【真珠】愛情の欠片
ラシードはひとしきり泣いた後、彼を取り巻く環境について語りだした。
並んで肩を寄せあい、膝を抱えて床に座り込む。
わたしは静かに彼の声に耳を傾け、要所要所で相槌をうった。
「母上は、わたしよりも外交の仕事が大切なのだ。王族だから、国と民を守るのは大切なことだと兄上には教えてもらった。でも、もしかしたら、わたしは──必要のない子供……なのかもしれない」
涙と共に憑き物が落ちたのか、彼は従順な仔猫のようになっている。
ポツリポツリとではあるが、彼は色々なことを話してくれた。
不思議な関係だなと思ったのは、アルサラーム後宮の三人の妃たちの間柄だ。
第一正妃──王太子とエルの母は、祭祀と国内をまとめる仕事を担い、後宮内を束ねる役割もある。
ラシードは王妃のことを『大母様』と呼んで慕い、不在がちなサラ妃に代わり可愛がってもらっているようだ。
第二側妃──ラフィーネともう一人の王女の母は、軍閥の出身。若かりし頃は近衛隊に所属した武官だったようだ。
ラシードは『姫騎士様』と呼んでいた。現在は、婦女子の社会への躍進事業に携わっているらしい。
第三側妃のサラ妃は、外交全般を担当。
彼女が王宮に迎えられた陰には、王妃の力添えがあったようだ。
王家には正妃の生んだ王太子とエルしか男子が生まれず、その治世を補佐する為の王子誕生を王妃自身が熱望していたことにより、サラ妃は第三側妃の立場を与えられたとのこと。
王妃が第三側妃の後ろ盾になっていることに、わたしは驚きを隠せなかった。
国王と王妃の関係は男女としての夫婦というよりは、国家を育てる共同統治者に近いのかもしれない。
「母上は『大母様』に恩義がある。だから持てる知識の全てをつかって他国と協定を結び、国を発展させたいと仰っている。それが宮廷教育を受けていない自分の役目だ──と」
宮廷教育か。
やはりな──ゲームプレイ時、ラシードルートでハッピーエンドを迎えた『主人公』の今後を素直に祝えず、心配していたことを思い出す。
サラ妃は、在アルサラーム英国総領事館に派遣されていた元外交官だ。
仕事上培ったノウハウを活かして、アルサラーム発展の一助となることで、王宮内や国民に受け入れられるために必死なのかもしれない。
その目のまわるような忙しさの中で、サラ妃はラシードに愛情を注いでいる。
彼は気づいていないのかもしれないが、それは間違いない。
「ラシードは、とても愛されていると思うよ?」
わたしの言葉を聞き、ラシードは弾かれたように顔を上げる。
「なぐさめは……いらない」
そう言うと、わたしの目を見つめて眉をハの字にする。
「なぐさめじゃないよ。本当のことだよ」
わたしはゆっくりと立ち上がり、ラシードに手を差し出す。
おずおずと躊躇いを見せつつ、彼はわたしの手を取った。
そのまま彼の腕を引き寄せ、共に歩きだす。
「これ、見て」
わたしはラシードのバイオリンが置かれたテーブルに移動し、その上に載った手書きの譜面を開く。
「ラシード、アルファベットは読める? ほら、ここ、Sarah──て、書いてあるでしょう?」
先ほど見た、手書きの譜面。
そこに記された編曲者名をラシードに見せる。
「もともとあったピアノ曲を、ラシードが弾きやすいように、サラ妃が……お母さんがアレンジしてくれたんだね。なかなか、こんな手の込んだこと、できないよ?」
初心者に近いラシードが、出せる音の範囲は広くない。
できるだけシフトをせず、ファーストポジションとサードポジションで無理のない指使いを心がけ、丁寧に編曲された楽譜。
熟考されたそれは、愛情の欠片が、そこかしこに散りばめられている。
こんなに彼を想った編曲をするのだ。
サラ妃は、とても愛情深い人なのだと思う。
断言しても良い。
サラ妃は、ラシードのことをとても大切に思っている。
「これは母上がわたしのために時折弾いてくれる曲。この曲を聴くと、母上が傍にいるような気持ちになる。だから、バイオリンで弾きたいと言ったことがある。この楽譜は外遊の移動時に書いてくれたと、母上から渡された──わたしの『宝物』だ」
ラシードは楽譜を手に取ると、大切そうに抱えた。
「アルサラームに帰国したら、お母さんにラシードの演奏を聴いてもらう時間を取ってもらったら?」
ラシードは息を呑んで、その動きを止めた。
彼の眉間に、徐々に皺が生まれる。
「母上は、とても忙しい方だ。わたしの我が儘で、無理をお願いすることはできない。わたしは……王族は……民の模範でなくてはならない。人の上に立つものは、我が儘を言ってはいけないんだ」
彼はこうやって、母恋しさを我慢をしてきたのか。
幼いながらも、王族として生きるための矜持と気位の高さを持ち合わせていることに、驚きを禁じ得ない。
物分りの良い態度を装う彼は、その淋しさを周囲に悟られないようにしていたのかもしれない。
本来ならば、周囲の大人が気づいてやるべきであろう子供心。
けれど、これだけ上手に隠していたら、周りは感づくことさえできないだろう。
でも、ラシードはまだ、幼い子供だ。
少しの我が儘なら──いや、母恋しさは我が儘ではない。人間の持つ素直な感情だ。
王族とはいえ、血のつながった家族。
少しくらい、本音を伝えても良いのではないか。
そう思ってしまうのは、王宮内の事情を知らないわたしの甘い考えなのかもしれない。
「伝えるだけ、言ってみたら? 本当に忙しいなら無理かもしれないけど、もしかしたら時間をとってくれるかもしれないよ? 『駄目で元々』と思えば、人間何だってできるんだよ。試してみたら?」
「駄目で元々……」
ラシードは譜面を見つめながら、小さく呟いた。
意を決したように顔を上げた彼は、わたしを見ると清々しい笑顔を見せた。
今までの彼の様子とは打って変わり、強烈な可愛さがその表情にあらわれる。
まるで蒼い目をした黒猫のようだ。
母性本能をくすぐられ、思わず「いい子、いい子」と彼の黒髪を梳くよう撫でてしまう。
わたしは彼の母親になった気分に浸り、つい猫可愛がりをしてしまった。
彼もまんざらでもなさそうで、目を閉じて気持ち良さそうにしている。
「ラシードは頑張っていたんだね。とても偉かったよ」
彼はコクリと頷いた後、少し照れた様子を見せる。
高校時代の不遜な態度と俺様具合は、鳴りを潜めているのか、どこにも見当たらない。
わたしと目を合わせてお互いに微笑んだ後、ラシードの動きが突然氷のように固まった。
最初は気持ち良さそうに頭を撫でられていたラシードだったが、わたしの手を振り払うと勢い良く後退る。
彼は唐突に我に返ったようで、口元に手の甲を当ててワナワナと震えているように見えた。
「なっ……何をする! 無礼者め!」
キッと目をつり上げて、こちらを睨みつけてくる様は、警戒心の強い猫のようだ。
ああ、残念。
また毛を逆立てる仔猫に戻ってしまった。
ラシードは気まずさに咳払いをすると、わたしの掌を掴み、自分の方に強引に引き寄せる。
「真珠、こっちに来い! 少し話がある。その……内緒の……お願いだ」







