【真珠】心の共鳴
「へ? 今は辞退出来ないって、どういうこと?」
わたしの疑問を受けて、ラシードはこちらに目を向けた。
視線が合った瞬間、パッと逸らされてしまったけれど──
「兄上が言っていた。辞退すれば将来的に後悔すると──それが何を意味するのかは分からないが、意味もないことを口にするような人ではない。それに──」
そこで言葉を止めた彼は、またチラリとこちらを盗み見た後、言葉を続ける。
「兄上が、初めて……興味を示したんだ」
彼の言葉の意味が分からず、鸚鵡返しで質問をする。
「初めて興味を示した? 何のこと?」
わたしの眉間には深い皺が刻まれていることだろう。
「冗談だと言ってはいたが、わたしがお前との祝福を拒否するのならば、兄上が『貰い受けても良い』 と……お前のことを 『気に入った』 と言っていた。
伴侶候補を探すように言われても頑なに断っていた兄が、 お前にだけは興味を示した。だから、今は祝福を繋いだまま、将来的に兄上が望むのならば、お前を譲ろうと思っている」
ラシードは神妙な顔をして、必死に声を紡ぎだしている──が、彼の科白に、わたしの時間が止まった。
「へ?」
待って。
なんだかわたしは既に『ラシードの所有物』に認定されていないか?
それに、エルがわたしに興味を持っているだと?
まさか──それは無い。断言できる。
エルが興味を持っているのは、真珠ではない。
──伊佐子だ。
彼は真珠を見ていない。
真珠の中に存在する、魂の半分──伊佐子を求めているような気がする。
わたしの中の何かを『視る』時と、生身の真珠自身を見る時のエルの様子はまるで違うのだ。
この身の内に、二つの思考が眠ることを知るのは、現況では貴志とエルのみ。
貴志は浅草寺で出会った当初、伊佐子の存在を認めてくれた。
漠然とした理解だったとは思うが、彼が伊佐子の存在を肯定してくれたことによって、不安定になっていたわたしを救い出してくれたのだ。
そして、貴志が月ヶ瀬に現れた夜──あの二人で過ごした秘め事のような時間で、彼は伊佐子だけではなく、真珠としてのわたしの存在も認めてくれた。
そう──貴志が、大人と子供の心の融合を遂げた不安定な存在のわたしを理解したことで、『真珠』と『伊佐子』双方の心が救われたのは紛れもない事実。
そうでなければ、わたしは貴志に対してこんな想いを抱いたりしない。
どちらか一方だけを求められても、他方は納得できない。
わたしは過去、伊佐子であったが、今は真珠なのだ。
──いや、今ならはっきりと言える。
(わたしは真珠だ──伊佐子ではない)
「ラシード、わたしは物じゃないよ。譲るとか、貰うとか、人の気持ちをそんな言葉で片付けないでほしい。エレベーターホールで、よそ見をしていたのはわたしで──ラシードが不本意に『祝福』を与えてしまったことは理解しているし、本当に申し訳ないと思っている。でも、わたしは『祝福』を辞退──」
したい──そう言おうとした瞬間、ラシードはその手で、わたしの口を塞いだ。
「お前は、王族に立てつくのか。やはり生意気な女だ」
彼の鬼気迫るような声音とその行動に、身じろぎひとつできなかった。
わたしがこの時抱いた感情は──『恐怖』ではなく──『驚愕』だ。
ラシードの瞳はわたしへの怒りではなく、深い悲しみを内包していたのだ。
「お前は、わたしの物だ。『祝福』を与えたのだから、わたしから離れることは許さない。兄上がお前を欲しいと言うまでは、わたしの傍で──わたしを必要としていろ」
どういうことなのだろう。
横柄な態度と言葉遣いには不釣り合いな、子供らしからぬ淋しげな様子がはっきりと見て取れる。
何故、彼はこんなに憂いのある瞳を見せるのだろう。
──条件反射だった。
気づくと、わたしはラシードの顔を両手で包み、その複雑な感情を宿す瞳を覗き込んでいた。
