4 新しい場所
馬車に揺られて丸一日、辿り着いたのは輪という都の次に大きな街だった。
ミトノは依然黙ったままで、降りるときも一人でさっさと行ってしまった。置いて行かれた香助と華は、声を掛けた御者に睨まれて慌てて馬車から降りた。
そこで首がもげそうなほどに見上げた。現れたのは視界いっぱいを覆う大きな屋敷であった。ぐるりと鉄柵で囲まれ、三階建の屋敷の壁を緑の蔦が張り付いている。丁寧に刈られ、整えられた左右対称の庭園が朝日に眩しく照らされ、まるで夢の世界にいるような気分にさせた。
それは、香助の隣に立つ華も同じだったらしく、二人であんぐりと間抜け面を晒していたが、遠くで「お帰りなさいませ」と恭しい声を聞いて我に返った。
二人を残してすたすたと屋敷の中へ入って行ったミトノを追い、もう少しで閉まりそうになっている扉の隙間から体を滑り込ませると、仰々しく並んだ屋敷の使用人等の視線を集めてしまった。
「旦那さま、この方達は?」
ミトノから上着を預かる老人が、身なりでわかるだろうにむすっとした主人に聞く。
ミトノは驚いて呆然と立つ香助と華を見やり、老人に「お前に任せる」と一言呟いて玄関側の階段を上って行った。残された使用人等はそれぞれ散り、その場に香助、華と老人だけになると、老人は慣れた手付きでミトノの上着をブラシで払い、着いて来なさいと階段脇にあった戸を開いた。
「お前達のような子供を旦那さまは時々お連れになるが、お前達は一体何が出来る?」
振り向きもせず、老人は廊下に靴音を立てて言った。
それに対して香助は、「馬の世話と子供の世話と、あと家事のお手伝いが出来ます」と答えた。夜の相手については黙っておいた。店番の話も字は読めるが書けはしないのでそれも黙っておいた。老人はそうかと興味もなさそうに言い、次の戸の前まで来るとくるりと振り向いて華を見下ろした。
「で、お前はどうなんだ?」
ミトノに向けていた眼差しの数倍は冷たく鋭い目。奴隷なら当たり前に向けられる目だったが、華はぷるぷると唇を震わせ怯えていた。華は、初めて売られたのが銀山だった。だから、最初から甘い汁を吸ってしまったせいで奴隷らしくなく生きてしまった。
しかし、彼女にしたらそれが当然で、気に入った男に声を掛けては佳菜子に駄賃を強請り、他の奴隷に店番を押し付けて夜に佳菜子の晩酌の相手をするだけだった。そんな彼女に言える仕事の話などなく、しまいには老人の視線に耐えられず「ご主人さまを喜ばして差し上げます」と偉そうにも宣った。
老人はふん、と鼻を鳴らすと前に向き直り、戸を開けた。
「お前はこの先にある洗濯場へ行きなさい。そしてお前は私に着いて来なさい」
頼りない目が香助に一瞬向けられたが中庭に続く戸は直ぐ様閉められ、華の行方はわからなくなった。
次に彼女に出会ったのは屋敷に来てから三週間後――中庭で仕事中でのこと、別の洗濯係の女が「まあ嫌だ。『クサイ』と会ってしまうだなんて」と顔を歪めて、汚物壺を持った子供を追い払おうとしていたときだった。
それが華だった。
汚物係になった華には名前がなかった。彼女が『華』だと知っているのは香助だけで、あとの者は代々受け継がれる『クサイ』で彼女を呼んだ。
「……奥さまは、いっつも糞ばしてる」
華は少しおかしくなっていた。
ときたま中庭で出会う香助に虚ろな目でそう言って、臭いを漂わせて去って行く。彼女は一日にミトノ、ミトノの妻、使用人の便所を渡り、壺を肥溜めにひっくり返す。想像以上に忙しく、中庭を抜けた先にある小さな小屋と屋敷を行ったり来たりし、香助に「今日の奥さまは五回目だ」とミトノの妻の愚痴だけ告げた。
確かに、ミトノの妻――奥さまはよく便所に入る。洗濯物をしまいに行くと、いつも汚してしまったと奥さま付きの使用人が山盛りになった洗濯籠を渡して来るのだ。
香助は、奥さまは病気だろうかとあまりの多さに不安になり、仲良くなった使用人に聞いた。世話する人が減るということは奴隷も減らされるということだ。が……
「違うわよ」
使用人の女は笑って答えた。「奥さまは妊娠したくてガリの実ばっかり召し上がっているのよ」
香助は初めて聞く言葉に首を傾げた。
「もしかして、いつも部屋のテーブルに乗っている黒い塊ですか?」
「ええ、それよそれ。なんでも都で人気の食べ物らしくて、痩せるのだの、子宝に恵まれるのだの……奥さまは子宝の方を信じて問屋に頼んで運んで貰っているのだけどね、まあ、早く痩せる方だってお認めになればいいのに。このままじゃ枯れちゃうわ」
女は、さも心配しているかのように話すが、「だから旦那さまもお相手になられないのよ」と楽しげでもあった。
香助は軽快に次々と噂話をし始めた女に曖昧な相槌を返し、山盛りの臭う洗濯籠を運んだ。




