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【葛城貴志】覚悟


 義兄・誠一との通話終了後、頭の中を整理するべく、壁に身体を預け、目を閉じた。


 電話の内容を精査したいのに、瞼の裏に鮮明に浮かぶのは真珠の瞳。


 恋愛初心者だと言った彼女が、ただ単に俺との関係にのめり込み、周囲が見えなくなっているだけであれば── 一時的な婚約は問題なく結ばれるだろう。


 けれど、そうではなかった場合──彼女が選択する結論は、拒絶のような気がする。


 建前上の救済とはいえ、彼女はこの暫定的措置の話を耳にした時、どんな反応をするのだろう。



 愛情の有無は関係ない。

 父と義兄の利害の一致により、短期間だけ結ばれて、数年で解消される便宜上の契約だ。



 それは分かっている──おそらく彼女も『切り札』の有効性を理解はするだろう。けれど、納得するには至らない──彼女は表面上は受け入れるが、その心は拒否を貫くような気がする。


 そう思うと、寒心に堪えない。



 ──そこまで考えて、息を呑んだ。


 今まで、誰かの態度にこれ程まで、一喜一憂したことがあっただろうか──彼女に囚われ、翻弄されている自分の心に愕然となる。 


 たかがそれだけの事を考えるだけで、この(ざま)かと苦笑が洩れた。



 ──この心に明かりを灯したのは彼女。


 愛しいという言葉だけでは言い表せない、恋慕の情をこの心に植え付け、芽吹かせたのは真珠なのだ。



 物思いに沈みそうになる己を叱咤する。

 (もた)れていた壁から身を起こし、落としどころを模索する。



 最善は、今日、揉めることなく話し合いで『祝福』を辞退すること。

 『切り札』を使用せず、穏便に済ませることがベストだ。


 この場合、おそらく俺との婚約計画は無かったこととなるだろう。

 義兄にとって、何ら利点がなくなるからだ。



 彼女を溺愛する義兄が、俺をグループに引き入れる為だけに、真珠を婚約者に宛がうとは思えない。




 今回は、真珠の救済措置という緊急事態が発生した為、義兄は父との取り引きに応じたに過ぎないのだ。




 月ヶ瀬を捨てた俺が、グループに戻ることは容易ではない。

 身内だからと言って、一度戦いの場から逃げ出した人間を安々と迎え入れるほど、社会は甘くない。




 婚約という名目上の負担を、義兄と真珠に負わせないためにも、父の思惑とは異なると思うが、出来うる限り『切り札』を使わずに──『祝福』を回避する方向で話を進めるべきだ。



 その場合、俺が月ヶ瀬に戻ることは、より困難になるだろう。

 けれど、真珠との繋がりに頼っているようでは駄目だ。




 自分の実力で伸し上がる気概がなければ、周りは付いてこない。




 どちらにせよ、祖母と伯父・葛城千景(ちかげ)への恩もあるため、葛城姓を捨てることは考えていない。

 星川リゾート系列の事業については、将来的には俺が関係することになるのは暗黙の了解だ。



 だが、懸念材料はいくつかある。



 あの父が、義兄に話を持ちかける段階で、何も手を回していないことなどあるのだろうか?


 自宅では母に頭が上がらない素振りを見せてはいるが、あれで経済界を束ねる海千山千の怪物だ。



 老獪(ろうかい)さで言ったら、義兄でさえも敵わないだろう。



 『切り札』を使う以前に、既に根回しされて動き出している可能性も高い。




 掌を開いては見つめ、次いでゆっくりと拳を握る。

 その動作を幾度となく繰り返した後、手を(かざ)す。


 月ヶ瀬の歯車のひとつになる──それは経営の道に足を踏み入れるということだ。


 だが、例えグループの駒になったとしても──音楽は、捨てられない。


 苦しかった年月を共に過ごし、慰めてもらった音色を裏切ることはできない。


 音は自らの一部だ。

 どうあっても手放すという選択肢はない。


 真珠との繋がりも、音色があってこそ──そんな気がする。


 彼女の魂は音楽に魅入られていると、紅が語っていた。


 正しく、その通りだと思う。


 俺が音楽との繋がりを失った瞬間、彼女との関係も希薄なものへと変わってしまう──単なる予感だが、あながち間違ってはいないだろう。



 音楽も、月ヶ瀬の一員としての責務も、双方を全うするには、途方もない努力が必要になることは分かっている。



 けれど、やらねばならない。

 もう、逃げないと決めたのは自分自身だ。

 必ず成し遂げ、責任を果たす他に道はない。



 今まで自らの責任に気づかない振りをして月ヶ瀬から逃げていた分、信頼を得るには相当の覚悟が必要だ。



 常に最善を尽くし、結果を出し続けるしかない。



 それは、真珠と共に在る為であり、彼女を守る為でもあり──自分自身を取り戻す為でもあるのだ。



          …



 再度深呼吸をし、鏡に映った自分を見つめる。

 そろそろ戻らなければならない。



 真珠は、あの秘密をエルに話したのだろうか?



