【真珠】返礼の『Je Te Veux』
意識が浮上する。
一人で起きられたことに安堵し、ソファの上で伸びをする。
休息できたので、身体から怠さが抜けているのが分かった。
わたしは起き上がると、テーブルに置かれたままになっていた飲みかけのミネラルウォーターに口をつける。
両手で頬をピシャリと打って完全に覚醒した後、ソファから勢いよく立ち上がる。
向かう先は、ピアノの隣。貴志の部屋に保管してもらっている自分のバイオリンの元。
黒の布張りのケースを開け、分数バイオリンを取り出し、ショルダーレストをはめてから一度ケースに戻す。
弓を取り出してスクリューをまわし、ホースヘアーを適度に張る。松脂の付き具合を確してから、もう一度塗り重ねる。
(貴志は何処にいるのだろう?)
彼の飲みかけの珈琲が、ソファ前のテーブルに放置されていた。
彼の姿を探すが、見当たらない。
寝室にもいない。一体どこへ行ったのだろう。
わたしは調弦を終わらせ、指慣らしを始める。
貴志が戻ってきたら、わたしから彼に贈りたい曲がある。
指を動かしていると、玄関のロックが解除される音が響いた。
「もう起きていたのか? 紅のところに呼ばれて行っていたが、そろそろ時間だと思って戻ってきたんだ」
貴志はわたしの近くまできて、目線を同じ高さに合わせてくれた。
「うん、一人で起きられた。身体の疲れも取れたみたい。色々と気づいてくれて、ありがとう」
喉の渇きも、身体の疲れも──彼に指摘されるまで自分自身で全く気づけなかった。それなのに、彼は当たり前のように察知し、適切な対処をしてくれたのだ。
大切に守られている──そう思うと心に温かさが宿る。
貴志の隣は、なんて安心できる場所なのだろう。
その嬉しさに顔が綻ぶ。
「貴志、そろそろ答え合わせの時間だよ」
その言葉を受けた彼は、頷いてからソファに腰掛けた。
手にしたバイオリンをケースに戻し、わたしは貴志の目の前に立つ。
「貴志の『Je Te Veux』──あれは、わたしと出会ってからの思い出を辿っていたんだよね? 懐かしくて、とても温かい、まるで陽だまりのような調べ。愛情の海に浸る──そんな時間だった」
溺れるほどの深い愛情。
彼は、その気持ちを包み隠すことなく、わたしに伝えてくれた。
貴志は、ただ穏やかに笑った。
「お前なら、理解すると思った──真珠、この勝負はお前の勝ち、だ」
わたしは、彼の微笑みに同じく笑顔を返す。
「でも、ご褒美は──無し、なんでしょう?」
わたしが欲しいと言ったご褒美──頬への口づけ。
少しでも見込みがあるのならばと思ってお願いしたけれど、彼の今までの言動を鑑みた結果──ご褒美はもらえない予感がしていた。
今は、触れない──貴志が、一度宣言したその言葉を翻すとは思えない。
可能性を賭けてはみたものの、彼の意志の強さを甘く見ていた己に恥じ入るばかりだ。
驚いた表情でわたしを見つめた彼は、複雑そうに笑うと、天井を仰いて溜め息をつく。
「正直、どうしたものか──と、迷っている。一度、自分で決めたことは守りたい。だが、お前との勝負の際にした約束もある──」
彼の言葉に、わたしは咄嗟に反応する。反射的に今までずっと考えていたことが、口を衝いて出てしまったと言う方が正しいかもしれない。
「それならっ それなら──十年後、わたしが十六歳になった時──貴志の心の中に、まだわたしがいたら──その時に……」
わたしはハッと息を呑んで、両手で口を押さえ込んだ。
訝しく思ったのか、貴志が「それはどういう意味だ?」と訊ねる。
「ごめんね。何でもない──……じゃあ、そんな貴志には、お姉さんなわたしから罰を申しつけます!」
わたしは笑顔を貼り付ける。
何かを隠そうと、ひたすら笑う時の表情──彼は、いつもの如くお見通しだと思う。
貴志が、何か言おうと口を開こうとしたけれど、わたしはそれを遮った。
「お願い、貴志。わたしとの約束を反故するのを許すかわりに、唇じゃなくていいから……わたしに触れて。これからも、それだけは……避けないで……お願い。これは、罰というより、お互いの妥協点になるでしょう? なるかな? なるよね?」
懇願するように言葉を紡ぎ、お互いに譲れるのではないかと思われるラインを提示する。
でも、この提案を貴志が受け入れてくれるのかどうか判別がつかず、彼の顔色を窺うように確かめる。
貴志は何故か苦しそうな眼差しを見せる。
「どうして、泣いているんだ?」
涙は出ていない──彼は何故、そんなことを言うのだろう。
貴志の心配そうな眼差しが間近にある。
ああ、そうか──彼が苦しそうにしているのは、わたしの中に潜んでいた憂いが──これから先の未来に起きるかもしれない不安が、彼の心に流れ込んでしまったから?
