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【高荷咲也】「『攻めない』とは言っていない」


「ねえ、貴志。頬にキスくらいしてあげたら良かったのに。勝負とか言われて、きっと真珠、今頃あんたのことをずっと考えてるわよ。食事中なのにあの子ずっと難しい顔してたじゃない。まったく……かわいそうに」


 理香が軽く溜め息をつきながら、呆れ声で貴志を責める。


「たしかに……真珠ちゃんの頭の中は、今頃葛城のことでいっぱいになっていそうだね。いつも、食べ物を見ると目の色を変えるのに、今日に限っては、心此処にあらず──という感じだったしね」


 良治が紅茶を口にしながらクスクスと笑う。相変わらず嫌味なくらいな爽やかさだ。


 しかし、俺は二人の科白を受けて、非常に困惑した。


 何を言っているんだこいつらは──驚きのあまり毒を含んだ声音が出てしまう。


「は? お前ら、それ、本気で言ってるのか? 子供として扱うとかなんとか言いながら、コイツはわざと、あんなことを言ったんだよ──この策士め!」


 貴志は珈琲カップをソーサーに戻すと、腕組みをしながら椅子の背もたれに寄りかかる。


 俺が投げかけた言葉に対する返答は、一言もない。


 あの勝負を持ちかけたのは、こいつが──貴志が、真珠に対して何かしらの揺さぶりをかけたから──つまり計算尽くのこと。


 理香が眉間に皺を寄せて、貴志に詰め寄る。


「どういうことよ? 事と次第によっては、わたし、あんたを許さないわよ」


 理香の食いつき方が怖い。

 般若の如き形相に、ちょっと引く。


 貴志は意外そうな表情を見せた後、苦笑しながら理香を見つめた。


「お前まで(たら)し込まれていたとはな──恐れ入ったよ。あいつには──」


 そう言った貴志が、真珠の姿を追う。


 彼女は、デュオの相方──たしか晴夏という名前だったか、茶話会の時『天ノ原』に最初に乗り込んできた騎士王子──の妹・涼葉を走って追いかけているようだ。


 涼葉の進む先には、真珠の兄と晴夏の二人が見えた。

 彼等は、どうやら見知らぬ少女たちと話し込んでいるようだ。


 食事を共にしたピアニストの柊紅子が、腕組みしながら貴志を見つめている。


 貴志が真珠を目で追うその姿を、穏やかな表情で見ているのが印象的だった。

 母親のような姉のような──そんな慈愛に満ちた表情だ。


 巷では、『チェロ王子』愛人疑惑のある彼女だが、どうやら貴志とは昔馴染みのようだ。

 噂とは、やはり当てならないものだと改めて思う。

 俺と貴志の疑惑──あれも早くどうにかならないものか、と切に願っているところだ。




 少し遠慮がちに柊紅子が貴志に問いかける。


「理香から聞いたが──お前、真珠と賭けをしたらしいな。ハルの渾身の想いを込めた演奏を、まったく明後日の方向に解釈したんだぞ。どう考えても、真珠に勝ち目はないだろう?」


 貴志は勝負を持ちかけた時の様子を思い出しているのか、どこか遠くを見つめるような瞳になる。


「不安だ──と真珠の前では言ったが、実は全く心配していない。あいつは理解するよ」


 その場にいた貴志以外の三人が不思議そうな顔を見せる。

 それは俺も同様だ。


 『アンドロメダ』で飲んだ時も、貴志は『真珠は理解する』と断言していた。


 だが、先ほどの晴夏の演奏に対する対応を鑑みると、真珠の恋愛理解力は甚だアヤシイ──子供だから当たり前と言えば当たり前なのだが……()()()()()()()()()()()()


 お前のその自信は何処からくるんだ!? と、俺は怪訝に思い、目を(すが)めた。

 理香と加山は貴志の言葉が理解できず、お互いの顔を見合わせている。


 柊紅子が納得がいかない様子で口を開く。


「そうは言ってもな──ハルの演奏を聴いて、あろうことか迎え撃ったんだぞ。あの鈍さは天然記念物並みだ。本当に理解できると思っているのか!? お前も、相当おめでたいやつだな」


 貴志は珈琲を一口飲み干すと、軽く息を吐く。


「その晴夏の演奏について、お前に訊きたいことがある。紅、お前は今朝、晴夏に何を言った? 挑発でもしたのか?──あの音を引き出すために」


 柊紅子は、貴志の意図が分からず首を捻ったが、その質問に淡々と答える。


「よく分かったな。ああ、した。ハルの全身全霊の音をぶつけないと、あいつの──真珠の本気は、引き出せないからな」


 あっけらかんと答える彼女に、貴志は深い溜め息をつく。


「演奏家としては良い方向に化けた──が、真珠に対しては悪手以外の何ものでもない」


「どういうことだ?」


 紅子が首を傾げた。


「今回は勝負を挑まれたと勘違いしたからまだ良かった。が、失敗していたら目もあてられない状況になっていたぞ。あいつとの距離を急に詰めようとするな。信頼を得ながら、少しずつ想いを伝えていかないと──手に入らないどころか、真珠は逃げて、二度と捕まえられない。あいつは、そういう女だ──晴夏に『読み間違うな』と言っておけ」


