12 妄念
緊迫した中へ、アイサが声を落とした。
彼女は「おやまあ」などとわざとらしく言い、律の方を向いていた身体を正面にした。俯く瑞のを獲物を得た獣のように眼をギラつかせ見詰めた。
「いや、知らなかったわ。律さんも教えてくれないから、お前に子供があったとはね。夫に捨てられたとそれだけは聞いていたが……まあ、それだけじゃなかったわけだ。そりゃあ、気が付いて直ぐに血相変えてここを飛び出そうとしたのも頷ける……で、子供も一緒にあの変態に買われたの?」
アイサは容赦なかった。彼女を煽り立てていたのは何か――それは結局、嫉妬であった。長いこと『蘭』の女将を務めて来たが、律の興味は年々薄くなっていた。勿論、信頼で結ばれた絆は強かったが、ずっと女将の地位にいられるほど甘くはない。
アイサで四人目。
一番長いこと律のお気に入りであると自信はあるが、しかし、老いはどんなに隠そうとしても隠しきれなく、そこへやって来たのが意識の朦朧とした瑞の――瑠璃であった。
瑠璃は名前の通りに、吸い込まれそうな目の色を持った美人であった。
アイサは、律がその美しさに惚れて連れて来たのだと一目でわかった。
「こいつを綺麗にしてやってくれ」
大事そうに抱えた瑠璃を律はそう言ってアイサに預けた。意味は二つ――言葉の通り風呂に入れて新しい着物をきせてやること、もう一つは正気を取り戻せということ。
アイサに断ることは当然出来ない。嫌だと一言文句を言ったところで、律が嫉妬の上だと宥めたりはしない。ただ従うだけ……従順に笑みを見せれば地位は守られるのだから、アイサはひやりと冷たくなった指先で瑠璃の頬を包んで微笑んだ。「お任せ下さい旦那さま」
店が店だけに、薬漬けにされた女、強姦され傷付いた女、少女もいれば老いた者も、これまでに律が気に入り連れて来られた女の面倒は何度もして来た。慣れたものだ。皆、律に感謝し、優しく世話するアイサを慕い、別の地区にある“別館”へと奉公のために出された。
その間、アイサよりも愛らしく、見目麗しい女も勿論いた。それでも、誰も自分を越えるような女ではなかった。律はいつも迷いもせず契約書に判を押していた。
けれど、瑠璃が連れて来られてからの日々は苦々しいものだった。瑠璃を見つめる目が憎い――瑠璃はどうだと優しく問いかける声がアイサの足元のヒビを増やし、いつ崩れるかも知れぬ不安に襲われた。
どこから連れて来たのか。瑠璃に一体何があったのか。違法ではあるが慣れた呪術で催眠を解き、暴れる彼女について律へ尋ねたがまともな返事は貰えず、あれよあれよという間に一端の売り子へとなった。
ああ、不本意だ。本当に不本意だ。
そして、それは瑠璃もだ。何もわからない人形のままでよかった。離れ離れになった子供らのことも、無情に売った夫のことも、売ると決まってから安堵した従業員の溜め息も、どうすることも出来ないのなら壊れたままでよかったのだ。
しかし、思い出したくもない記憶を知る香助がいる。
目の前に事実を知る香助が、いやらしい匂いもなく、清潔さを放って自分の前にいる。
アイサは楽しげに顔を歪め、無垢な眼で香助が瑠璃を咎めるのだ。もう耐えられなかった。何故に、奴隷の香助がいるのかを疑問に思うことにさえ頭が回らず、アイサの面と無関係だとでもいう雰囲気の律に、瑠璃は頭と心の糸がぶつりと切れたのを感じた。
「……お前らに何がわかる」
徐に立ち上がり、ぼそっと告げる。
幾つも髪に挿した簪の一本を引き抜きぎっちりと握り締め、つられて解けた髪を顔の横に垂らした。
荒い呼吸で揺れたそれが「やってしまえ」と促しているようだ。
瑠璃は律、アイサ、香助と視線を滑らせ、豹変した彼女に眉一つ動かすことが出来い様子にニヤリと口角を上げた。
「こんなはずじゃなかった……」
ぐつぐつと煮える腸が「あいつのせいだ」と合唱し、奴隷だった人間が綺麗な着物を纏い、美味しそうな夕食にありついていいはずがないと見下す。そこへ座っていいのは自分の可愛い子供達だ――何もかもが憎らしく、瑠璃は全てが羨ましくて仕方がなかった。
彼女は、心のままに簪を逆手に持ち直し、裾をたくし上げて香助に飛び掛かった。
奴隷さえいなければ、奴隷さえ買わなければ、奴隷が奴隷を呼んだんだと、目にも止まらぬ早さで駆け寄り、香助の胸倉を掴んで大きく息を吸い込んだ――途端。
「ぎゃっ」
短く悲鳴を上げ、瑠璃は畳に投げ倒された。
屈強な二人の男が、暴れて泣き叫ぶ瑠璃に猿轡を噛ませ、黒い布袋の頭に被せる。
淡々と難なく仕事を済ませると二人は一礼し、部屋を出て行った。




