【真珠】貴志の呪い と 涼葉の兄妹愛
午前中の部の演奏を途中退出したわたしたちは、チャペルに戻ることなく『天球館』前広場の食事スペースで、早めの昼食を摂った。
もともとインターミッションで抜け出し、夕方及び夜の部に向けて、子供たちは昼寝をすることになっていたので、紅子と涼葉も途中で加わり、ホテルスタッフの黛さんもご一緒することとなった。
地産品を使用したメニューが並び、どれを選ぼうか悩んでいると、貴志が近くにやって来た。
先ほど彼が見せた、物問いたげな様子を表には出さず、大人の対応を心掛けるさまには本当に感心する。
「お前達は、どれにするんだ?」
わたしは手打ち蕎麦の鴨南蛮か、とちぎ和牛を使ったハンバーグのどちらにしようか、迷っている旨を伝える。
折角の中禅寺湖畔──本当はニジマスの塩焼きも食べたいし、生湯葉も食べたい。
でも、哀しいかな、現在のわたしの胃袋の大きさでは、大人一人分を完食することですら難しいのだ。
兄と晴夏もわたしの隣で、どれにしようかと考え込んでいたので貴志が確認したところ、みんな似たり寄ったりのメニューで悩んでいたようだ。
それなら一品ずつ頼んで、みんなでシェアしようという話になり、貴志がオーダーを取りまとめてくれた。
取り皿をもらい木陰にあるテーブルに座る。
貴志が子供たち用に食事を取り分けていると、黛さんが「わたくしが」と言って交代して盛り付けをしてくれた。
「まゆちゃん、スズはお魚いらなーい!」
涼葉が黛さんに魚は食べたくないと伝えたが、晴夏が「スズ、好き嫌いは駄目だ」と窘め、黛さんも「食べず嫌いはいけませんよ」と言って、結局涼葉の皿の上にもニジマスをほぐした身が置かれた。
涼葉は少し難しそうな表情をしたが「ハルちゃんがそう言うなら、食べる」と諦めたようだ。
その遣り取りを目にしていた兄が「偉いね。涼葉ちゃん」と笑いかけると、彼女は少し頬を赤くしながら「タカちゃんは、スズの隣に来て」とお願いをしていた。
タカちゃんか、なるほど。
涼葉には言いやすいだろうな、と思い、わたしは納得の表情で頷いた。
「シィちゃんは、スズの前に座って? でね、デザートの柚子シャーベットをちょっとだけ『あーん』って食べさせて」
いつの間に『シィシィ』から『シィちゃん』に呼び方が変わっていたのだろうか、涼葉は少し恥ずかしそうにわたしの名前を呼ぶ。
わたしが『スズちゃん』と言うと、彼女は何故かとても嬉しそうで、座っている椅子の上でお尻がピョンッと跳ねた。
黛さんが貴志に声をかけ、大人が座る隣のテーブルに視線を向ける。
「貴志さん、こちらのお子様のテーブルはわたくしがお世話しますので、あちらでごゆっくりされては?」
わたしたちの様子を確認していた貴志は、黛さんの言葉を受け、彼女にお礼を伝えると大人たちの座る席へ戻って行った。
(餌付けもなし──か)
自分の眉間に皺が寄っているのが分かり、指先でその縦ジワをほぐした。
そこで、あれ?──と思ったわたしは首を捻った。
餌付けをされないことは良いことだ。
自主性を持てるし、何よりも周りの視線を気にせずに食べられる。
今までも自分一人で食べたい、と思っていたのではないか。
でも、わたしは今、明らかにガッカリしたのだ。
疑問に思いながらも、ほぐしてもらったニジマスの塩焼きを口に運ぶ。
熱々で美味しい。塩加減も丁度良く、後引く美味しさだ。
けれど──わたしは思わず溜め息をついた。
「どうしたの? 真珠」
兄が心配そうにわたしの顔を覗き込む。
わたしは首をフルフルと左右に振ったあと、笑顔を兄に向ける。
いつもならば食べ物のことで頭がいっぱいになっている筈のわたしだが、今は貴志に持ちかけられた勝負が、思考の大半を占めている。
本当はもっと食べ物の美味しさに集中したいのに、それができない。
わたしの三大欲求の最たるものは「食欲」だった筈だ。
それなのに──折角のご当地料理でさえ、いつものような心躍る感覚があらわれず、自分自身でも非常に当惑しているのだ。
食事は勿論美味しい。この上なく美味だ。
けれど、わたしの中に「食欲」の上を行く、謎の感情が出現している。
これは自分史の中でも、相当な異常事態だ。
貴志に言われた科白が、ずっと頭から離れないのだ。
──本当の意味ってなんだろう?
それを理解しないといけないって、どういうこと?