 貴志の言葉に目を見開いた紅子は、呆れた、とでも言うかのような声音を出す。


「お前といい、穂高といい──敵に塩を送りあって、一体何をしているんだ?」


 彼女の科白を受けて、貴志が自嘲の笑みを洩らす。


「俺も以前、晴夏から塩を送られたことがある。二人で話をした時に──そこで背中を押されたんだよ。今回の忠告はそれに対する礼だ」


 柊紅子は彼の言葉を意外に思ったようだが、すぐにニヤリと口角を上げ、不敵な笑みをその顔に刷かせた。


「まったく、揃いも揃ってお前たちは……本当に呆れる──が、悪くない。なかなか気に入ったぞ!」


 その会話を受けて、理香が興味深そうに身を乗り出す。


「貴志なりに色々と考えて真珠と向き合ってきたってわけ? そんなマメな男だったとは……意外だわ。っていうか、本当にどうしちゃったのよ? まあ、良い変化なのは分かるんだけど……」


 理香の科白を耳にした貴志は、穏やかに笑った。


 どんな思いを心の内に棲まわせているのか。人を惹きつけずにはいられないその微笑みは、男の俺でさえも時々息を呑む。


 去年までは、こんな柔らかく笑うことはなかった。それは間違いない。


「意図して対応していた訳じゃない。ただ、真珠のことを見ていてそう感じただけだ。だから、晴夏の選択に焦った。真珠には好意を少しずつ伝えて、それとなく想いを理解させてからでないと──コンサートの時のように全く明後日の方向に打ち返してくる。殊、こういった話題に関しては特に──だ」


 理香が納得したような表情をする。


「で、晴夏にそんなアドバイスをして、横から掻っ攫われたらどうするのよ? 真珠からコンサートの準備をする時に聞いたわよ。『今は触れない』って言ったそうじゃない。だから頬にキスもしないってことなんだろうけど、あんたはこれからどうやって戦うわけ?──人生が変わるくらい、大切に思っているんでしょう?」


 理香は、またあの話術で真珠から色々と訊きだしていたのか。

 本当に恐ろしい女だ──が、悪用はしないので、そこは信用してもいい。


 理香の言葉を受けて、貴志は答える。





「『触れない』とは言ったが、『攻めない』と言った覚えはない」





 俺は溜め息を落とし、貴志のその言葉を継ぐように付け加える。


「だから、こいつはわざと真珠に勝負を持ちかけたんだって言ってるんだよ。なんで分からないんだ──お前らは」


 貴志は「人の心と本質を読む技術は、流石プロの役者だな」と、俺の言葉に対して少し驚いているようだ。



 貴志は数瞬の逡巡をみせ、おそらく彼の本音だと思われる感情を吐露する。

 




「真珠の心の中に、今だけ……俺のことだけを考える時間が、ほんの少しくらいあってもいいだろう──だから、勝負を持ち掛けた。ただ、それだけだ。

 一緒に過ごす時間も、あと数日。離れている間に──俺のことを忘れてしまう可能性だってあるからな。

 少しの時間なら──許されると……思いたい」





 寂しげに笑う貴志は、視線を真珠へと移す。その瞳には複雑な感情が見え隠れする。


(ああ、駄目だ。また、コイツの気持ちに同調してしまう)


 俺の心の中に想いの渦が流れ込む。

 苦しいと言うよりは、こみ上げるような熱い塊が胸に生まれ、切なさを残す。

 打ち返す波のように幾度となく押し寄せるその痛みが、さざめきながら心を支配する。


 こんなにも深い愛情を向けられる彼女は、彼の胸の内を知った時、どんな反応をするのだろうか。




 柊紅子が楽しそうに笑った。


「お前も一切気持ちを隠さなくなったな。いい傾向だ」


 貴志は自嘲の笑みを洩らす。


「真珠が、泣いたからな──だから、もう隠さない──」


 貴志は彼女にそう言葉を返したあと、カップに残った珈琲を口の中に流し込む。


 この話は、ここまで──暗に態度で示すと、貴志は空になった珈琲カップを手に取り立ち上がった。


「加山、そろそろ準備を始めよう」


 良治は腕時計を確認する。


「子供たちは少し昼寝するって言っていたよね? そうだね、そろそろ僕たちも準備を始めようか」


 貴志に続いて良治も立ち上がる。

 それに合わせて理香も器を片付け始めた。


「わたしも、あの子たちを昼寝させなくちゃだから、もう行くわね」


 そう言って理香が立ち上がり、手をヒラヒラさせながら「じゃあね」と先にテーブルを離れた。




 貴志は一度真珠に目を向けると、その面に不思議と凪いだ笑顔をのせた。



「さあ、ドレスリハーサルの時間だ。 行こう、加山」





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