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【真珠】最大限の愛情表現


 スイートルーム内の廊下にて、貴志とエルが何故か火花を散らし合っている。


 わたしは貴志に抱えられながら、二人の様子を窺うしか術がなく、オロオロするばかり。


 その状況を打ち破ったのは、エルの一声だった。


「真珠──わたしは貴志と少々話があります。先程お願いしたように、先に部屋へ戻り、子供同士で親交を深めていてください。シードもそろそろ退屈している頃でしょうから」


 身体を起こし、貴志の顔を見上げる。


 先程エルに向けた壮絶なまでの笑顔は何処へ消えたのか、わたしを見下ろす貴志の表情は焦燥に駆られているようだった。



 どうしたのだろう。

 いつもの貴志とは違う。



 余裕のない態度を見せるのは珍しい──いや、こんなに心(もと)ない様子を目にしたのは、初めてかもしれない。



 常とは異なるその表情に、わたしは言葉も出せずに彼を見つめた。


 「すまない。大丈夫だ」と告げられるのと同時に、その右手がわたしの口元に触れた。



 突然のことだった。



 唇を奪うかのように重ねられた親指──思いも寄らなかったその行動に驚きながらも、わたしは黙って受け入れる。



 何かを求めるように伸ばされた、彼の指先との触れ合いは、何故か深い接吻(せっぷん)を連想させた。



 目を見開き、動けずにいるわたしの唇から、彼の指がゆっくりと離れていく。



 おそらく間違いない。

 貴志は唇の代わりにその冷たい指先で、わたしに触れたのだ。



 わたしと離れている間に、何かあったのだろうか。


「貴志、大丈夫……?」


 心配になって彼の双眸を覗き込み、その頬に触れた。

 間近で見たその瞳が、微かに揺れる。


 突発的に、わたしに触れたのだろうか。


 彼自身も自分の一連の行動を思い出し、動揺しているように見えた。


 やはり、何かがおかしい。


 貴志と想いが通じ合ってから今まで──恋心に浮かれ、舞い上がっていた自分の頭の中が、徐々に冷静さを取り戻していく。



 自分のことだけで手一杯になっていた盲目状態の心が、スウッと落ち着き始める。




 彼は、不安を抱いているのだろうか?

 でも一体何に対して?


 その理由は分からないけれど、何かしらを憂えているのだ。

 彼の心に、わたしに対する懸念があるのならば取り除きたい。

 


 いつもはわたしが庇護される立場だというのに、今は彼のことを抱き締めて守りたい衝動に駆られる。



 大人同士の恋愛であれば、この身の全てで貴志の抱いた憂慮を消し去ることができるのだろう。


 けれど、残念なことに、わたしのこの小さな身体では、彼を包み込むことさえできない。



 こんな時に、自分の幼さが酷くもどかしい。


 わたしは彼に対して、何をしてあげられるのだろう?



