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【真珠】『白』から『黒』へ


 玄関扉を開けると、恭しく胸に手を当てたエルに迎えられた。


 金糸と銀糸で刺繍の施された黒衣の神官装束は、高貴なエルの佇まいに花を添える。


 まるで『月の化身』そのもののようだ。


 先ほど、モニターに映った彼は、とてもにこやかな表情をしていた。


 けれど、面を上げ、わたしを目にした瞬間、その表情が唐突に変わる。そこに見えたのは困惑の光。


「真珠……この『色』は、いったい……いや……『欲』か?」


 こちらを見つめて動かなくなったエルが、戸惑いの相好で意味の分からないことを呟いた。


「エル?」


 彼の態度を訝しく思いながら、わたしはその瞳を見つめる。


「いや……何でもない。真珠、少しだけ私に付き合ってもらいたい。貴志には──私と共に屋上へ行くと── 一言、書き置きを頼む 」


 エルの願いを聞き入れるべきかどうか迷ったけれど、わたしはそれを断る選択をとる。


「ごめんなさい。行けないよ。勝手に部屋から出るわけにはいかない。それに、どうして屋上?」


 わたしがこの部屋にいないことに気づいたら、貴志はきっと心配するだろう。

 彼に一言もなく、部屋の外に出ることはできない。



「月が出たら──」



 エルが、何事かを呟いた。

 けれど、その声はこの耳に届かず、わたしは問い返す。


「え? 何か言った?」


 エルは、静かに語る。


「もしも──天空に月が現れた時は、真珠を連れ出す、と貴志に許可は取ってある。

 お前が眠っている間──地下鉄の中で、詳細は伝えた……『儀式』を執り行うために」



 そういえば、貴志に怪我をさせてしまったことですっかり失念していたが、いつエルたちと別れたのだろう。



「それから、ひとつ質問だ。貴志の怪我の具合は、どうだ?」


 地下鉄の旅から戻り、この意識が覚醒したのは部屋に戻ってから暫くしてからだった。


 わたしが貴志の首に噛みつき怪我を負わせたのは、ホテルに到着し、車から降ろされた時。

 その時点で、エルとラシードはわたし達と一緒にいたはずだ。


 貴志の傷を、エルはその目で確認しなかったのだろうか。


 そう思いながらも、貴志から聞いた噛み痕の状態をエルに伝える。

 ベッドの中で首の傷が心配になり、貴志本人に確認をとっていたのだ。



「貴志が寝入る前に『血も完全に止まったからもう大丈夫だ』と言っていたよ」


 その言葉にエルがホッとしたような表情を見せ「ならば、明朝であれば、おそらく会うことができるな」と独り言ちる。


「心配なら、今、起こす? そうしたら、わたしも貴志に断ってから屋上に──」


 部屋の中に戻って、貴志に起きてもらおうと踵を返そうとしたけれど、その腕をエルに取られ──遮られた。


「エル?」


「すまない、真珠。流血は穢れ──わたしは今宵、貴志の傍に近づくことができない。

 これから行う『儀式』は、特に禊を必要とする。だから、貴志が目の前で怪我を負っても、私はどうすることもできかなかった……近寄ることさえ適わず、あの場で別れたのだ」


 禊を──身を清めることが必要になる程の儀式とは?


 『月が出たら』と、彼は言っていた。

 それはいったい、どんな儀式なのだろう。


 わたしが戸惑っていることを感じ取ったエルは、少しの情報を開示する。



「秘匿された……教皇のみが扱うことを許される──命を預けるに等しい……神聖な儀式だ」



 エルは真摯な面持ちで、それだけを告げた。



 彼の様子に嘘は見えず、おそらく貴志にも事前に断りをいれているのだろう。

 そうでなければ、書き置きしてほしい、などとは頼まないはずだ。


 何故か、このエルの願いは聞き入れなくてはいけないような気がして、熟考した後に承諾する。



「貴志に、会えない理由はわかった──少し待っていてくれる?」



 エルを廊下に残し、わたしは準備をするため、一旦部屋に戻った。



          …



 廊下に足を踏み出してすぐ、エルはその身に纏っていたドゥパッタに似た長いショールを外す。


「真珠、これを」


 彼はそれだけ言うと、黒い薄絹のようなそれを、わたしの頭からすっぽりと被せる。



 貴志から贈られた寝間着──白いドレスは、あっという間にエルの黒衣に塗り替えられた。



 そういえば、貴志の持ち物も黒が多い。

 この胸に宿る人物に思いを馳せたところ、昼間、彼から教えてもらったアルサラームの禁色のことが脳裏をよぎった。



 黒──王族と高位神官のみに許された、太陽神シェ・ラを示す色だ。


 わたしは焦りながら、黒衣の着用を固辞しようとした。



「え? 駄目だよ。黒は、特別な色なんでしょう?」



 ショールを慌てて外そうとしたけれど、エルが目の前に跪き、その手でわたしの手を包んで制止する。



「──今のその姿を、他の男の目に触れさせるわけにはいかない。お前の身体には消化しきれていない『欲』が溜まっている。自分の身を守りたいと思うのならば、念の為だが──その布で身を隠してくれ。貴志の為にも……私の為にも。頼む」



 懇願に近い、エルの切実な願い。



 そう感じたわたしは、困惑しつつも、そのまま黙って黒の衣を身に纏った。


 わたしが了承したと判断したエルは、音もなく立ち上がり、先に歩き出す。


 彼は数歩進むと振り返り、ついて来いと、こちらに手を伸ばす。


 わたしは促されるまま、彼の後を追うようにして屋上へ向かった──時折、後ろを気にしながら。





挿絵(By みてみん)

真珠&エル




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