【月ヶ瀬穂高】光と闇の『ヴォカリーズ - Vocalise - 』 前編
真珠を見送ったあと、ベンチで座っている僕に声をかけてきたのは紅子さんだった。
「穂高。お前、あんなことを言って本当に良かったのか?」
紅子さんが心配して、チャペル裏口付近で僕の様子をうかがっていたのは知っていた。
僕は溜め息をついて彼女を見据える。
「いいも何も──僕にどうしろと言うんですか?」
腕組みをしながら難しい顔を覗かせた彼女は、こちらを見ると左手をうなじに置いて「うーん」と唸った。
「そうなんだがな……ただ、無理はするな。泣きたいときに泣いておかないと、後でクルぞ。わたしで良ければ胸を貸すが?」
彼女が僕を気遣っていることは分かったが、それに対して僕は自嘲の笑みを浮かべて返答する。
「お言葉だけありがたく頂戴します。女性の胸を借りて泣くのは、僕の主義に反しますので」
その答えにフッと笑った紅子さんは、僕の腕を掴んで引き寄せると抱きしめてくれた。
美沙子さんに抱きしめられた記憶はないのだけれど、母親からの抱擁とはこういうものなのかもしれないなと思い、何故か少しホッとした。
「真珠もいい『目』をしているが、お前もなかなかいい面構えをしているぞ」
強く抱きしめられているため、少し苦しくなりながらも彼女の声に耳を傾ける。
「穂高。本当にいい演奏だった。わたしはお前のことを誇らしく思っているぞ。ご褒美に、この紅子さまがほっぺにキスを──」
最後まで言わせず、僕は笑って間髪入れずに断りの言葉を口にする。
「いえ、結構です」
彼女は僕を慰めてくれようとしているのだろう。だから茶化すような言葉で元気づけようとしてくれているのだ。
そして、僕が断るのも常日頃の対応で織り込み済みのようで、優しく笑っている。
その腕の中から解放された後、紅子さんは真面目な顔で僕を見つめた。
「無理はするな。ここで泣けないというのなら、何処でもいい、必ず泣いておけ。吐き出しておかないと、いずれ──心が膿む。それだけは、忘れるな」
僕は笑顔を作る。
「心配していただいてありがとうございます。機会があったらそうします。だから、大丈夫です」
そう静かに伝えた後、夜空を見上げる。
紅子さんもそれに倣った。
僕たちの視線の先には、白く輝く満月。中空に浮かんだそれから、白い筋状の光の帯が伸びている。
「あの『月の光』は、真珠を守ってくれそうか?」
紅子さんは僕が以前話した内容──『月の雫』である「真珠」を『月の光』で守りたいと言った僕の言葉を覚えていたようだ。
彼女は僕がどんな回答をするのかと、興味深そうにこちらを見ている。
「ご心配には及びませんよ。僕が真珠の『月の光』になりますから」
わざと尊大な態度で笑ってみせ、チャペル裏口の扉へと向かう。
チャペルに入る前に振り返り、彼女に手を差し伸べる。
「お前もなかなか言うな」
口角を上げた彼女が僕の手を取る。
彼女から伸ばされた手を引き寄せながら、舞台裏へ戻る扉を二人でくぐった。
…
楽屋のようになっている舞台裏。
僕と紅子さんが入った裏口には、貴志さんと加山さん、それに咲也さんが待っていた。
演奏後、真珠から手渡された花束を手にしたまま、僕は誰とも会話をせず、外へ向かった。
一言でも話をしたら、人前で泣いてしまうかもしれない──そんな気がしたからだ。
けれど、その判断は間違っていたのかもしれない。
結果的に、僕は彼等にも心配をかけてしまったのだ。
「ご心配おかけしたようで、申し訳ありません。皆さんの演奏前にお見苦しいところを見せてしまいましたね。でも、もう……大丈夫です」
そう言って彼らの前を通り過ぎようとした時、僕は腕を掴まれた。
驚いて手の伸びてきた方向を見ると、貴志さんが神妙な表情で僕の隣に立っていた。
「貴志さん?」
不思議に思って首を傾げた次の瞬間、気づくと僕は貴志さんの腕の中にいた。
「子供が、そんな顔をするな。ちょっと来い」
そのまま肩を抱えられるようにして彼に連れ出され、再び月光の届くチャペル裏の庭園へ向かった。
少し離れた場所にある植え込み近くで止まると、立ったまま貴志さんの胸に頭を引き寄せられる。
「何と言っていいかわからない。だけど、泣くのを必死に堪えようとするな。心に蓋をして何かを隠そうとする時の顔は、兄妹だけあって……とても真珠に似ているよ」
僕と真珠が似ている?
