【月ヶ瀬穂高】『真珠と穂高』と『月と太陽』
真珠が貴志さんと共に舞台裏に消えると同時に、演奏会はインターミッションに入った。約15分間の休憩だ。
僕の演奏は『クラシックの夕べ』夜の部にプログラムが組まれている。
紅子さんとの約束で、夕方の部のインターミッションで一度抜け、夜の部が始まるまでの時間を休息にあてることになっていた。
「ハル、穂高、お前たち──大丈夫か?」
晴夏と共に真珠と貴志さんの二人を見送った直後、紅子さんがやって来た。
彼女は気遣わしげに、僕達の様子をうかがっているようだ。
その勘の良さに辟易すると共に、その心配りに感謝しながら笑顔で答える。
「僕なら大丈夫ですよ。真珠が貴志さんと一緒にいることを望んでいましたし、それに……彼の演奏は本当に素晴らしかった──まるで真珠ひとりの為に、あの音色を奏でているように聴こえました。だから、お気になさらず」
勝者の当然の権利だ。
貴志さんは、おそらくあの演奏で、真珠の心を勝ち取ったのだ。
彼の演奏を鑑賞している間、真珠はずっと肩を震わせて泣いていた。その様は、子供が泣きじゃくると表現するよりも、大人の女性がさめざめと泣いている姿に見えた。
あの音色が、彼女の心の中の何かを動かした──それは間違いない。
僕は晴夏に視線を移す。
僕よりも──彼の方が心配だった。
おそらく晴夏は、真珠の生み出す音色に心酔し、彼女自身を神聖視している。僕の目には、そう映っていた──昨日までは。
けれど、晴夏は僕の心配をよそに、紅子さんの目を見つめると落ち着いた声で喋り出す。
「貴志さんの演奏には、まだ勝てません。まずは彼に追いつかないといけない。僕が欲しいのは今ではなくて……十年……二十年先の未来です。今はまだ、努力すべきことが他にたくさんある。だから大丈夫。シィが喜んでいるのが一番だから」
僕は彼のことを、大人しい寡黙な少年だと思っていた。けれど、真珠との協奏曲以来、彼の中で何かが変わった。
高潔かつ神秘的な風情を纏い、その均整のとれた容貌から何処か冷たさのあった彼。しかし、彼は突然その様相を変えた。
あの演奏中、僕は彼の瞳に、燃え盛る青い炎を見た。
それは息を呑むほど、苛烈なまでの輝き。
彼の内面に眠っていた激しい情熱の塊を初めて目の当たりにし、僕は全身が粟立つのを禁じえなかった。
どんなに望んだとしても僕が絶対に手に入れられない──真珠を自分の手で幸せにできる立場──そこに、彼は辿り着いた。
そう感じた瞬間だった。
真珠を託せる、信用に足る人物。
貴志さん以外で認めたのは、晴夏が初めてだ。
僕と晴夏の科白を聞いた後、ご機嫌になった紅子さんが、僕達二人の頭を豪快に撫でる。
「今からお前達の将来が楽しみだ。かなりイイ男になるのは間違いないぞ。この紅子さまが保証する。この『匂い』は外れたことがないんだ」
彼女の言葉を耳にした僕は、晴夏と目を合わせると、二人で笑い合った。
「随分、仲良くなったもんだ。やはり、今年の『天球』は最高だ──良かったな……ハル。お前にとって、一生忘れられない夏になったようだな」
晴夏にそう言って笑いかけた紅子さんの目が、少し潤んでいるように見えた。
彼女のその言葉に、晴夏は満面の笑みで答える。
品良く咲き誇る大輪の花の如き笑顔は、息を呑むほど輝いていた。
『天球』を訪れた初日に彼が見せた表情は、どことなく昏さがあった。けれど、今の彼は希望をその瞳に宿している。
彼のその姿を目にした僕は、何故かとても──嬉しくなった。
「さて、穂高、ちょっと顔を貸せ。ハルはどうする。一緒に来るか? それともスズとコンサートに残るか?」
晴夏は少し考えた後、僕達と一緒に行動することを選択した。
音楽を愛する彼──きっとコンサートを選ぶと思っていたので、意外な回答に僕は少しだけ驚いた。
…
「穂高、なぜあの曲を選んだ?」
宿泊棟自室のソファに座ると、紅子さんは開口一番そう言った。
あの曲──僕が、真珠に贈るために選んだ曲だ。
僕はその問いには答えず、別の質問を重ねるかたちで彼女に訊ねる。
「紅子さんは、どうして『美しく綺麗な音色で仕上げよう』とおっしゃったのでしょうか?」
紅子さんは組んだ膝に左肘をのせ、頬杖をつくと軽く溜め息をつく。
「お前があの曲を、真珠に捧げるとは思わなかったからだ。だが、アイツは賢い──お前の気持ちが露見するぞ。いいのか?」
彼女の言葉に、僕は首を傾げる。
「真珠は気づきませんよ。きちんと手順は踏んでいます。その意味を知ったとしても──いえ、知っていても、僕が真珠の為に弾いているなんて、微塵も思わないでしょう。だから大丈夫です。心配していただいて、ありがとうございます」
紅子さんは「ふぅん、そうか。それならいいんだがな」と納得したような、していないような、微妙な表情だ。
「紅子さんが心配しているのは『月が綺麗ですね』というあの言葉ですか?」
