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【真珠】ラシードの誓い


 貴志とエルが、それぞれの楽器の準備を始める。


 エルはピアノで指慣らしをはじめ、貴志はホースヘアーに松脂(まつやに)を塗り終えるとチューニング作業にとりかかる。


 先ほど貴志の滞在する部屋にて、わたしとの合奏に付き合ってもらった時点で音程を合わせてあった為、チェロの調整はあっという間に終わったようだ。


 視線に気づいた貴志が、こちらに顔を向ける。

 彼は気遣わしげな表情を見せるが、わたしは笑顔をつくり、首を軽く左右に振った。



 左瞼に『祝福』を受けた時に流した涙の意味を、誰からも問われることはなかった。



 けれど、エルは頭を撫でてくれ、貴志はそっと抱きしめてくれた。



 勘の良い二人のことだ。

 何かを感じ取ったのかもしれない。



 わたしは貴志にしがみ付き、その腕に包まれることで落ち着きを取り戻すことができた。



 貴志に心配をかけたままにしておくのも心苦しく、『今夜自宅に戻る前に話したい。時間をとってほしい』と約束を取りつけた。



 そのまま彼に抱き上げられると、エルに促されるようにしてラシードの座るソファに移動したのは先ほどのこと。



 そして今はソファの上で、青年二人の動きを追っている……のだが──現在、わたしの首には、何故か背後からラシードの腕が巻き付いている。



 どうしてこんなことになっているのかというと──説明するには、時を数分前に遡る必要がある。





 わたしは貴志の腕から離れ、ソファに腰かける体勢に入った。その瞬間、ラシードの腕がわたしの胴回りにニュッと絡みついてきたのだ。


 突然のことに驚いたわたしはバランスを崩し、尻餅をつくようにして彼の膝の上に倒れ込むこととなった。


 そしてそのまま、前述の状態が続いているのだ。




 気恥ずかしいと言うよりは、正直苦しい。


 背後から抱きしめられていると言えなくもないが、どちらかというと羽交い絞めにされている状況だからだ。




 わたしを離そうとしないラシードに対して、エルは色々と注意をしてくれた。が、そのたびにラシードの腕がものすごい力で首に食い込んでくる。


 これ以上締め付けられたら窒息、いや、最悪は首がへし折れる!──と、エルを制して『もうこのままでいい。わたしが死ぬ』と必死に訴えた。



 ラシードを引きはがすことを諦めたエルは溜め息をついてピアノに移動し、貴志も苦笑いしながらチェロの準備に取り掛かった。



 エルから『祝福』を受ける直前。

 わたしと貴志が窓際で話をしている間も、ラシードはエルから小言を受けていたようなので、おそらく落ち込んでいるのだろう。



 仕方がない。

 ここはわたしが先程と同じく、お母さん役をかってラシードを慰めてさしあげよう。


 そしてあわよくば、この首からその二本の腕を剥がしていただこう。



 これから貴志とエルの演奏が聴けるのだ。

 この首を、いつ絞められるのかと冷や冷やしながら鑑賞するのは御免(こうむ)りたい。



 わたしは首に回された彼の腕を、慰めるようにポンポンと叩く。

 すると腕の力が緩み、多少ではあるが動けるようになった。


 安堵の息を洩らしつつ右腕を後方に曲げると、緩やかに波打つ黒髪の感触が指先に伝わる。


 彼の髪は、やはり柔らかい。

 黒猫を触っているような気分になり、丁寧に髪を梳いてあげると、首に巻き付いた腕は徐々に腰へと移動していく。


 右肩にラシードの顎が置かれているため、彼がどんな顔をしているのか、わたしからは見ることができない。



 首元が自由になったので本当は振り返って確かめたいけれど、そのまま横を向くと、わたしの右頬に彼の唇が触れてしまう。


 また、ややこしい事態を引き起こすわけにもいかず、ふぅと息を吐く。


 暫くはこのままの体勢でいるしかないようだ。




 本気で窒息死するかもしれないと危機感を覚えたのは確かだが、彼の行動に実は少し感謝をしている。



 貴志に対する気持ちの変化に気づき、どうしたら良いのか分からなくなった最中──心は荒れ狂うばかりだった。


 けれどラシードの一連の行動で、自分の心を落ち着かせることができたのだ。



          …



「お前は、どうして……さきほど、わたしが泣いたことを……兄上に言わなかったのだ?」



 微かな声量でラシードが呟いた。

 わたしは訳が分からず、その問いに答えることなく質問を返す。勿論、小声でだ。



「へ? だって、指切りしたでしょう? 秘密の約束なんだよね? え? あれ? 本当は、エルに言ってほしかったの?」



 わたしを仲介役に、彼の心の寂しさをエルに伝えてほしかったと、そういうことなのか?


