【真珠+穂高】『月の光 - Clair de Lune -』
五分にも満たない演奏だった。
それだけで、分かった。
心を鷲掴みにされた。
兄の心に息づく愛情の美しさを知るには──それだけで充分だった
…
会場内にアナウンスが響き渡る。
先程ステンドグラスを眺めるため、兄と二人で立っていた祭壇中央──今はその位置にグランドピアノが置かれている。
落ち着いた足取りでステージ中央へと進む彼の、大人びた所作に息を呑む。
周囲に座る同年代と思わしき子供たちが、その登場を食い入るように見つめているのが分かった。
おとぎ話の王子さまを彷彿とさせる佇まいで登場した兄。けれど、ピアノに近づくにつれ、その身に纏う空気が変わっていく。
いま、彼の瞳を彩るのは──憂いの光。
そのミステリアスな雰囲気に引き込まれ、観客たちは目が離せなくなり、息を潜めるようにして見守っている。
クロード・ドビュッシー作曲の『月の光』──ベルガマスク組曲全四曲中の第三曲目。ポール・ヴェルレーヌの詩集から曲想を得た、儚くも美しい調べ。今もなお、人々の心を魅了して止まない、悲しみを内包する旋律の名曲。
ピアノの前の椅子に座った兄が、わたしにそっと視線を送った。
とても穏やかな眼差しで見つめられたあと、彼は一瞬だけ、朗らかな微笑みをその面に湛えた。
彼の表情に、何故こんなにも胸が締め付けられるのだろう。
ああ、彼は、ヴェルレーヌの詩に登場する道化師たちのように、悲しみを心の奥に隠し、この曲を奏でるつもりなのだ。
一度目を閉じた兄は、息をゆっくりと吐き切る。
深呼吸と同時に瞼をあけ、その指が彼の心を表す旋律を生み出した。
透明で混じりけのない、素直な音色がはじけた。
清廉な水晶が風に揺れて触れ合い、囁きあうような旋律。
彼の生み出す調べは、なんて純粋で透き通っているのだろう。
欲に塗れた人間が触れたとしたら、この音は途端に砕け、消え去ってしまうのではないか?
そう危惧する程に、繊細で穢れを知らない純真な音の粒。
なんて極限まで研ぎ澄まされた、精緻な調べなのだろう。
清らかで穏やかな、水のせせらぎが聞こえる。
目を閉じると、夜空に輝く月が水面に映る。
刹那の刻を生きる人の儚い一生──それを天空から見守る月。
悠久の時の中、月の光だけは変わらず、この世の闇を道標のように照らす。
澄み渡った夜の空気の中、梢にとまる鳥の羽音が生まれる。
暖かな羽毛に包まれるような、慈愛が満ちる。
この調べは、まるで奇跡のような音色。
無垢な音の輝きに心が浄化されていく。
彼の演奏には迷いがない。
ただ只管に、彼の想い人への純粋な気持ちを籠め、この切ない音色を鳴らしている。
彼の美しい魂を、そのまま投影しているようだ。
見返りを求めない無償の愛が、月の光に宿り、地上に降り注ぐ。
まるで月の光がこの身体を包み、守られているような錯覚にとらわれる。
──大好きだよ。
兄の声で、そう言われた気がした。
何故、そう聞こえたのだろう。
──大好きだよ。
音の粒に隠れながら、兄の想いがわたしの心に重なる。
軽やかで温もりに満ちた音色が、チャペル内を支配する。
もう少しで、兄が隠そうとする本当の心が分かるような気がした。
けれど、全てを理解するまでには至らなかった。
兄がこの音色にのせて、置いて行こうとする愛情の残滓──美しくも悲しい想いの塊が、心の奥底に刻まれていく。
わたしは忘れない。
彼の想いのすべてを。
彼の魂の音色を受け止め、覚えておかなければならない。
今日を限りに心の中に仕舞い込むと決めた、彼の悲しみを。
兄の愛情の音色が語りかけた言葉に、わたしは首を傾げる。
何故、聞こえたのだろう?
何故、わたしに語りかけたのだろう?
兄が爪弾いた穢れのない透き通った旋律が、徐々に終幕へと向かう。
最後の浄化の音色が、残響となってチャペル内に渡ると同時──月の光に魅入られ、止まっていた時が動き出す。緩やかに、穏やかに。
彼は目を閉じたまま、動かない。
物音ひとつ聞こえない。
清浄な『月の光』の音色を、拍手の音で穢してしまうのではないか──そんな戸惑いが周囲から伝わる。
最初の拍手の音は舞台裏から響いた。
我に返った観客たちが手を叩き始め、最初は疎らだったその音が徐々に増えていく。
あまりにも純粋で切ない調べに、頬を濡らす人もいた。
晴夏と理香に促され、わたしは花束を持ってステージへと進む。
わたしは兄へとブーケを手渡した。
彼の瞳には、涙が零れることなく留まっている。
花束を受け取ると、彼はわたしを一度抱きしめてくれた。
「ありがとう……真珠。聴いてくれて……ありがとう」
そう言って、優しく微笑んだ兄は、わたしの髪をひと房取り、そこに口づけると舞台裏へ消えて行った。
彼の姿を言葉もなく見送ったわたしは、咄嗟に出入口に向かって側廊を走り出す。
兄に会わなくてはならない。
訊ねなくてはいけない。
今、それをしなくては答えは一生闇の中だ。
チャペルの裏口にまわり、周囲を確かめながら入り口に近づく。
ドアは開け放たれ、次の奏者の演奏が外まで響いてくる。
ふと裏口の傍に置かれたベンチに人影を認めた。
その人物は花束を抱きしめながら、独り静かに月を見上げている──兄だ。
「穂高……兄さま?」
わたしは恐る恐る、声をかけた。
兄は驚き、こちらに視線をよこす。
「真珠? どうして……ここに?」
彼は息を呑んで、それ以上言葉が継げないでいる。
兄に訊ねなければならない。
彼の想い人とは?
