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【余聞・『紅葉』手塚実】葛城貴志の秘密


 首の噛み痕については、これ以上の詮索不要とのことで、葛城は何も話してくれなかった。



「お前がおかしな想像をしていたのは分かった。誤解をとくために言っておくが、シャワーを浴びたのは外から戻って、汗と……血を流したかったから。遅れたのは、父から呼び出しを受けて、今の今まで千景さんを含めて話をしていたんだ。真珠との婚約を回避する為に……」



 少し遠い目をして、葛城は穏やかに笑った。



「真珠さんに対しては、世間に顔向けできないことをしていないならそれでいい。

 それよりも、婚約回避? お前、彼女のことを相当気に入っていただろう?

 まさか、まだ自分の気持ちに気づいていない……ということでは無さそうだな……」



 俺の言葉に葛城は、目を見開いて驚いた表情をみせた。



「俺が自分の気持ちを自覚する前に、手塚に気づかれていたとはな。

 ……あんなに幼い少女に対して……おかしいと思うか?」


 葛城の言葉に俺は首を振った。


 ──思わない。


 普通の子供に対しての想いであれば、正気を疑う気持ちだ。



 けれど、俺は──彼女を知っている。



 共にいれば、いつしか心を奪われ、溺れるような感覚に足もとを掬われる。


 あの、衝撃を経験している俺は、葛城の抱く気持ちをおかしいとは思わない──いや、思えない。



「俺は、彼女を大切だと思った。それは事実だ。真珠が大切だからこそ……この婚約は、できることなら……回避したかった」


 どういうことだろうと思い、俺は首を傾げた。


 最初のきっかけは一時的な契約とはいえ、それを保持し続ければ、将来的に彼女を手に入れることも出来るというのに。



「俺は、自分だけの力で伸し上がり、月ヶ瀬の要のひとつとなりたかった──周囲に実力を認められて、彼女を手に入れたかった。だが……」



 葛城は逡巡し、次の言葉を選んでいるように映る。



「手塚は……俺の本当の両親のことを知っているか?」



「本当のって……養子縁組する前だろう? 月ヶ瀬会長と千尋(ちひろ)夫人のことか?」


 葛城は目を閉じ、首を左右に振った。


「父と母は、血縁的には伯父と伯母にあたる。本当の父親は、月ヶ瀬幸造の弟──月ヶ瀬正幸(まさゆき)。名の知れたチェリストだったらしい。

 俺もついさっき、父と千景さんから初めて本当の両親の話を聞いて、少し……驚いている」



 自分の中で消化したいのだろうか、葛城は俺に話すというよりは、己を納得させるために語っているようだった。



「月ヶ瀬正幸は、兄である幸造と共に月ヶ瀬の仕事を担いつつ、音楽活動を続けていたらしい。二足の草鞋を履く生活と、その過労が祟り、妻が──俺の実母が同乗する車で、ハンドルの操作ミスを起こし……転落事故で他界した。俺が一歳の頃の出来事だ」



 衝撃的な内容に、上手く言葉が出てこない。

 それでも、何とか反応しようと、必死に口を開く。



「それは……申し訳ないが、俺も知らなかったよ。そんなことがあったとは……」



 葛城はそこで一呼吸置くと、珈琲を口にした。

 コイツも心を落ち着けようとしているのだろう。



「父は全てお見通しだった──俺は月ヶ瀬の駒になることを受け入れはしたが、『音楽を捨てる気はないのだろう?』と指摘された。

 父は俺に、弟・正幸の影を重ねている。助けられなかった悔いが、今でも残っていると詫びていた。

 あの頑固な父が、俺に頭を下げたんだ。それも千景さんの目の前で──それだけで、充分だ」



 月ヶ瀬会長は葛城に、本当の父親と同じ不幸な道を辿らせたくない、と伝えたようだ。


 経営と音楽。両方を選ぶのは至難の道──亡くした自分の弟と同じ人生を突き進む葛城を、心配しての親心。


 音楽の道を望むのならば、少しは親に手助けをさせてくれ──茨の道を進むのだけが人生ではない……と、葛城を説得し、おそらくコイツもその意見を受け入れたのだろう。


 取り留めなく語る葛城の姿をはじめて目にしたが、人間味に溢れていて、何故か好感が持てた。



「父が頭を下げたんだ。ここで自分の意見だけを押し通し、反発し続けたのでは、昔の……月ヶ瀬を捨てた頃の──幼い俺と何ら変わらない。清濁併せ呑むことも時には必要だと、今更ながら分かった」



 覚悟を決めたような表情をする葛城は、一皮むけたような清々しい笑顔を見せる。



「だから、お前の質問に対する答えは、こうだ──俺は真珠と一時的であれ婚約を結ぶ。手塚、お前はそれを確認したかったんだろう?」



 俺は葛城の問いに首肯した。



「そうか……葛城自身が納得しているならそれでいい。でも、真珠さんは? 婚約という状況。幼い子供なら理解できないだろうが、彼女は……」


 少し厳しい表情をして、葛城は口元に拳を当てる。


「ああ、真珠には少しだけ話した。父からの呼び出しが入って、途中になっているが──夕食後に話す時間を設けてある」


 それだけ言うと、葛城はカップの珈琲を飲み干した。

 俺もそれに倣い、残った琥珀色の液体に口をつける。


 時計を確認した葛城が、スーツのボタンを留め、身支度を整えた。


 定例会議までには、まだ時間がある。

 他に何か予定でも入っているのだろうか。



「手塚、ちょっと付き合え。例の会議に出席する前に、ホテル内の宝石店で見繕いたいものがある」



 葛城の口から意外な科白が放たれた。


 随分とマメな男になったものだ。

 昔の彼と比べると、そのギャップに驚愕さえ覚える。



「まさか、婚約指輪か? 子供向けなんてあるのか? 見たことないぞ」



 俺の茶化すような言葉に、葛城は悪戯に笑ってから席を立つ。



「数年で解消される一時的な契約だ。婚約指輪を贈るには、まだ早い。だが、恒久的なものではないとしても、気持ちだけは、形に残しておきたい。俺から彼女に向けた……ささやかな贈り物だ」



 残りの珈琲を飲み干した俺は、葛城に続き席を立つ。



 昔からの友人が、初めてその心に住まわせた──愛する少女へ渡す、大切な贈り物を選ぶのだ。



 これに付き合わない手はない。



「今、行く。ちょっと待ってくれ」



 手早く荷物を整えた俺は、葛城の後を足早に追った。





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