【真珠】情熱的な所有印
「真珠、ほら、買って来たぞ」
紙袋を持った貴志が、駅のホームを走ってくる。
その手に持っているのは、なんと!
「『芋恋まんじゅう』! 探してきてくれたの? ありがとう」
先ほど池袋にて、わたしが食べたいと洩らしたことを覚えていたのだろう。
どこで購入したのか分からないが、手渡された袋を開けると、中からは出来立てホヤホヤ、湯気の立つ饅頭が現れた。
「真珠、手を伸ばしてつかまれ。到着だ」
貴志が手を広げ、抱き上げようとする。
到着?
電車がホームに到着でもするのだろうか?
いや、でも電車が滑り込むような気配は一切ない。
わたしはお饅頭を手にしたまま、貴志に促され、彼の首に腕をまわした。
大切に抱きしめられ、胸の奥に温かさが生まれる。
何故だろう。
いつにも増して心地よい。
「貴志、このまま抱っこしてもらいながら食べてもいい? 折角だから温かいうちに食べたい」
お行儀が悪いかな、と思いつつも確認すると、貴志は優しく微笑んだ。
その笑顔を質問の答えと受け取り、わたしはお饅頭の包みを丁寧にあける。
「ありがとう。いただきまーす!」
わたしは嬉しさに、手にした『芋恋まんじゅう』に噛り付いた。
その瞬間、貴志の深い呻き声が耳に届く。
硬い何かが咬合の邪魔をし、蒸かしたサツマイモと餡子の絶妙な甘さは──何故か味わえなかった。
…
貴志の手によって、わたしはソファに置かれたようだ。
彼はジャケットを脱ぐと、次いでVネックのシャツにも手をかける。
一気に上半身裸になると、ソファに座ったわたしの上に覆いかぶさるようにして瞳をのぞき込んだ。
近い!
近い近い近い!
わたしの唇に、貴志の熱い視線が注がれている。
食い入るよう見つめる彼の視線と共に、冷たい指先がこの唇に触れた。
薄い皮膚の上をなぞる指の動きに心奪われ、背筋がビクッと跳ね上がる。
何が起きているのだろう。
靄がかかったような頭の中は、依然活動を停止したままだ。
貴志の指が唇を割り入るように、徐々に口内に侵入する。
「真珠……口を開けてくれ」
懇願するような焦れた響きを宿した声が、耳の奥をくすぐる。
わたしは熱に浮かされるように、ゆっくりと口を開けた。
彼の指先が歯列をなぞり、昼間感じた不可思議な熱が、再び体内に宿る。
貴志もエルも、何も教えてはくれなかったけれど、これは脳内を麻痺させるような危険な感覚だ。
「ふぅ……、ん……」
わたしは激しく動揺中。
貴志の裸体を見たからということもあるけれど、それだけが原因ではない。
口の中を直接触れられて、口腔内をいいように弄ばれているこの状況。
心に生まれた背徳感が、何故か胸を熱くするのだ。
何故、こんなに疚しさを覚えるのだろう。
不可思議な気分に、心拍数が上昇し始める。
うっとりするような痺れと、とろけるような感覚が身体の中心に生まれ、抗い難い欲求が生まれる。
身を寄せ合うよう、貴志に抱き着こうとした瞬間──彼はホッとした表情を見せると、スッと身を引いた。
「眠そうな目をして……まだ寝惚けているのか? 口は拭いたが、まだ血が付いている。今見たところ、歯は大丈夫。欠けは見当たらない。口の中も無傷だ」
へ?
わたしは回らない頭で、必死に今の状況を整理する。
「そういえば、芋恋まんじゅうは……?」
最初に思い出したのは──悲しいかな、先ほどまで手の中にあったお饅頭のことだった。
貴志はわたしの呟きを耳にして、苦笑いだ。
「送迎車でホテルに到着して、お前をシートから抱き起こした瞬間、いきなり『いただきます』と元気な寝言が聞こえた──そして、この有り様だ」
そう言って、貴志は左の首筋の傷をわたしに見せた。
歯形がついている。
そして、ちょっぴり血も滲んでいる。
貴志はわたしからさっさと離れると、消毒用滅菌ガーゼに透明な液体を滲みこませ、左の首を拭っている。
「真珠、お前は口をゆすいで来い。手もしっかり石鹸で洗って、うがいも忘れずにしろよ」
貴志がお母さんのようだ。
そういえば、電車の中にいたはずなのに、ここはどこだろう?
ボーッとする頭で周囲を見回すと、既にホテルの部屋に戻っていることがわかった。
あれ?
わたしは電車に乗り、貴志に抱えられたまま眠ってしまったのだろうか。
乗り換えをした記憶も、まったくない。
駄目だ。
頭が働かない。
この期に及んで、いまいち何が起きているのか理解できていない。
洗面所の奥にあるバスルームから台を運び、その上に乗って鏡をのぞき込む。
唇の一部が、ほんのり赤い──血で染まっているのだ。
指示された通り、手洗いうがいをしたが、血の色だけは何故か唇にこびりついたままだった。
やってしまった。
わたしは、貴志に噛みついてしまったのだ。
それも──饅頭と間違えて。
どうしよう。
怪我をさせてしまった。
急速に覚醒し、謝罪しなくてはと青くなる。
慌てて貴志の元に戻ろうとしたところ、洗面所の開け放たれた扉から貴志が顔を出した。
「貴志、ごめんなさい。わたし、今やっと状況把握ができた。痛かったでしょう? 本当にごめんなさい」
彼は立ったままなので、今は首の傷は見えない。
「俺は大丈夫だ。お前は痛いところはないか?」
「わたしは大丈夫。でも、さっき貴志の首にクッキリ歯形がついてた……」
落ち込む声音を拾った貴志が、元気づけようとしたのか悪戯に笑う。
何故が艶のある笑顔で、こちらがドキリとする。
「まるで所有印だな──それも、いささか情熱的な」
貴志はわたしに罪悪感を与えないように、そんな軽口を叩いているのがわかった。
わかったのだが……わたしは赤面し、上手い返答が見つからない。
「お前が大丈夫なら、それで良い。少し汗を流したい。そろそろ、いいか?」
わたしはコクリと頷き、居間に戻ろうと彼に背を向ける。
扉を締めようとした瞬間、貴志から呼び止められた。
「真珠、まだ疲れているならベッドで寝ていてもいいぞ。でも、体力的に余裕があるなら、シャワーを浴びた後、少し話しておきたいことがある」
…
ソファに蹲って、膝を抱える。
ベッドで眠ってもよいと言われたが、貴志の言った『話したいこと』が気になり、居間で待つことにした。
ソファの背もたれには、彼が脱いだシャツが掛かっている。
わたしはそれを手繰り寄せた。
うっすらとではあるが、血液が滲んでいる。
申し訳なさに、そのシャツを抱きしめ、わたしはソファに倒れ込んだ。
シャツからは安心する匂いが──貴志の香りがした。
ありえないだろう。
──貴志を饅頭と間違えて、噛みつくなんて。
いくら食べることが大好きとは言え、残念にも程がある。
…
どのくらいの時間が経ったのだろう。
ポタリ──滴が頬に落ちた感覚が伝わった。
瞼をそっと開けると、貴志が至近距離でわたしを見つめていた。