 『天命の女神』──エルは彼女のことをそう呼んでいた。



 真珠の話から想像するに、彼は命を救われるのだろう──『女神』の手によって。



 彼の存在自体、常識では捉えられない謎めいた物を感じる。



 どこか、この世の(ことわり)から超越している風情があり──真珠に似通う部分もある。




 もしかしたら、エルはこの世で唯一、彼女の不可思議さを理解しえる人間なのかもしれない。




 自分には入り込めない領域がある──そう考えると、何故か心が波立った。




 一度、肺の中の(おり)を全て吐き出してから、深く空気を吸い込む。



 気持ちを切り替え、アルサラームの二人と向き合わねばならないというのに、この心に渦巻く感情の正体が掴めない。



 タペストリーのかかる部屋に戻るべく化粧室の扉を開けたところ、廊下にエルと真珠の姿を認めた。



 エルの指が真珠の顎を上向かせ、彼女の瞳を見つめる様子を目の当たりにし、息を呑む。



 真珠も、彼の為すがままになっている。



 いつもの彼女であれば成人男性に触れられることを(いと)うのだが、エルと息が触れそうな距離にいるというのに嫌がる素振りもない。



 おかしい──咲也然り、大叔父然り、父親である義兄に対しても、男が近寄るだけで身を固くし、警戒心を顕にしていた常日頃の彼女とは違う。



 エルの様子も、先程までの彼とは異なるような気がする。

 敢えていうのであれば、彼の纏う『気』が変わった──とでも言うのだろうか。


 どこか神がかったような──性別を超越した不可思議な様子をそこはかとなく感じはする。


 けれど、それが何であるのか、はっきりしたことは分からない。


 同性でも異性でもない、独特の雰囲気を醸し出している為、真珠も静かに、彼の瞳を見つめ返すだけなのかもしれない。



 二人の様子に、今迄感じたことのない複雑な感情が首をもたげ、心を支配する。



 同じ土俵に立って競うことのできる相手であれば、勝ち取るために戦うことができる。


 けれど──彼等の持つ特殊な領域には、入り込むことさえできない。




 真珠は、初めての恋愛だと言っていたが、それは俺にしても同じだ。


 初めて、その心を欲しいと願った相手が彼女だった。



 片時も離したくはない。

 この腕の中に閉じ込めてしまいたい。


 ──本心は、自分だけを見ていてほしい。


 まるで子供の我が儘だ。

 今の俺は、大人の振りをしているだけに過ぎない幼子も同然。


 湧き上がる想いを宥めることで、この身の内に巣食う激情を抑え、物分りの良い人間を演じているだけだ。




 ああ、そうか、もしかしたらこれが──『嫉妬』という感情なのかもしれない。



 一歩も動けず、二人の様子を目の当たりにしていたところ、真珠が大きく後退し、エルから慌てて離れた姿が目に入った。


 その様子に、ホッと胸を撫でおろす。


 いつからこんなに人間らしい感情がこの心に生まれたのかと、複雑な気持ちにもなる。



 それと同時に、真珠が離れたその瞬間──エルの瞳に映し出される感情に、大きな変化が現れたことも見逃さなかった。



 驚きの表情を一瞬見せた彼は、その後、とても柔らかな眼差しを彼女に向けたのだ。



 エルは真珠に何を見出したのだろう。



 彼女に出会ってから見せた、エルの感情の変遷の軌跡を辿る。



  ラシード王子に激突した際の──困惑。


  『祝福』を受けたと知った時の──嫌悪。


  王族だと分かっても怯まない彼女の態度から生じた──興味。


  『天命の女神』と跪いた場面での──敬意。




  そして今、彼が真珠に抱いたのは、おそらく──歓喜だ。



 真珠を見つめるエルの眼差しに、光が宿ったのは間違いなかった。


 エルの様子など全く眼中にない真珠は、難しい顔をして何事かを真剣に考えているようだ。


 突然顔を上げた真珠が「わかったよ。エル」と、嬉しそうな声で、再び彼との距離を縮めようとする。



 咄嗟のことだった。


 行かせまいと腕を伸ばし、彼女を後ろから抱き締めたのは。



「聖下──いや、エル。今、真珠に何をしようとした?」


「貴志──『女神』の魂の伴侶が登場ですか。何もしておりませんよ──今は、まだ。ただ、彼女がここに存在する奇跡に、心が躍っただけです」



 悪びれもせず、にこやかにエルはそう答えた。



 けれど一番、肝を冷やしたのは、そこではない。



 先程エルは、真珠に『祝福』を与えようとしていなかったか?



 ラシードの『祝福』を上書きするかの如く、新たな『祝福』を彼女の瞼に与えようとしていた──少なくとも俺の目には、そう映ったのだ。



 真珠は、まったく気づいていなかったようで、俺とエルとの間に流れる空気に右往左往するばかりだ。



          …




「一体どういうつもりだ──エル」


 エルに向かって詰問する。


 

 真珠は先に、タペストリーの部屋へ戻っていった。


 現在、廊下には俺とエルの二人のみ。


「どういうつもりだ──とは?」


 エルは腕組みをして、こちらを見据えた。


「真珠に『祝福』を与えようとしていただろう? 少なくとも俺にはそう見えた」


 その言葉を受けたエルは、先程まで湛えていた笑みをその秀麗な面から消し去る。


 俺とエルの視線が暫し、交差した。




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