【真珠】貴志とエルの『コンチェルト』 3
厳粛でありながらも、不穏な鳴動を生み出すピアノの音色がその場を席巻する。
ピアノが謳う前奏八小節に圧倒され、わたしはエルの世界に魅せられた。
その旋律を引き継いだ貴志のチェロが、深い溜め息を洩らす。
初音が耳に届いた瞬間、わたしの全身の肌が粟立った。
──その音色は、切ないまでの窮愁の叫び。
これは、不安と猜疑に苛まれた、心の闇を表す負の音色。
今まで聴いたことのない懊悩の調べが心の奥深くへと突き刺さり、わたしは胸元で両手を強く握りしめた。
最後の審判を下すかの如き──ピアノの唸り。
その旋律が責め立てる感情とは?
苦悩と煩悶に染まる──チェロの咆哮。
終末の断罪に懺悔する、その心とは?
初めて聴いた。
負の感情を宿した、貴志の音色を。
今まで、彼が届けてくれた音色は、どれも温かなものばかり。
『森の静けさ』の、希望の輝き。
『リベルタンゴ』の、激しい情熱。
『Je Te Veux』の、穏やかな陽だまり。
『スケルツォ』の、寛容な許し。
けれど、この『チェロ協奏曲ニ短調』は、それらとは真逆。
──まるで、絡みつく心の闇だ。
この世の全ての理は表裏一体だと、どこかで耳にした。
微かな明りの中では影薄く、光が濃ければ闇深くなる。
正と負の感情も、おそらく同じなのだろう。
絶望を知るからこそ、希望を手にした時の喜びは計り知れない。
彼はこれほどまでに深い愁いを知るからこそ、対極にある──あの慈愛あふれる音色を生み出せるのだ。
ああ──貴志の『音楽家』としての未来は間違いなく変わる。
彼の爪弾く音色、音程の正確さ、込められた情感──すべてに於いて『この音』の『葛城貴志』を凌駕している。
これは、一介の奏者の奏でる音ではない。
──紅子に匹敵する演奏技術だ。
近い将来『世界の葛城貴志』と言われても不思議のない卓越した実力を、彼は既に手中に収めている。
もともと地道に努力をし続けてきた比類なき技術に、その心が追いつき、奇跡のような音を紡ぎ始めたのだ。
身体が熱くなる。
心拍数が上がる。
ああ、負けていられない。
彼の音色に呑まれるだけの、矮小な自分になってはいけない。
貴志の隣で胸を張り、共に立てるよう、一層の研鑽を積まなければ、自分の心が納得しない。
ただ隣で笑うだけでは駄目だ。
努力して、努力して、納得の上で彼と向き合いたい。
──そうでなければ自分に自信が持てず、不安に圧し潰されてしまう。
想いの息吹が込められた調べに、わたしの心が呼応する。
昏い闇の底から、遙か高みの光へ手を伸ばそうとする演奏に、この心が囚われる。
彼の音色が聴く者の心を動かすのは、深い悲しみも大いなる喜びも知っているから。
闇の中を彷徨うチェロの音色。
彼が求めるのは──希望の光?
負の感情さえも包み込む輝きを求め、その音色がわたしに向けられていると感じたのは錯覚だったのか。
もしかしたら、彼に求めてほしいと希う、わたしの願望が見せた幻なのかもしれない。
けれど、もし、貴志が光を求めるのならば──わたしは彼を照らす『希望の光』になりたい。
チェロの切なる願いを継ぎ、ピアノの調べが華々しい音で飾る。
荘厳な旋律が室内を支配し、闇の終焉を迎える最終小節に辿り着く。
残響が消えた室内。
貴志が何かを求めるような眼差しで、わたしの姿を探した。
交錯する瞳と瞳に、心の震えが止まらない。
いますぐにでも、その腕の中に飛び込みたい衝動に駆られたけれど、彼の圧倒的な演奏の前に身体が動かない。
わたし達は、ただ見つめ合うことしかできずにいた。
この首に絡みつくラシードの腕が、力強さを増したのは、その時のことだった。
最近、1話の文章量が多くなり、隙間時間で読んでいただいている読者様にはご不便をおかけしているかもしれないと案じ、試験的に2000文字以内で投稿しております。
(読みやすい長さを模索中です。)







