【真珠】神意と正しき心
先ほどまで、厚い雲の垂れこめていた上空。
今は、眩いばかりの陽光が差し込み、澄んだ青空が広がる。
演奏前──窓の外では強風が吹きすさんでいた筈なのに、その風さえも静寂の中に息を潜めている。
振り仰いだ遠方の空には、背の高い入道雲。
その白い雲の塊はぐるりと首都圏を囲み、まるで都内全域を守る城壁のように映った。
…
室内に駆け込んできた貴志とエルの二人。
なぜか彼等は少し慌てているようだ。
大人二人が視線を合わせ、何故か頷き合っている。
いつの間に、目と目で会話ができるほど仲良くなったのだろうと不思議に思いながら、わたしはその様子を観察し続けた。
エルはラシードのもとに、ゆっくりと歩み寄っていく。
「シード、お前は──」
エルが驚きの眼差しでラシードを見つめて言葉を紡ごうとしたところ、それを遮るかのようにラシードが彼にとびついた。
「兄上! ひとりで『祝福』の儀式ができました! 真珠とは『友情の祝福』を結ぶことにしたのです!」
ラシードは満面の笑みで、エルの足元にまとわりついている。
褒めてほしいと言わんばかりの態度だ。
何故か、激しく振られる尻尾の幻覚を目にしたような気がした。
エルは碧眼の弟の頭を撫でると一旦目を閉じ、何かをグッと堪える様子を見せた後、今度は溜め息をついた。
「そうか……『友情の祝福』を、結んだか」
「兄上?」
エルの様子を訝しんだラシードは首を傾げている。
褒められると思っていたのに、エルからはその素振りさえなく、ラシードは困惑の表情をのぞかせる。
やはり、勝手に『祝福』の儀式をしてはいけなかったのだろうか。
わたしはハラハラしながら二人の遣り取りを見守った。
「儀式自体は滞りなくできたようだな。それについては──良くやった」
どことなく含みのある褒め方に、ラシードは肩を落とした。
彼の悄然とした様子を目の当たりにしたエルが、弟の肩に手を置き、静かに諭しはじめる。
ラシードは既に涙目だ。
その様子を見続けているのも憚られ、わたしは視線を逸らし、貴志を探す。
先ほどまで部屋の扉の前に立っていた筈なのに、既に彼の姿はなかったのだ。
室内を見回し、明るい陽光の差し込む窓辺に目を向ける。
意中の人物は太陽の明るい光に包まれるようにして窓際に佇み、外の様子を眺めていた。
彼の輪郭が白い光に照らされて、まるで輝きを放っているかのように見える。
貴志のもとに歩み寄ると、わたしの存在に気づいた彼は柔らかく笑い、フワリと抱き上げてくれた。
「どうした? 真珠?」
正直に言えば、貴志に見惚れていただけなのだが、それを素直に伝えてしまうのも気恥ずかしい。
『さて、どうしようか』と逡巡した結果、先程疑問に思ったことを質問することにした。
「さっき、エルと二人で慌てて戻ってきたから、どうしたのかなって思ったの」
「ああ……昔のことを二人で話し込んでいたんだが『儀式が成された』とエルが突然言い始めてな、慌てて戻ってきたんだ。確かにこれは──驚くほどのタイミングで日が射したな」
貴志はそれだけ言うと、再び窓の外に視線を移す。
わたしもそれに倣って、顔を向けた。
「そうだね。シェ・ラに音の奉納を始めた頃から──『台風の目』に入ったみたい。偶然にしては、うまくできているよね」
わたしの言葉を拾って、突然エルがその会話に入ってくる。
「偶然と言う名を借りた、必然ですよ。神がその神意を告げる時は、自然現象で以て伝えるもの。正しき神は、超常現象などは起こしません」
振り返ると、エルはラシードを抱えながら窓際に歩いてくる途中だった。
貴志の隣にエルが立ち、遠方の積乱雲を眺めながら言葉を続ける。
「もし、圧倒的な奇跡を見せる存在があるとすれば、それは悪しき物が人心を惑わすために起こす奇術のようなのもの──本物の神は、自然を隠れ蓑にし、人々に神意を伝える。汲み取る側の人間に、その意を理解する正しき心が無ければ、神との意思の疎通は成し得ません」
「正しき……心?」
アルサラームの神教の考え方なのだろうか。
なんとなく分かるような……分からないような、エルの言葉だ。
エルはわたしの呟きに、頷きながら答える。
「正しき心とは、驕らずに自然や他者を敬う──感謝の心です。内なる神の声を聞き取るために必要なのはたったそれだけのことですが、常に感謝し続けることは難しい。
けれど貴女は、既にそれができているようだ。以前から神の社へ詣で、感謝の祈りを捧げることが多かったのではありませんか?」
神の社詣で──それは、伊佐子の趣味のひとつ『神社仏閣巡り』のことだろうか?