大切な人とは?
守りたい人とは?
大好きだよ──彼の演奏はそう言っていた。
大好きだよ、真珠──わたしの耳には、そう聞こえていたのだ。
これはわたしの自惚れなのだろうか。
十中八九、わたしの勘違いなのだと思う。
けれど、聞かずにはいられない。
もし、兄の言う『結ばれることのない想い人』──それが『妹』であるわたしなのだとしたら?
おそらく、考え過ぎなのだと思う。
彼が『想い人』に向けた心を、誤って解釈しているだけだとは思う。思うのだが──
その考えが正しければ、すべてのピースが揃うのだ。
貴志の、兄の、尊の、あの困ったように笑う表情。あれは──
「穂高兄さま……、兄さまの想い人というのは──」
震える声で口に乗せた質問を、皆まで言わせず、ゆっくりと落ち着いた声で兄が遮る。
「──違うよ。真珠。それは……違う」
慈しむように頭を撫でられる。
優しく微笑む表情を見せるけれど、言葉は微かに硬い響きを残す。
「君は、大切な妹だ。僕の弾き方が悪かったせいで、勘違いをさせてしまったようだね。あの曲は僕の愛する人に捧げた曲。でも、それは──君じゃない」
兄は凛とした眼差しで、はっきりと口にした。
意思の強さの宿る双眸に、わたしは飲み込まれそうになる。
ああ、そうか。
やはり勘違いだったのか。
あの困ったように笑う顔の意味が知りたくて、わたしは何かにこじつけてでも答えを出したかったのかもしれない。
そう思うと途端に恥ずかしくなった。
自意識過剰にもほどがある。
ここまで都合良く解釈できるなど、己の変換能力のポンコツ振りが只々恥ずかしい。
あまりに心無いわたしの無神経発言に対して、兄は憤慨もせず、穏やかな笑顔を見せ、更には頭を撫でてくれた。
羞恥で赤くなり悶えるわたしを慰めようと、兄は言葉を紡ぐ。
「君のことも、勿論とても愛しく思っている。だから、間違いという訳ではないよ──但し、『妹』として、だけどね……」
そう言って兄は、フフッと笑った。
「真珠、もしかしてチャペルから勝手に抜け出てきたの? 晴夏くんが探しに来てくれたみたいだよ」
兄がわたしの背後に向かって、スッと手を上げた。
こちらの人影に気づいた晴夏が走り寄り、わたしを見つけてホッとした表情を見せたあと、深々と溜め息をついた。
「シィ、君はまた勝手にいなくなって。理香さんが僕たちの席を確保しているから、早く会場に戻ろう。貴志さんたちの演奏を間近で聴けなくなる」
晴夏に手を取られ、先程来た道を会場へと戻る。
振り向くと兄がこちらに向かって手を振った後、何事かを呟いているのが見えた。
けれど、彼が何と言ったのか、わたしの耳には届かなかった。
兄はその後、再び夜空を見上げた。
***
真珠は晴夏と共に、演奏会場へ戻って行った。
その途中、こちらを振り返った彼女に、僕は手を振った。
「真珠……僕は君に──上手に嘘が、つけたのかな……?」
答えは何処からも返らない。
僕は濃紺に色づいた夜空を見上げた。
彼女は、月光を浴びて開花する、香り高い花のようだ。
その芳しさに、蝶は知らないうちに引き寄せられる。
一番引き寄せてはいけない蝶が今、彼女の近くに現れようとしている。
月ヶ瀬のネットワークに何度か入り込んだ時に得た情報だ。これは間違いない。
父も何とか回避しようとしたが、阻止はできなかったようだ。
『月ヶ瀬』の長女という立場をめぐって『何か』が動き出しているのかもしれない。
僕が、彼女の笑顔を守ると決めたのは、何時のことだったのか。もう随分昔のことのような気がする。
今日の演奏は、僕にとっての区切りだった。
この想いで彼女を困らせることなく、『兄』として『妹』を守る──その覚悟を持つための儀式だったのだから。
満月の明かりが、煌々と地上を照らす。
清らかで澄み切った光の筋が、地上に降り注ぐ。
「彼女を守れますように。真珠が笑顔でいられますように──僕の嘘に……気づきませんように」
月の光に、僕はそう──祈った。
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『月の光』
https://youtu.be/S1yn_o53_Og
辻井伸行さん
皆様もご存知の通り、本当に胸打つ調べの名曲です。
演奏者によって雰囲気が変わるので、お気に入りの音楽家を見つけるのも楽しいです。