そう……なのかな。
よく、分からない。
「僕達兄妹二人は、似ていますか? そうだったら、いいな──」
そう言った途端、突然、両目から涙が溢れて止まらなくなった。
(ああ、駄目だ。貴志さんの衣装を汚してしまう。離れないと)
彼から離れようとしたが、それはできなかった。
貴志さんが僕の肩を抱きかかえていたからだ。
「気にするな。顔は隠してやるから、好きなだけ泣いておけ」
その落ち着いた声音に、張り詰めていた心の緊張がとけた。
同時に、皆の前で貫いていた虚勢が急速に剥がれ落ちていくのが分かった。
声が震える。
「ごめん、なさいっ ちょっと、いま……駄目かもしれない、です。少しだけ……っ このまま」
──僕は、人前で初めて、声をあげて泣いた。
貴志さんにしがみ付いて、涙が枯れるまで、感情を抑えることなく、この苦しさを吐き出した。
彼の左腕が僕の肩を強く抱き寄せ、右手は頭を撫でてくれる。
その手は、労りと慈愛に満ちていて、僕の心の澱を溶かしていった。
どのくらいの間、そうしていたのだろう。
とても長い時間、貴志さんの胸を借りて泣いていたように感じだけれど、実際には短い時間だったのかもしれない。
「申し訳ありません」
僕は涙を手の甲で拭いながら、謝罪の言葉を口にする。
「気にするな。落ち着くまで一緒にいてやるから、もう少し甘えていろ。たまには大人に頼れ──それも子供の仕事だ」
彼の優しさに触れながら、僕はゆっくりと顔を上げた。
貴志さんは、僕の目をのぞき込み、本当に大丈夫なのか? と心配そうな表情をしている。
今日は子供のように、我が儘を言ってもいいだろうか?
彼はこの願いを聞き届けてくれるだろうか?
「貴志さん、お願いがあります。今の僕の為に、何か……弾いてくれませんか? 音楽に触れれば心が落ち着く気がするんです。演奏前で申し訳ありませんが、僕の我が儘をきいていただいても、いいでしょうか?」
僕が恐る恐る、声にのせた願い。
返事を聞くのが怖くて、気づくと俯いていた。
今まで、一度として口に出したことのなかった我が儘を、僕は貴志さんにきいてもらおうとしている。
彼は、この我が儘をどう思ったのだろう。不安で心許ない気持ちになる。
「それでお前が落ち着くのなら、お安い御用だ」
聞き遂げられた願いに、僕は咄嗟に顔を上げる。
目の前には、僕の目線と同じ高さになった貴志さんの瞳があった。
そこには、穏やかな光が宿っている。
ホッと安堵した僕は、泣き笑いの中、少しおどけた言葉で返答をする。
「あとで高くつきそうですね」
貴志さんは目を細めると軽口をたたいて、僕の会話に付き合ってくれる。
「そうかもしれないぞ。心配なら、やめておくか?」
少し首を傾げて僕に問いかける彼のその姿は、月明かりに照らされてとても美しく見えた。
「いえ、是非お願いします」
貴志さんは、分かった、と頷いてから、楽屋へ戻るべく立ち上がる。
「何が聴きたいんだ? できる限り要望には応えよう。」
僕はそんな彼を見上げながら、静かに答える。
「ラフマニノフの『ヴォカリーズ』を」
貴志さんは目を見開き、少し寂しそうな表情を見せた。
「そうか……それは、昔の俺が、よく弾いていた曲だ」
彼は遠い目をして、そう呟いた。