つい先日も御朱印帳を求めて鬼押し出し園の浅間山観音堂を参詣したばかりだ。
「『感謝の参拝』のことだな……」
貴志が納得したようにそう呟いた。
その言葉を耳にしたエルが、先ほどよりも気安く貴志に話しかける。
「なんだ、貴志。お前は知っているのか?」
出会った当初から今まで、貴志に対して辛辣な対応を貫いていたエルの態度が一変していることに驚きを隠せない。
わたしと同じように抱きかかえられているラシードと目を合わせて、二人揃って首を傾げる。
ラシードも彼等の打ち解けたような態度に疑問を抱いたようだ。
「ああ、先週、御朱印帳を入手しに出かけたばかりだ。参拝に対するコイツの作法をきいた時に良い考えだと──俺もそうありたいと、思ったのは確かだ」
再びわたしとラシードはお互いをチラッと見る。彼は眉間に皺を寄せていた。
多分、わたしも同じような表情をしていることだろう。
貴志の態度も先ほどまでとは全く違う。
エルに対する口調が、かなり柔らかいのだ。
「そうか『感謝の参拝』か。それは益々面白い。やはり私は──真珠を傍に置いてみたい」
そう言って貴志を見つめたエルの瞳は、少しだけ悪戯な光が見え隠れする。
エルのその表情を目にした貴志は、ゲンナリした様子で溜め息をつく。
「エル、その話はもう終わった筈だ。揶揄うのもいい加減にしろ」
貴志の言葉に、エルが小気味よく笑う。
「冗談だ。私が興味を持っているのは、真珠の中にある魂の一部──彼女自身では……ない」
エルの科白に、何故かラシードが大きく反応する。
「だ……駄目だ! 真珠はわたしの一番大切な友人だ! だから……だから! もし兄上が真珠が欲しくて、妻に迎えたとしても、ずっとずっとわたしの友だ! 『妻』よりも『一番の友人』の方が大切なのでしょう!?」
エルが息を呑んで、抱き上げていたラシードを見上げる。
「シード……まさか、その理由で『友情の祝福』を結んだのか?」
ラシードは、しっかりと首肯する。
「妻は何人でも持てる。でも、初めての友人は真珠だけだ。だからわたしは真珠に『友情の祝福』を与えた。真珠は、わたしの一番だから」
エルは額に手を当て、呆気にとられている。
「シード……お前は……」
そう言ったきり、エルはニの句が継げないようだ。
彼は深々と溜め息をついた後、わたしの双眸を見つめ、躊躇いがちに口を開く。
「我が女神──真珠。シードとの間に、この短時間で何が起きたのですか? お話いただけますか?」
特筆するような会話をしたつもりはないが、今まであったことを掻い摘んで伝える。
ラシードから『秘密にしてほしい』とお願いされ、指切りした内容については一切話さず、己の黒歴史のみをご披露することになってしまったのだが、所詮わたしは子供だ。
『母恋しくて何が悪い』と、そこは開き直ることにした。
二人だけの秘密だとラシードと約束したことは、きちんと守ったつもりだ。
正直に言えば『針千本の刑』で怯えるのは、翔平との結婚の約束を反故にするものだけで、私的には充分なのだ。
そして、『祝福』の儀式については『勝手をせずにエルを待った方が良い』と助言したことについても、念のため触れておく。
いくら『祝福』辞退を望んでいたとはいえ、騙すような形で別の『祝福』を結ぶのは少し違う気がしていたので、疚しい気持ちはなかったと伝えたかった。
何故そこまで保身に走るのかと言うと──月ヶ瀬グループ全従業員の生活が、わたしの肩にかかっているかもしれないからだ。
そんなことはないと思いたいが、万が一、いや億が一にも『騙し討ちの月ヶ瀬』などと吹聴され、企業体に汚名を着せられては申し訳が立たない。
けれど、儀式中には必ず太陽が顔をのぞかせると聞き、好奇心に負けてしまったことも、恥ずかしながら正直に伝えた。
多分、わたしは百面相で、赤くなったり青くなったり、せわしなく表情を変えていたのだろう。
エルも貴志も、好奇心についてのくだりを告白した時に、笑いを堪えているのが丸わかりだった。
ラシードは大きく目を見開き、何故かわたしのことをジッと見詰めている。
一言も口を開こうとしない。
ああ、そうか──わたしが約束を破ることを心配して、息を詰めて様子をうかがっているのだな?
なるほど。
それならば、彼の不安を取り除かねばならない。
なぜならば、わたしはお姉さんだから。
ここは彼を早々に安心させてあげなくては!
そんな使命に駆られ、わたしは声には出さず『大丈夫だよ。絶対言わないから』と口をパクパクさせる。
約束は絶対に守る!──と、小さく親指も立てる。
何故か彼は、申し訳なさそうな表情を見せて首を左右にフリフリするだけだ。
今の態度だけでは、上手く伝えることができなかったのだろうか?
仕方がない。こうなったら奥の手だ。
麗しの我が穂高兄さまの真似をさせてもらうとしよう。
兄の王子さまスマイルを、母性溢れる微笑みに変えることも忘れてはいけない。
わたしにあの天使のような王子スマイルを繰り出すのは至難の技なのだ。
穏やかな笑顔を心掛けつつ、口元に人差し指を当てて『内緒のポーズ』をとり、「あ・と・で」と口を動かして見せる。
わたしが病院で目覚めた時の、あの愛くるしさ漂うお兄さまの態度を真似て、最後に片目をパチッと瞑る。
よし。これだけ愛嬌のある態度を示したのだから、ラシードもきっと安心してくれたことだろう。
『わたしはお兄さまよ演技』に満足し、思わず満面の笑みが洩れてしまう。
わたしだって、やればできるお子さまなのだ!
ラシードはこちらを凝視したまま、一瞬だけポカンとした表情を見せる。
その後、急に耳まで真っ赤になってソッポを向いてしまった。
顔を逸らす直前、出会った直後に見せた不機嫌そうな顔が見えた気がした。
何故だ!?
これだけ気遣ったというのに!
ラシードめ。お前は何故目を逸らし、更には不機嫌になるのだ!
わたしは訳が分からず、混乱状態だ。
せっかくお互いに親近感を覚えて仲良くなれたと思ったのに。
その後、目さえ合わせてくれない彼に対して、溜め息を落とす。
ものすごく、悲しい。
それに、だ。
実は全く別件ではあるが、気になることが出来てしまったのだ。
そう。先程から、わたしだけ仲間外れにされている感がすごい。
何に対してかと言うと──主にエルからわたしに向けられる態度に、だ。







