【真珠】音色捧げの『パヴァーヌ』 前編
エルの祝詞が部屋の中に響き渡る。
わたしは貴志に抱き上げられながら、エルの動きをじっと見つめていた。
太陽神シェ・ラへの奏上を終えたエルが、わたしと貴志に視線を移す。
その眼差しは、揺るがぬ穏やかさを湛えていた。
「若くして、散る……自分の運命を受け入れていたつもりでした。この曲の中で息づく古の時代の王女のように、私の生きた軌跡が、誰かの心の中に残れば……それで本望だと──そう言い聞かせ、この曲を心の支えにして、生きてきたのです」
古の王女──スペインの王女マルガリータを指すともいわれているが、実際のところ、ラヴェルが本当に彼女をモデルにして作曲したのかどうか、正確な文献は残っていない。
十三歳で嫁ぎ、父親フェリペ四世の死後、滅亡へと辿る祖国を目の当たりにし、失意のうちに亡くなった悲劇の王女。
──彼女が早逝したのは伊佐子と同じ二十二歳の時だという。
その王女の幼き頃の無邪気な肖像画に感銘を受けたラヴェルが作曲したと言われているこの曲──だが、ラヴェルの言動を見るに、真実は薮の中だ。
わたしがエルをじっと見つめていたところ、彼はとても柔らかな笑みを返してくれた。
出会った時点では、彼の心からの笑顔をこの目で直接見ることができるとは思いもしなかった。
神聖さを湛えた微笑みは、わたしの心に小さな明かりを灯した。
エルは落ち着きのある声音で、囁くように語りかける。
「運命の導きに敬意を示し、我が女神──
『貴女に……この音色を捧げましょう』」
その言の葉は、伊佐子の魂に向けたものなのだろうか?
それとも──
『この音色を君に捧ぐ』──エルの言葉は、ゲーム本来の使い方ではなく、シェ・ラへの『音色捧げ』に掛けているだけかもしれない。
彼の真意が分からず、少しの混乱と戸惑いに、わたしは息を呑んだ。
驚きに色づいたこの表情を確かめたエルは、満足げに笑う。
彼は目を閉じ、今度は静かに息を吐き出していく。
次に瞼を開けた時、彼の視線は既に鍵盤へと注がれていた。
…
まるみを帯びた柔らかな蛍火が、エルの長い指先から幾つも生み落とされる。
貴志と奏でた『チェロ協奏曲』伴奏時の華々しさとは全く異なる、慈しみにあふれる音色だ。
穏やかな音の粒が、胸の奥底に向かって深々と降り積もる。
沈むのではなく、そっと寄り添うように沁み込み、気づくとその温かさが胸全体に広がっているのだ。
エルが真摯に奏でるのは、泣きたくなるほどに優しい音色。
憂いの中にほんの少しの明るさを灯した、どこか懐かしさを覚える旋律。
彼の爪先からこぼれ落ちた淡い光が、楚々として流れ出し、そこかしこへと散らばっていく。
わたしは、本当のエルを知らなかった。
『この音』の中では、既に故人となっていた人物。
自国を愛し、その発展に力の限りを注ぎ、夭折した第三王子。
その為人は、『ラシード』が『主人公』へと語った言葉から窺い知るのみ。
常に己を律し、他者を思いやる人物──『ラシード』が『主人公』へ伝えたエルの人物像は、それだ。
エルは弟である『ラシード』に、王族としての在り方を説き、彼を良き方向へ導こうと尽力した『慈愛の人』として語られていた。
けれど、『ラシード』が説明した人物像と、今日の彼の態度は一向に結びつかなかった。
──貴志に対しての彼の振る舞いが、わたしを混乱させたのだ。
それは『嫉妬』から生まれたものだと、エルは胸の内を吐露していたが、理由はそれだけではなかったのかもしれない。
図らずしも彼は、貴志にだけは仮面を外した本当の顔で、飾ることのない自分自身を見せていたのではないかと、今では思う。
エルにとって貴志は、生涯でほんのひと握り出会えるかどうか──自分の感情を表すことのできる、心を許した相手なのだろう。
そのことに気づかず、わたしはエルに対して不穏な印象を持ってしまった。
恐怖と勘違いした、畏怖。
どこか胸騒ぎを覚えた、言動。
今なら分かる。
いや、この音色を聴いてやっと理解できた。
エル自身も、戸惑いを覚えていたのだ。
──貴志に対してだけ、律することのできない自分自身の感情に。
その事実に困惑し、苛立ちを胸に秘めながら、わたし達に応対していたのだろう。
普段のエルはおそらく、ラシードと『ラシード』が語ったように、感情表現をあまりしない人間なのだ。
ラシードも言っていたではないか。
──わたしのことを『貰い受けてもよいと言っていた。誰かに興味を示すのは初めてだ』と。
──貴志が断片的な記憶を思い出した時に見せた、エルの様子に対しても、『あんなに嬉しそうな顔を目にしたのは、初めてかもしれない』と。
幼い弟の失敗にも激怒することなく、諭すことで理解させようとしたエルの控え目な姿を思い出す。
高圧的に叱りつけるのかと思っていたのだが、穏やかに説く姿にわたしは違和感を覚えた。
けれど、あれが常の──本来のエルの姿だったのだ。
それは国民の模範となる王族としての振る舞いから生じたものだけではなく、人々の心の拠り所となるアルサラーム神教の教皇としての立場も影響していたのではないだろうか。
常に人々を導く存在であらねばと、模範となる態度を己に課し続けたエル。
わたし達が目にしていた彼は、仮面をつけ続けた常日頃の彼ではなく、ひと握りの人間だけが知る、本来の彼自身の姿だったのだ。
己の感情を隠すことに長けていたエルが、貴志の前でだけはそれが適わなかった。その事実を知って、わたしは胸をなでおろす。
今後のエルにとって、貴志との再会は良い方向に働くのではないかと感じたからだ。
孤独だった彼の心を、貴志の存在が支えとなり、慰めることができたのならば良いな──素直にそう思えた。
不安定だったエルの心が奏でる、調和のとれた旋律に耳を傾ける。
彼の爪弾く音色は、どこまでも優しく美しい。
わたしは寛容な温もりに揺蕩う感覚に浸り、そっと目を閉じた。
『亡き王女の為のパヴァーヌ』
ピアノ演奏↓
https://youtu.be/cwL4nSb9am8
オーケストラも素敵なのですが、おすすめできる動画を探せず(;´Д`) よい物をご存知でしたら教えてください〜!
ラヴェルはこの曲に対して生涯褒めることはなく、どちらかと言うと酷評することが多かったようです。
けれど、晩年、記憶障害に悩まされていた時に、この曲を聴いたラヴェルは『なんと美しい。誰が作った曲なのか』と語ったとか。
大切な思い出を潜ませた曲だったのかもしれないですね。
今話は、2500文字前後で纏めてみました。
次話
【真珠】音色捧げの『パヴァーヌ』 後編
は、現在推敲中。
明日の夕方前後で更新できるよう頑張ります!