わたしは無言で食事を続けた。
兄も晴夏も、食べ物を目にした時のいつものわたしの表情とは違うことに気づき、時々こちらを見ては訝しげな眼差しを見せる。
本当は彼らに「気にしないで、大丈夫だから」と伝えたいのに、何故かそれができずに申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
食事をあらかた平らげると、オーダーしていた柚子シャーベットを黛さんが運んでくれた。
「はい、スズちゃん。お口『あーん』ってして」
わたしは鳥の雛に餌付けをするよう、涼葉の口にシャーベットを運ぶ。
涼葉は嬉しそうに口を開け、シャーベットを飲み込むと、またパカッと口を開ける。
庇護欲が湧き、可愛いなと思いながら、その動作を幾度となく繰り返す。
貴志がわたしにする餌付けは、こんな感覚なのだろうか。
たしかにこれは癖になるかもしれない。
兄と晴夏は、デザートを食べ終えると二人で少し離れた場所に歩いて行ってしまった。
穂高兄さまは相変わらずおとぎ話の王子さまのようで、晴夏は外見だけは高貴な『氷の王子』だ。
美少年二人組は、とにかく目立つ。周囲の皆がチラチラと盗み見ているのが遠目にもよく分かった。
すると、周りにいた同年代の少女たちが、彼らに声をかけはじめる。
晴夏はバイオリンケースを背負っていたので、もしかしたら先ほどの演奏を聴いた子供達が、興味を持って話しかけているのかもしれない。
わたしはボーッとしながらその様子を眺めた。
仲良しの美少年王子二人組だ──貴志との勝負に心奪われていなければ、もっと興奮して、彼等の姿を目に焼き付けようと躍起になっていただろうに。
──おかしい。
自分のこの両目は二人を見ているはずなのに、何故こんなにも貴志の顔ばかりが目の前をチラつくのか?
なんだか、貴志に呪いでもかけられた気分だ。
わたしの目線の先が急に気になったのか、涼葉が二人の王子さまへと顔を向ける。
兄と晴夏は、女の子達と当たり障りのない会話をしているように見えた。
少女たちは笑顔で二人と話をしている。楽しそうでなによりだ。
涼葉がその光景を目にした途端、ガタッと椅子を揺らした。
「ハルちゃんっ」
涼葉は晴夏の名前を突然叫ぶと、慌てて席から飛び降り、兄と晴夏の方へ行こうとする。
「スズちゃん? どうしたの?」
わたしが彼女の行動に驚くと、涼葉は少し涙目になりながら「ハルちゃんは、スズのお兄ちゃんなの。だから駄目」と言っている。
そういえばゲーム中でも晴夏と涼葉は、かなり仲良し兄妹だったことを思い出す。
涼葉は当初『主人公』にヤキモチを焼き、プチ悪役令嬢となっていた記憶がある。
『主人公』も、涼葉の存在に不安を覚えるのだが、蓋を開けてみれば単なる「お兄ちゃん大好きっ子」──晴夏が『主人公』に恋心を抱いていることを知ると、一転して、二人を結びつけるべく行動する妹の鑑のようなキャラクターだった。
そして、本家本元の悪役令嬢であるわたしと涼葉の仲は、かなり険悪だった。
ゲーム内の『真珠』は、晴夏の気持ちなどお構いなしに、婚約者という立場を押し付けていたのだから、当たり前とも言えよう。
急に走り出した涼葉のことを、黛さんとわたしの二人で追いかけた。
大好きな兄弟を取られてしまうかもしれないという、複雑な心情を伴うヤキモチか。
──わたしにも覚えのある気持ちだ。
あ……れ?
ああ……そうか!
そういうことだったのか。
貴志に感じている不可解な想いと、涼葉の兄妹愛を知ったことで、自分の心情の輪郭がボンヤリと浮かび上がる。
おそらく、わたしが尊に向けた感情は──兄弟へ向ける肉親の愛情の特殊版だ。
そう──距離が近過ぎたために、それを恋愛感情と勘違いしていただけなのかもしれない。
これが恋愛に興味を持てなかった故に生じた、弊害なのだろう。
自分がそんな想いの区別さえつけられない、欠陥人間であったことにも愕然とした。
けれど──男女の機微に関する事柄に於いてのポンコツさだけは、改めてよく分かった。
おまけに、生まれてこのかた、誰かに愛の告白などと言う高度なテクニックを披露されたことのなかったわたしなのだが──もし、されていたとしても、その時点で全く気づかなかった可能性にも思い至ってしまったのだ。
──自分の鈍さが、心底恐ろしい。
でも、まあ、そんな感情をわたしにむけてくれる奇特な人物も稀だと思うので、そこはあまり考えなくてもいいのかもしれない。
伊佐子二十二年の歴史の中で、誰ともお付き合いをする事態に見舞われなかった残念な理由が、ようやく今になって判明した。
そこで、再び貴志の顔が浮かび、急に心許なくなる。
──わたしに理解できるのだろうか?
貴志がわたしに伝えたいこと──こんなわたしでも、きちんと感じ取れるのだろうか。
ほっぺにチュウとか既に関係なく、貴志の心だけは読み間違えたくない──絶対に。
それが今の正直な気持ちだ。







