【鷹司晴夏】椎葉伊佐子
穂高との電話を切った後、僕は力なく涼葉の眠るベッドに身体を横たえた。
彼の最後の科白が、鼓膜に張り付いて離れない。
『真珠に何か問題が起きると、決まった訳じゃない。理香が直接貴志さんに仕掛けていく可能性もある。その時は……貴志さんのお手並みを拝見しよう――真珠を本当に託せる人なのか、僕は彼のことも判断しなくてはいけないからね。じゃあ、そろそろ切るよ。また後で』
最後に穂高は、ふふっと楽しそうに笑っていた。
感情の渦が心の中をかき乱し、平静でいられる自信がなかった。
穂高は真珠を愛し、
貴志さんも彼女を慈しんでいる。
それは、僕も一緒だ。
けれど、これは『恋』ではない。
真珠――彼女は僕の『魂の片割れ』
僕自身を形づくる『運命の半身』――そう言っても過言ではないくらい、彼女を自分の一部だと感じているのだ。
今の僕では、穂高にも貴志さんにも到底太刀打ちできない。
自分の不甲斐なさは嫌というほど分かっている。
(諦めるのか? 諦められるのか? 彼女のことを)
今日のユニゾン――あれから更に、彼女への想いは加速していった。
あの魂の共鳴を覚えた時間より以前であれば、この心に芽生えた 彼女へと続く『道』を二人のどちらかに譲ることを考えたかもしれない。
けれど、今となっては――
(無理だ。到底譲ることなどできない)
彼女の音に出合ってから、僕の世界は色づいた。
僕の心の中――昏い灰色の風景に、彼女は閃光のごとく舞い降りた。彼女の音色が干からびた大地を潤し、突然この心に感情という枝葉が芽吹いたのだ。
彼女に出会った時、これは『運命』だと何かが囁いた。
今まで音に心をのせられず苦しんでいた僕を、彼女は共に爪弾くだけで、いとも容易く救い上げたのだ。
(譲れるわけがない)
でも、彼らと戦うのは、今じゃない――僕はまだ彼女の隣に立つ資格はない。穂高と貴志さんの影に佇んでいるだけだ――でも、今はまだ、それでいい。
時が来たら――
十年後、もしくは二十年後――最後に彼女を手に入れるのが僕であればいい。そう、最後に彼女の隣に立つのが僕であればいいのだ。
大輪の花のように笑う彼女の隣で、共に音を奏でるのは――僕だ。
…
昼間、彼女と共に奏でた時間を秘め事のように感じ、人目に触れることさえ恥ずかしいと思っていた自分が情けない。
あの二人と対等になるためには、そんなことに背徳感を覚えている余裕などないのだ。
彼女の音と溶け合わなくてはならない。
彼女の魂の深淵と結びつかなくては、彼女の本気の音色を引き出すことはできない。
今日の彼女の演奏。
あれは、まだ本当の――本気の彼女の調べではない。
どこか余裕のある、まるで幼子を高みから掬い上げて、正しい道に誘うような弾き方だった。
悔しい――僕は彼女に翻弄されるのではなく、僕が彼女の心を揺り動かしたい。
頭が冴えわたる。
神経がピンと張り詰める。
目を閉じて、瞼の裏に浮かぶのは彼女のあの笑顔――僕が『宝物』だと感じた、潤んだ瞳を湛えた黄金色の笑顔だ。
ホゥ――と溜め息をついた時、玄関の扉がそっと静かに開けられた。
ああ、この気配は真珠だ。
彼女が戻ってきたのだ。
真珠がベッドに近づいてくる、僕は目を閉じたまま彼女を脳裏に思い浮かべる。
ベッドの隣に立った真珠は、涼葉の頭を撫でているようだ。
「スズリン、可愛いなぁ。ハル? もう寝ちゃった……よ、ね?」
僕は、そのまま寝たふりをする。
起きて彼女の目を見詰めたら、きっと僕は彼女を抱きしめてしまうだろう。そんなことをしてはいけない。
「寝ちゃったか。結局、寝かしつけしてあげられなかったな……」
彼女は、次いで僕の髪を梳いた。
そして呟くように、囁くように僕に語り掛ける。
「ハル、わたしはあなたの音楽への愛を尊敬しているわ。十年後の『あの』貴方が奏でる『天上の音色』――あれがわたしの憧れだった。あなたがバイオリニストとしての『椎葉伊佐子』を育ててくれたの。ハル、あなたはわたしの『運命の音色』――ありがとう……」
彼女はいったい何の話をしているのだろう――
十年後の僕。
天上の音色。
椎葉伊佐子。
運命の音色。
彼女が語るその声は、いつもの真珠の声ではない。
大人びた、まるで本物の大人の女性のような声色だった。
真珠が「よいしょっと」と掛け声をかけながらベッドに上り、横たわる気配がする。
「貴志は、いまごろ紅子からお尻ペンペンかなー。駄目だ想像するとウケる。逃げてすまんな。まあ、こんなお子さまなわたしに、あんなハードなお仕置きをするのがいかんのだ。さて、わたしはお昼寝と洒落込むか」
いつもの少女の声に戻りブツブツそんなことを呟く。
そして、すぐに彼女の呼気がスヤスヤと音をたてはじめ、深い眠りに落ちていくのが分かった。
僕の心だけ、置き去りにして――
(シィ……君は……いったい何者なんだ?)
眠りに落ちた彼女の顔を、僕はそっと見詰めた。
無邪気な寝顔だ。
先ほどの大人びた気配は、そこに潜んでさえいない。
僕はそのままベッドから起き上がるとソファに移動し、深く腰かけた。
早く寝なければいけないのに、頭が冴えて眠れない。
ソファに置かれた、彼女の首の痕を隠していたスカーフに気づく。
僕はそれをそっと抱きしめた。
ああ、早く眠らなくては。
考えるのは、また起きてからにしよう。
目を閉じ、なかなか訪れない眠りを心待ちにする。
今日はこれから演奏会なのだ。身体を休めなければいけない。
貴志さんの本気の演奏を聴くために、万全の態勢で臨まなくてはならない。
彼の本気の音色を知らなければ、太刀打ちできない。
これから先の未来。僕が憧れた『葛城貴志』とも戦わねばならないのだ。
僕は知らなくてはいけない。
昨夜、彼が弾いた『夢のあとに』だけではなく、全てを搦めとり、奪おうとするあの情熱の曲『リベルタンゴ』の音色も――
それを知らなければ、スタートラインにさえ立てないのだから。







