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【鷹司晴夏】黒蝶真珠 と 白蝶貝

第60話『クラシックの夕べ』@石のチャペル『天球館』の晴夏視点になります。


  十年後の僕。

  天上の音色。

  椎葉伊佐子。

  運命の音色。


 真珠はいったい何の話をしていたのだろう――

 あの言葉は、僕が夢の中で聞いたものだったのか……?


          …


 夢を見た――見たことのない大人の女性がバイオリンを奏で、僕に微笑む夢を。切れ長の目が印象的な美しい人だ。


 彼女は誰なんだろう?


 その微笑みは何処か、真珠の黄金色の笑顔に似ている気がした。


 彼女がその瞳に音楽への愛情を湛えながら、右手を僕に差し出す。


 僕も自分の右手を出して、彼女と握手をしようとする。


 けれど、腕が動かない。


 僕の右腕はどうしたのだろう。

 何かに抑え込まれているようで、身動きができない。


 早く、その目の前に出された手に対応しないと失礼にあたる。


 微かな焦りを感じ、どうしようと思った瞬間。



 ――目が、覚めた。


 

 ああ、僕はソファの上で少し眠ってしまったようだ。

 夢……だったのか。


 ホッとすると同時に、夢の中で感じた右腕にかかる不自然な重さをここでも感じ、何事だろうと目を向ける。



 瞬間――思わず声をあげそうになった。 



 真珠が僕に寄りかかって、一緒に眠っていたのだ。


 いつの間にソファに移動してきたのだろう。

 彼女は、僕の右肩を枕にしている。


 彼女の左手が僕の右脚のすぐ隣に置かれている。


 ――最初は、この手と指に触れたいと思った。


 そうすることで『天上の音色』に近づける気がしたから。



 ――今は、彼女の『運命の音色』を爪弾くこの手が、指が、ただ愛しくてたまらない。



 この小さな手が、僕の心を暗闇から明るい場所へと掬い上げてくれた。

 光輝く世界を、この胸にもたらしてくれたのだ。



 僕は、彼女の左手に触れ、そっと指を絡ませるように手を繋いだ。


 それだけで、何故か心が穏やかになる。

 もう少しこのままでいようと、僕は再び目を閉じた。




 次に目を覚ました時、僕の眼前を占めていたのは、母と貴志さんだった。


 僕は、驚いて息を呑み、目を見張る。


 真珠も「ひっ……」と言う悲鳴のような声をあげて、二人の顔を凝視していた。


「お前たち、仲良しだな。仲良きことは美しき(かな)!」


 折り重なるように寝入っていた僕たちに向かって、母が囃し立てる。


 どうやら彼らは、熟睡していた僕たち二人を暫く眺めていたようだ。


 僕は、真珠の手を繋いだまま眠ってしまっていたことに気がついた。なんだか気まずい。


 真珠は、なぜ僕と手を繋いでいたのか分からず、かなり慌てているようだった。


 後で彼女から「知らないうちに繋いでいたみたいで、本当にごめんなさい」とこっそり謝罪されたのだが、繋いだのは僕だ。


 僕は何と答えるべきか分からず、固まってしまった。




 真珠は貴志さんに呼ばれ、ウォークインクローゼットの奥へ消えて行った。


 二人で何かを探しているようで、しばらくするとお目当ての物が見つかったのか、真珠はニコニコしながら出てきた。


 手には貴志さんのジレの共布のスカーフを持ち、真珠はとても満足そうな表情だ。


 光沢のあるグレーの布を嬉しそうに見ていた真珠に、貴志さんが綺麗にラッピングされた小さな箱を手渡していた。


「ん? 貴志、何? これは……?」


 真珠は不思議そうに貴志さんの顔を見ている。




「スカーフを留めるのに丁度良いかと思って本館から届けさせた。開けてみろ」




 真珠は不思議そうな顔をしながら、貴志さんと箱を何度も何度も見比べている。




 ものすごく怪しい――という表情で、恐る恐る触っているだけで、彼女はなかなか箱を開けようとしない。




 痺れを切らした貴志さんが、少し呆れながら口を開く。




「ビックリ箱じゃないから、安心して早く開けろ。まったく、お前は俺を何だと思っているんだ」




 彼は腕組みをしながら溜め息をついている。


「いや、えーと、えへへへ……。疑ってごめんなさい」


 ビックリ箱かもしれない、とかなり本気で訝しんでいたらしい。


 そんなことも通じ合えるのか、と二人の心の近さに驚き、この遣り取りを静かに見つめる。


 そこへ母が楽しそうに割り込んできた。


「お! 貴志、なんだそれは。プレゼントか? 真珠、早く開けてみろ。この紅子さまが目利きをしてやるぞ」


 真珠は、箱にかけられたブルーのリボンをほどき、包装紙を丁寧に剥がしていく。



 箱を開けると、花の形をしたブローチが入っていた。



 中心には七色に輝く黒い真珠がついているようだ。

 真円状の大きな黒真珠の周囲には、五枚の花びらに見立てた白く輝く石のようなものがついている。

 それらはまるで、真珠を護るように配置された花弁のように映った。


 母が、興味深そうに眺めている。

 とうやら、目利きをしているようだ。


「ほう――これは、黒蝶真珠? ブラックリップか。照りもかなりいいな。周りの白蝶貝の品質も最高級。真珠、これはなかなかどうして……一生使えるぞ。いい物をもらったな」