今にも泣き出しそうな表情をする彼のことを、見て見ぬ振りなどできない。
こんなに幼い子供が、心を痛め、何かしらの悩みを抱えているのだ。
話を聞くことくらいしかできないと分かっている。
ただの偽善と言われれば、そうなのだろう。
けれど、それでも寄り添うことはできる筈だ。
「どうして、そんなに悲しそうな顔をしているの? 何が淋しいの? お話をすると、気持ちが楽になって、悲しみは半分に分け合えるし、喜びは倍に増えるんだよ──そんな言葉、聞いたことがあるでしょう? わたしは、その通りだと思う。だから──」
わたしの行動に驚いたのか、ラシードは目を見開き、口をハクハクと上下させている。
「お話をしてみて? 今だけはラシードのお姉さん──ううん、お母さんになったつもりで聞くから」
ああ、そういえば、当初予定していた『姉もしくは母のような態度で接する計画』が意図せずに実行できたことを、今更ながら気づく。
彼の好みと正反対になることにより、悩み相談にものれるのだ。
これを一石二鳥と言わずに何と呼ぶのか。
わたしは彼の母親になったつもりで、その肩をそっと抱き寄せた。
「何をする! 無礼な……」
ラシードは精一杯の虚勢を張ろうとしたのだろう。
けれど、その後は言葉が続かなかった。
静かに肩を震わせた振動が、わたしの身体に伝わる。
彼は声を出せないのだ。
自分が泣いていることを気づかれまいと、必死に堪えているのが分かった。
拒絶される可能性もあったけれど、乱暴に突き放されるようなことはなく、暫しの時が流れた。
彼が鼻をすする音が届く。
抱き締めた身体が、嗚咽を堪えて震えている。
わたしは彼の身体に回した手で、その背中をトントンと叩いた。
規則正しく安定したリズムは、人の心に安らぎを与える。
母親の胎内で聴いた心音のような穏やかな調べが、彼の悲しみを少しでも癒してくれるといいな。
そんなことを思いつつ、彼の背に、わたしの鼓動の旋律を刻む。
「お前も、わたしからの『祝福』をいらないと言う。わたしのことを必要とする人間は、どこにもいない──母上も、わたしのことなど……きっといらないのだ」
涙声でポツリポツリと零れる言葉は、母からの愛を必死に求めていた。
まるで心の悲鳴を聞いているようだ。
これは、わたしにも覚えのある気持ち──幼い真珠が、常に抱いていた母恋しさと、まったく同種のものだ。
子供にとって母親は、自分の世界のすべてを形づくる存在だ。
その母親から、本当の意味で必要とされていなかった事実──真珠が本能で感じ取っていた悲しみと、ラシードの心が共鳴する。
自分の存在の希薄さを感じるたびに、胸中を支配していた心細さは、幼い気持ちを常に不安定にさせた。
この心に細い光が差し込んだのは、いつのことだったのか。
そうだ。
真珠の悲しみを軽くしてくれたのは──翔平の存在だった。
彼が声をかけてくれた時の喜びは、言葉では表せない。
ほんの少しだけでも、自分のことを気にかけてくれる人が、自分の生きる世界の外側に現れたのだ。
それだけで心が満たされ救われることを、わたしは身をもって知っている。
ラシードの口から、とうとう堪え切れなくなったのか、泣き声がこぼれおちた。
ずっと、ひとりで我慢してきたのだろうか。
わたしの言葉だけで、堰を切ったように流れだした感情は、おそらく我慢の限界に近かったのかもしれない。
わたしは彼の蒼い瞳を見て話をしようと、身体を離そうとした。
その動きに気づいたラシードが、それを阻止しようとわたしにしがみつく。
「見るな! 見たら……許さない」
少しだけ、心を開いてくれたのかと思えば、掌を返すような高飛車な言葉が返ってくる。
気紛れな猫みたいだ──そんなことを思いながら、わたしは彼の少し癖のある柔らかな黒髪を、そっと撫でた。
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