首を傾げていると、貴志の右手がわたしの頬をそっと包んだ。
わたしはビクッと身体を震わせる。
貴志の掌が触れた、わたしの頬に熱が集まる──この願いは受け入れられたと言うことなのだろうか。
拒絶されなかったことに安堵し、知らず目頭が熱くなる。
「俺も謝らないといけない。妥協点については……受けよう。だから、泣くな──お前が泣くと、どうしていいのか分からなくなる」
吐息がかかるような近い距離で、貴志が困ったように囁いた。
本当にどうしていいのかわからない──そんな彼の戸惑う様子に、くすぐったい気持ちが生まれる。
わたしが抱える不安も憂いも、すべてを包み込み守ろうとする、慈しみに満ちた想いが伝わる。
その心に触れ、波立った気持ちが胸の奥へ押し戻され、心が凪いでいく。
今はまだ、この燻る感情に振り回される時期ではない。
なぜなら、貴志と『主人公』が出会うのは、まだ先のことだから。
本当は、頬へ口付けをして欲しかった。
『最初で最後かもしれない』と思ったのは、貴志がわたしに触れてもよいと思う年齢になるよりも先に、『主人公』が現れる筈だから。
彼女が誰を選ぶのか分からない。
でも、貴志を選んだら?
貴志も彼女に惹かれたら?
わたしは笑顔で、二人のことを応援できるのだろうか?
でも、今は──今日だけは、貴志が真心を以て伝えてくれた『愛情』に包まれていたい。
この幸せな気持ちに浸っていたい。だから──
「そういう時はね、こうやって慰めればいいんだよ」
悪戯に笑ったわたしは、貴志の腕の中にスルリと身を寄せた。
貴志の首に抱きつくと、彼は躊躇いをみせながらも、恐る恐るわたしの背中に腕をまわした。
そのぎこちない抱擁に、わたしはフフッと笑う。
「抱っこは躊躇なくするのに、抱き締めるのは戸惑うの?」
貴志は、この問いに対して、掠れた声で心情を吐露する。
「子供として扱うのと、その『目』をしたお前を抱きしめるのは、意味が違うんだ」
どういうことなのだろう──彼の瞳を見上げ、首を傾げた。
「目?」
貴志はわたしの頬を両手で包み、この眼を見つめて囁く。
「そう──その『目』だ」
彼の瞳の中に、わたしへ向けた熱が宿る。
ただ、愛しいと、その眼差しが愛をささめく。
貴志は目を閉じ、額をコツンとわたしのそれに軽く合わせた。
言葉は何も必要なかった。暫しの時、ただ静かに身を寄せ合うだけで充分だった。
…
言葉でこの気持ちを表す方法を、わたしは知らない。
口に上らせた時点で、陳腐なものになってしまいそうで怖い。
彼を想うこの気持ち──貴志の演奏で気づいたこの想い。
貴志があの音色で、わたしへの想いを伝えてくれた。
彼は心の内を──衷情を披瀝してくれた。
それに応え、返礼をしなければならない。
だからわたしも──自らの奏でる音で、この心の内を語ろうと思う。
ゆっくりとした動作で、わたしは貴志の腕の中から離れ、バイオリンを手にする。
彼は何も語らず、その様子を見守ってくれる。
「あの曲を贈ってくれてありがとう。わたしも
『この音色を、貴方に捧げたい』──
聴いて欲しい、返礼の『Je Te Veux』を」
バイオリンを構え、目を閉じる。
わたしはきっと、貴志のことが『好き』なのだと思う。
この『好き』という気持ちは、伊佐子が両親に感じたものとも、尊に感じたものとも、まったく異質な感情だ。