 真珠が唖然とした顔になって叫ぶ。


「黒蝶真珠!? え? そんな高価な物、もらえないよ」


 真珠は「もらえない」と遠慮しつつも、その美しさに見惚れているようだ。角度を変えては、黒真珠と白蝶貝の色の変化に心を奪われている。



 貴志さんは、悪戯に成功した時の子供のような、とても嬉しそうな表情をしている。


 彼女の反応を面白がっているようにも映る。



「気に入らなかったか。それは残念」



 貴志さんは肩をすくめ、少しからかうような声音でそう言う。


 本当は真珠がそのプレゼントを気に入ったことを見抜いているのだろう――貴志さんは腕組みをしたまま、少し不敵な笑顔を見せた。その表情の艶やかさに僕は思わず見とれてしまう。




「いや、すごく気に入った。本当に可愛いと思う。うぅ……貴志はズルい、本当は分かってるくせに、そんなことを言うなんて」




 真珠は上目遣いで彼の目を見て、少し恨めしそうにしている。でも、内心はとても嬉しそうだ。



 貴志さんは真珠の頭を撫でながら「気に入ったのなら、素直にもらっておけ」と笑っていた。


「ありがとう。大切にするね。今日早速使わせてもらうよ」


 真珠は、はにかんだ笑みを彼に向けた。


 貴志さんは、ジレの共布のスカーフを指差し「それの結び目に着けるのに丁度良いと思っただけだ」と言っていた。


 母もその様子を楽しそうに見ている。そして、そのブローチを受け取った真珠の様子を確認してから、彼女が口を開く。




「真珠。男からのプレゼントを素直に喜んで受け取るのも『いい女の条件』だ。遠慮も美徳だが、親しい間柄の異性からのプレゼントは感謝して受け取っておけ」



 真珠は「なるほど」と一言呟いてから「勉強になった。紅子ありがとう」と笑顔になった。



 そこで貴志さんがもう一言付け加える。


「ただし、親しくても信用のできる人間からのみ――だ。あとから何を代償に求められるか分からないからな。そこは今後も履き違えるな」


 彼の意見に、母も笑ってそれに同意する。


「そうだな。信頼できるヤツからの贈り物だけ、感謝を示して貰っておけ」


 真珠は「二人とも、教育的指導痛み入ります」と神妙な顔で頷いていた。


          …



 それぞれ男女に分かれて着替えを済ませる。

 僕と穂高は、貴志さんの棟で着替えることになった。


 僕が洗面所に行っている間に、貴志さんと穂高が何事かを話していたようだ。


 穂高の声は聞こえなかったけれど、貴志さんの声が届いてきた。


「は? だから、お前はどこでそんな言葉を覚えるんだ!?」


「何度も言っていると思うんだが、穂高、意味を分かって言っているのか!?」


 ――そんな言葉が繰り返し聞こえてきた。



 着替えを終えた女性陣が貴志さんの部屋に戻り、室内が華やかな彩りで溢れかえる。


 母は真珠が手配していた花束を見て、笑顔を見せた。


 穂高が母に。真珠は貴志さんに、その花束を渡すと伝えると母の目がキラッと光った。




「真珠、貴志の演奏を気に入ったら、花束を渡すときにほっぺにキッスをプレゼントしてやれ」




「へ?」

「え?」


 真珠と穂高が驚いたように声を出す。


「…………」


 僕は、母が何を言っているのか理解するまでに時間がかかり、無言になってしまった。


「なんだお前たち。不服なのか? 最終日はお前たちも演奏があるだろう。その時にしてもらえるかもしれんぞ。楽しみではないか!」


 母は、完全に楽しんでいるようだ。


 声のウキウキ感が空気中に放出されている気がする。


 真珠は、最初母の提案に驚いていたようだが、現在は検討中という表情だ。


 本当にするつもりなのだろうか?


 すると、貴志さんが大仰に溜め息をついて頭を左右に振っている。


「真珠。紅の言うことは気にしなくていい。面白がっているだけだから。花束だけで十分だ。ありがとう」


 彼はそれだけ言うと、母の戯言など聞かなくてもよい、というように真珠の頬に手を当てた。



 もし本当に、貴志さんの言う『天女』が真珠であるならば――


 頬へのキスを喜んで受けそうなものなのに……そうはならないのか、と不思議に思った。


 それが『大人』なのだということに、僕はまだ気づけないでいた。


          …



 シィの首元を飾る貴志さんのスカーフと、彼から贈られたブローチが何度も目に入る。


 スカーフはあの痣を隠すため。

 あの位置に、貴志さんの唇が触れたのだろうか――でも、何のために?


 僕は、何となくモヤモヤするものの、その複雑な自分の気持ちの意味も、貴志さんが彼女の首に触れた目的も、結局分からないままだった。 




 花を象った――黒蝶真珠と白蝶貝で作られた小ぶりのブローチ――貴志さんが選んだ贈り物は、彼女の雰囲気に良く似合っていた。


 彼は、真珠と心を通わせられるだけでなく、彼女に似合うものまで分かっているのだな。羨ましいと思った。



          …



 このブローチは、

 ――僕たちの関係を象徴しているように見えた。


 この中心部分につけられた黒い真珠――あれは真珠本人。


 僕たちはその周りを取り巻く白蝶貝――五片の花びらのうちの三つ――僕と穂高と貴志さん、この三人が玉虫色を帯びた三枚の蝶貝で作られた花びらだ。


 残り二片――それは、僕たちのまだ出会っていない、何処かの誰かが埋めることになるのだろうか。





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