 どんなに望んでも今現在のわたしでは、彼と口づけを交わして慰め合うことも、お互いの体温を重ねて睦み合うこともできない。



 貴志が今しがたしてくれたように、彼の唇にこの手で触れること位しか思いつかなかった。



 自分の指先に思いの丈をのせ──貴志の口元にそっと手を伸ばす。


 この想いが伝わることを祈りつつ、彼の双眸をじっと見つめた。



 これは、わたし達の間だけで通じる儀式。


 お互いの唇を重ねずともできる──最大限の愛情表現。



 わたしの意図を理解してくれたのだろうか。

 彼は息を呑み、唇を震わせると、わたしを抱き締める腕に力を込めた。


 人前だということを忘れて、わたしが貴志に抱きつくと、彼は自嘲気味にこの行動の理由を吐露する。


「すまない。多分これは──嫉妬だ。入り込めない領域があることを知って、動揺した。こんな時に──自分が情けない……」


 彼はわたしにだけ聞こえる微かな声で囁く。 



 わたしは首を左右に振った。


 ──情けないなんて思わない。


 わたしが昼食前に感じた苛立ちも、空腹から来たものだと誤魔化したが──本当は分かっている。



 あれも、おそらく嫉妬──彼が過去に関わった女性達を羨む気持ち。



 あの時、今まで感じたことのない大きな感情の揺れに戸惑い、彼の静止も聞かずに廊下へ飛び出し──結果、ラシードからの『祝福』を受けてしまったのだ。




 貴志も言っていたではないか。


『初めてのことで、どう扱ってよいのか分からない。自分でもこの状況に衝撃を受けている』


 ──と。




 わたしだけではなく貴志も、今迄感じたことのない気持ちに戸惑っている最中なのだ。


 彼が過去に経験した全てが役に立たないほど、わたしを大切に想ってくれることが伝わり、心の中に熱いものが込み上げる。


 お互い、『本物』の恋愛を経験するのは初めてのこと。


 そう思うと、嫉妬という感情でさえも、二人を繋ぐ大切な絆だと思えてしまうのだ。




 その昔、尊に感じたヤキモチよりも深く、心の奥を揺さぶる情動。

 相手のことを想っているからこそ、心に芽生える感情のひとつ。



「情けないなんて思わない。わたしのことを誰よりも想ってくれるから……そう感じるのでしょう?」



 貴志が、自分で情けないと感じた気持ちを、隠さずに話してくれたことに心が震えた。

 ありのままの、飾ることのない想いを伝えてもらえたことが、とても嬉しかったのだ。



「二人で一緒に──色々な気持ちを経験しながら、成長していけると嬉しいな……たくさん、貴志との思い出を作っていきたいから」



 貴志は「ああ、そうだな」と呟き、わたしの頭を撫でてくれた。




           …




 貴志には、誰よりも幸せになって欲しい。


 彼が最後に選ぶ女性が自分であるのならば、これ以上の幸福はないと言えるけれど、まだ彼は出会うべき『主人公』に相見(あいまみ)えていない。



 将来、その隣に立って笑うのがわたしではなかったとしても、その時には笑顔で祝福できるよう、今は彼との間に温かな思い出をひとつでも多く作りたい。



 彼と、彼の選んだ女性が誰であれ、わたしは顔を合わせなくてはいけない立場にいる。

 月ヶ瀬と和解した彼は、親族としても深い関わりを持つ関係にある。付き合いを断つことはできないのだ。



 自分の幼さが酷くもどかしいけれど、これで良かったと思うわたしもここにいる。



 彼と実際に口づけをし、睦言を交わす仲になってしまったら、わたしは笑顔で彼を送り出すことができない。



 貴志は優しい。

 だから、一度でもわたしに情けをかけてしまったら、今後出会う『主人公』や他の女性に惹かれたとしても、その想いを隠して、わたしと共にいる選択をしかねない。


 それでは駄目だ。


 わたしが望むのは、貴志の幸せ。


 大丈夫。

 彼の選択を尊重する覚悟は、とうの昔にできている。


 『Je Te Veux』を奏でた時に、誓った筈だ。


 今だけは、彼がわたしを望んでくれる間だけは、この幸せに浸っていようと。




 それはつまり、彼がわたし以外の女性を選んだ時──笑顔で貴志の背中を押してあげると、心に決めた瞬間でもあった。




 自分の想いよりも、その人の想いを優先したいと願う日が来るなんて、想像することさえできなかった。



 恋心に舞い上がることで、将来訪れる不安に蓋をして、見ない振りをしていたけれど、今は冷静さを取り戻した自分がいる。



 わたしの幸せは、彼が幸せであること。


 

 彼に『恋』をしているのだと信じて疑わなかったわたしは、その願いが自分の『恋心』から生じているのだと思っていた。



 異性に対して、恋情を抱いたのは初めてのこと。だから、はっきりとしたことは分からない。



 けれど、胸の奥から溢れるように湧き(いず)る感覚は、『恋』と呼ぶには深過ぎる──そんな気がしていた。



 この心を支配する、貴志への想いに名前をつけるとしたら、何という感情になるのだろう。



 ああ、そうか──もしかしたらこれが『愛する』という気持ちなのかもしれない。




 彼を思い描くだけで、胸に温かさが増していく。



 これから先、何が起きても後悔しないよう、彼を大切にしよう。

 二人で、たくさんの想いを育んでいこう。



 その為には、ラシードと向き合って『祝福』問題を解決するのが、今のわたしに課された問題だ。



 ラシードはエルに「教皇権限で『祝福』を握りつぶせ」と言っていた。

 つまり、彼は今回の件を無かったことにしたいと思っているのだ。


 しかも、わたしには父がくれた『切り札』もある。

 きっと恙なく辞退できるだろう。



「わたし、先に部屋に戻っているね。エルは貴志と話があるんでしょう? わたしはラシードとバイオリンで遊んでいるから」


 床に降り、再度彼に抱きついてから、わたしはタペストリーの飾られた部屋に向かう。



 貴志の艶のある声音がよみがえり、身体中を駆け巡る。

 告げられて、腰を抜かしてしまったあの言葉──



『もし、お前が大人になった時、今と変わらず俺を想う気持ちがあったなら──その時は、お前の全てが欲しい』



 双眸に切ないまでの熱を宿した彼の眼差しが、頭から離れない。



 初恋は実らない──そんな言葉があるけれど、貴志が最後に、その(かいな)に抱く相手が、わたしであれば良いのに──そう願わずにはいられなかった。




 やっと自覚できた。


 既にわたしは、葛城貴志を『愛し』はじめているのだ──と。





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克己&紅子


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