 はて、ラシードはそんな意思表示をしていのだろうか?

 全く気づかなかった。


 それよりも、ラシードよ。

 ──お前は察して君だったのか!?


 そう慌てたところ、『わたしが質問してるのに、お前が問い返してどうするのだ』とプリプリ怒った声が届いた。


 違うのか?

 お前が、よくわからん。


 何かを口走って地雷を踏み抜くのが心配になり、黙っていると、耳元に彼の息がかかる。




「そうか……秘密の約束、か。やはりお前は『針千本の誓い』を守ってくれていたのだな……ありがとう」



 ラシードの声は、少し震えていた。

 鼻をすする音も聞こえた。


 どうしよう。

 わたしは彼を泣かせてしまったのだろうか。


 気づかずに晴夏を怒らせてしまったように、わたしはラシードを傷つけてしまったのかもしれない。


 何かを仕出かしてしまったのは理解できたが、その原因がまったく分からない。


 わたしが青くなっていると、ラシードが声色を戻して口を開いた。



「お前と貴志が窓から外を見ている時に、わたしは兄上に叱られた。……軽率すぎる、と。自分の意のままに振る舞ってはいけないと──その通りだと思った。わたしは……自分が恥ずかしい」



 エルとの会話をポツリポツリとわたしに伝えるラシードの声は、後悔に彩られているように感じた。



「真珠、わたしは『友情の祝福』のほうが大切な誓約だと勘違いしていた。これからは、そういった過ちを繰り返さないよう、しっかりと考えてから行動する立派な王族に──大人になる努力をしようと思う」



 そう告げたラシードは、わたしの肩に載せていた顔を少しだけ浮かせたようだ。


 右肩にあった重さが消えた次の瞬間、わたしの右頬に柔らかな何かが触れた。



 それと同時に偶々(たまたま)こちらを見ていた貴志とエルの動きが、突然止まった。



 不思議に思ってコテリと首を傾げ、眉間に皺を寄せながら頬を擦る。



「真珠、お前は信用してよい人間だ。今は第一の友だが、わたしが立派な大人になった時、お前に最上の『祝福』を与えよう。これはその為の約束だ。

 兄上からは瞼に『祝福』を受け、貴志とも誓約を結んでいることも聞いた──だが、この勝負、わたしがいずれは勝つ。覚悟しておくとよい。既にお前は、わたしの唯一無二の存在でもあるのだからな」



「へ?」


 彼の突然の宣言に驚き、何度か目を(しばたた)かせる。



 まさかとは思うが、母恋しさから、わたしの対応に母親の幻を見て──懐いてしまったのか!?



 わたしも尊に対する気持ちを、完全に誤認していた過去がある。


 その勘違い番長のわたしが、人を想う気持ちの差異に気づいたのは最近のこと。

 貴志への想いを知らなければ、一生その違いに気づけなかったのかもしれない。



 思い違いの大先輩であるわたしからすると、ラシードの勘違いなど可愛いものだ。



 成長して『主人公』に出会えば、母恋しさと想い人への恋心の違いに気づくのは間違いない。

 

 おそらく己の勘違い黒歴史に大変悶え、わたしに『あの約束はなかったことに』と謝罪の科白を向けるのだろう。



 良い良い。気持ちの認識の誤りなど、ほんの些細なものだ。



 彼はまだ幼い子供──ラシードの今の気持ちを傷つけないよう、ここはお姉さん兼お母さんポジションのわたしが温かく見守ってあげよう。



 そう判断したわたしは、身体を(ひね)ってラシードの蒼い双眸を見つめ、満面の笑顔を返す。



「分かった。ラシードが大きくなるまで待ってるね。その時は、わたしがラシードの心を守ってあげるから」



 だから安心して、わたしに遠慮せず『主人公』に好意を示してくれ。


 その時──つまり、自分の勘違い発言に対して、彼自身が悶え苦しむであろう将来。

 わたしは彼に向けて『誰にでも、そんな黒歴史はあるさ』と、微笑みでもって、羞恥と後悔で苦しむ彼の心を救ってあげようではないか。


 ラシードは、わたしの返事に満足したようで、大きく頷いた。



「ああ、待っていろ! お前に釣り合う『正しき心』を持てるよう、わたしもこれから努力をするのだ。光栄に思え!」



 輝くばかりの笑顔を向けた後、ラシードは再びわたしの背中の『おんぶお化け』となった。



 さて、演奏の準備は整ったのだろうか?


 そう思って貴志を視界に入れると、彼はこちらを向いたまま額に手を当て、何故か呆れ顔で溜め息をついていた。








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