい。最後、なんて言ったの?」


 わたしの問いに、エルは一瞬だけ躊躇(ためら)いを見せた。

 けれど、それは気のせいだったのか。


「いや──何でもない。とにかく、その『欲』──劣情を抱えた状態で、酒を口にした男の近くには絶対に寄るな──通常の状態でさえ、危ういんだ。魂と器の均衡がとれるまでは、必ず守れ。分かったな」


 わたしは黙って首肯した。











エルは真珠の身を案じますが、貴志の鋼鉄の理性によって、真珠が守られていたことを知りました。





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