明治の文豪・夏目漱石が英語教師をしている時に「I love you.」を「月が綺麗ですね」と訳しておけと、学生に指導したとされる逸話。
実際には、証拠となる出典や文献もないため、本当にあった話なのかどうかは怪しい。
「そうだ。だから『綺麗な音色で仕上げよう』と言ったんだ。それは昨今、愛の告白の常套句らしいからな?」
そんな逸話があることを真珠が知った時、困るのは僕だ──と、紅子さんは心配しているようだ。
「表向きは、紅子さんがおっしゃった通りの意味で合っています。でも、真珠には、この曲は他の女性に捧げると伝えてあるので問題ありません」
『月が綺麗ですね』の意味を真珠が知っていたとしても、まったく問題ない。
むしろ、知ってもらった方が良い。
僕が、愛する誰か──真珠以外の女性の為に捧げた曲という前提が、確実なものとなるからだ。
紅子さんが怪訝な表情で僕に問う。
「表向き? それは、どういう?」
僕はポツリポツリと語りだす。
「僕の名前は、美沙子さんが──母が付けてくれたそうです。稲穂のように伸び伸びと高く、心豊かに育つように──という意味を込めて」
紅子さんは、腕組みをしてソファの背もたれに寄りかかると「それで」と一言口に出し、話を聞く体勢になった。
「父が言っていました──太陽に育まれて豊かに実る稲穂、それが僕の名前の由来だと」
僕の話を黙ったまま聞く彼女は、顎に手を当て頷く。
「真珠の名前は、父が付けたそうです。宝石の真珠は『月の雫』と古来から言われているんです。ご存知ですか?」
僕がそう質問すると、紅子さんは頷く。
「『人魚の涙』に『月の涙』とも言われているな。わたしも好きな宝石だからな、知っているぞ。たしか『月の雫』は、月から零れ落ちた雫が貝の中に入り、月光に育まれて真珠になるという話からつけられた異名だったか……」
紅子さんがその話を知っていることに驚きつつ、僕は首肯する。
「貝は新月と満月の日に成長する。だから、古来からそういった月と真珠を関連付ける話が生まれたのだろう──と、父は言っていました」
なるほど、と呟き紅子さんは少し身を乗り出す。
僕の名前の由来は祖父から聞いて知っていた。けれど、少し前まで、美沙子さんが本当に僕の名前を、そんな意味で付けてくれたのかどうか疑わしいとも思っていた。
本当に愛情をもって命名してくれたのかどうか知りたくて、両親が和解した後、僕の名前の由来を聞いてみたのだ。
そして、真珠の名前は誰がつけたのだろう、と気になっていたことを思い出し、それについても同時に訊ねた。
「長男である僕が日光に育てられる稲穂ならば、長女の彼女は月光に育まれる真珠──そういう対になる物として父が名付けたそうです。美沙子さんの好きな宝石だったということもあったみたいですけど」
紅子さんは、興味深そうに僕が語る話を聞いていた。
「兄弟姉妹は、大抵名前に関連性があるが、お前たち二人の名前については、まったく見当がつかなかった。だが、そんな関係があったとはな──面白い」
鷹司兄妹の名前は、生まれた日の気候に関連付けて名付けたと紅子さんは教えてくれた。
良く晴れた夏の日に誕生したので──晴夏。
涼しくなり、葉が色づき始めた頃に生まれたので──涼葉だと。
「あの曲を選んだ裏には、そういった隠された意味があったのか──なるほどな」
僕達兄妹の命名の由来を聞いた紅子さんは、得心したという表情で独り言ちた。
「真珠が、月から零れ落ちた『月の雫』ならば、元居た場所から注ぐ『月の光』で包み……守りたい──それが、僕がこの曲を彼女に捧げる本当の理由です」
『月の光』──クロード・ドビュッシー作曲。
儚くも美しい音色を秘めたこの曲を──僕は、彼女に捧ぐ。
真珠は知らない──僕たちの名前が対になっていることを。
文豪の逸話を耳にした真珠が、その意味を知ったとしても、僕が彼女の知らない想い人の為に奏でる曲──そう理解する筈だ。
だから、僕が彼女に捧げる曲だとは、きっと思いもしないだろう。
僕の中で、日に日に増していく彼女を想うこの気持ちは、絶対に知られてはいけない。
この想いは、彼女をただ困らせ、苦しめることになるだけだから。
最愛の君へ捧げるこの曲は、偽りに塗れている。
けれど、どうか許して欲しい。
これが、僕から君へ──この気持ちを人知れず贈る、唯ひとつの方法。
今の僕が、君に伝えることのできる精一杯。
この演奏が終わったら、この気持ちは封印する。
だから最後に一度だけ──『この音色を君に捧げたい』
君の心を守るため、
自分に恥じることなく
──僕は、笑顔で嘘をつこう。
大切な何かを、誰かを、守る。
そのためならば、胸を張って嘘をつく──僕は貴志さんと出会った翌朝に、そう誓ったのだから。
今話にて、第6話 月ヶ瀬穂高 1 での真珠の名前の由来について、やっと回収できました。