『触れたい、触れてほしい──その手で、指で、唇で』
そう思うこと自体が、生まれて初めてのことだった。
『貴志以外の人に抱き上げられることが嫌だった』
父や大伯父に抱き上げられることでさえ、戸惑いを覚えた。
咲也に抱き上げられそうになった時──助けを求めて、脳裏に浮かんだのは貴志の顔だった。
この気持ちが『恋』なのか『愛』なのか、まだよく分からない。けれど──
今、わたしの心の中には、間違いなく、貴志がいる。
この音色に、自分の素直な気持ちをのせても許されるだろうか。
今だけは、今日だけは、許されると思いたい。
貴志が、好きだ──
彼への想いを込めて、『あなたが欲しい』と弦を震わせる。
この演奏で伝えるよりも前に、貴志は既に、わたしの中で枝葉を広げ始めたこの想いの息吹を感じていた筈だ。
貴志から捧げられた『Je Te Veux』──彼からの繰り返される「愛しい」という音の囁きを浴び、歓喜に打ち震えたわたしの心は隠しようもなく彼に伝わっている。
あの演奏の間、二人の心は隙間なく繋がり、お互いの真実の心をさらけ出していた。
まるで、心と魂が溶けるかのように交わっていたのだ。
『Je Te Veux』を心の中で歌いながら、愛の旋律を織り上げる。
貴志が、わたしの奏でる調べを聴き、胸元を押さえている。
なぜ、彼は今にも泣きだしそうな表情で、この演奏を聴いているのだろう?
『貴方の苦しみがわたしにはわかる
愛しい人 どうか貴方の心で
わたしを愛してほしい
分別も捨て 寂しさも忘れ
わたしの憧れは、幸せなあの時
二人で幸せになろう
貴方が欲しい
後悔なんてしない
願いはひとつだけ
貴方の傍で、共に生きること
わたしと貴方の心は重なり
貴方の唇はわたしの唇に
貴方の身体はわたしの身体に
わたしのすべてが
貴方のすべてになってほしい
分別も捨て 悲しみも忘れ
わたしの憧れは、大切なあの時
二人で幸せになろう
貴方が欲しい
貴方の瞳の中に約束を探しだす
貴方の恋する心は
わたしを求める
永遠に抱き合い
炎のような想いを
二人の魂を
愛の夢の中に燃やそう
二人で幸せになろう
あなたが欲しい…』
わたしは、彼に救われた。
それだけで充分だった筈なのに。
欲張りになっていく自分が怖い。
わたしには、もう一度『生きる』機会を与えられた幸運と、バイオリンがある。
それだけで、良かったはずなのに。
貴志が贈ってくれた、陽だまりのような愛情あふれる『Je Te Veux』──あれと同じものは、弾けなかった。
苦しくて切ない、けれど恋焦がれる音色で奏でられた『Je Te Veux』──それが、彼に捧げたわたしの心の音色。
貴志は瞬きもせず、目の前で起きたことが信じられないと言う眼差しで、こちらを凝視している。
残響が消えるまで──いや、消えた後も、二人は身動きできずにいた。
わたしも彼の双眸を、静かに見つめ続ける。
何かを必死に堪えようとする彼は、奥歯を噛みしめ、喉元を押さえると天井を仰ぎ見た。
その口元は、微かに震えている。
その震える唇を噛みしめ、瞼を閉じた瞬間──
彼の瞳から、涙が一粒、零れ落ちた。
読んでいただきありがとうございます。
作中掲載歌詞は女性版になります。
パブリックドメインの為、掲載しております。







