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馥郁たる  作者: 15cc
10/16

10 一時の



 香助の小さな手を痛いぐらいに掴んだ律は、屋敷の外に停めて置いた御者とお付きの待つ馬車へ乗り込んだ。

 ミトノが乗っている馬車と比べて見た目は質素ではあるが乗り心地は数段良く、ふかふかの座席は緊張した香助を幾分和らげてくれた。

 律は香助を自分の隣に座らせ、鼻歌混じりに御者ヘ命じた。


「宿へ行ってくれや」


 馬車は車輪の留め具を外され、ゆっくりと走り出した。


 ミトノの屋敷があったのは、カクサン地区の南側――だだっ広い敷地ばかりの身分の高い人間が住まう屋敷が、格子状に並んでいる。

 その一等地から一本北へと真っ直ぐ走る大通りを馬車は行き、繁華街へとやって来た。

 香助は、律に断りを入れ、馬車の小窓に掛けられた布を捲り、賑わう街並みに感嘆した。


「なんだいお前、初めてかい?」


 窓にへばりつく香助に、律が面白そうに聞いた。


「へえ、おら達は外出は許されでねしたんで、こんな……こんなきらきらしたのは、もう、もう……なんて言えばいいんだが」

「言葉もねえってか?」


 律がかわりに言うと、香助はぶんぶん首を縦にした。

 外出が許されていたのは使用人頭に続く係長までだった。奥さまは例外として暇さえ出来れば問屋を呼んでいたが、時折、おめかしをした使用人の女等が出掛けて行くのを見た。自分には全く関係のないことで、ちっとも羨ましい気持ちはなかったが、見渡す限りのきらびやかな世界に女等が頑張って飾り立てていた理由がよくわかった。

 立ち並ぶ屋台は菓子から肉焼き、金細工屋もあったし、水槽をいくつも重ねた金魚屋もあった。大口を開いた食堂からは賑わいと酒の匂いが充満し、道行く者はみな笑顔で通り過ぎる。香助も釣られて頬が緩んだ。軽快な音楽がどこからか聞こえる。それに合わせて肩を組んだ男等が酒瓶片手に足を踏み鳴らしていた。

 全てが初めのことで、全てが目新しく、誰もが外国製の服を着ているせいか夢でも見ているような心地であった。


 その道の角を曲がり、香助は灯りが見えなくなるまで窓から覗いた。馬車は並木道をさらに奥へ奥へと進み、そして、徐々に速さを抑えて馬が嘶いた。


「到着しました」


 お付きの者がガコっと音をさせて扉の開く。

 律が前屈みになり香助の前を過ぎ、お付きの者の手を借りて降り、香助もその後をわくわくと、どきどきと胸を踊らせながら興奮冷めやらずに降りた。

 さて、何が待ち受けているのか――そんなことを思いながらも耳にして来た小粋な音が香助の不安を忘れさせていた。


 だが、目の前に現れたのは、街の何倍も輝く『蘭』と書かれた看板を掲げる娼館であった。どういう仕組みで発色しているのか、怪しげな真っ赤なランプが重厚な観音扉を照らしている。

 その前に立つ筋肉ダルマの男二人が、律に向かって礼をしたのだった。


「お帰りなさいませ、旦那さま」


 香助は、熱が引いていくのを感じた。


 律は表情をなくした香助を気にせず従え中へ入ると、一人の女が出迎えた。

 艶やかな蝶と大輪の花をあしらえた着物をきた女は、一歩前へ出でて香助と律を見てにこりと微笑んだ。その声はとろりと甘やかで優しく、まるで誘われているかのように惹きつけるものであった。


「お帰りなさいませ、随分、可愛らしい娘を連れて……妬けちゃうわ」


 女はしっかりと化粧し、真っ赤な紅を引いているのに仕草が乙女のようで、隣の律をちらりと見上げるとほんのり頬を赤くさせていた。「お前だけだよ」とニヤつきながら律は羽織っていた上着を預けるため女に近付いたが、堂々とした声とは程遠く、今度は耳まで赤くさせていた。

 ランプのせいといえばそれまでかもしれない。

 しかし、色恋沙汰に疎い香助にもわかるほど、律の様子はおかしい。

 香助はあれほど緊張していたのに、二人の醸し出す雰囲気と店の異質さに思考がふわふわとした。

 それは、玄関で焚いている特別な香のせいなのだが、香助には知る由もなく、次に女に差し出された真っ白な手に自分の汚れた小さな手を乗せた。


「あらあら、随分、頑張ったのね」


 女は、汚かろうが、ツンと鼻をつく臭さだろうが全く顔色を変えずにいた。香助の前にしゃがみ、真綿で包むようにしてもう片方の手でも香助のを握ると、上目遣いにうんうんと頷いた。


「もう大丈夫。もう大丈夫よ……律さん、この娘がそうなんでしょう?」


 そのままの姿勢で振り向いて女が聞けば、律は「俺はよっぽど運がいい」と胸を張り、「香助を一等綺麗にしてやってくれ、その間、アイサは俺の相手を頼むよ」といやらしく目を細めた。

 アイサは含み笑いでそれに答え、二拍手で奥から女等を呼んだ。


「この下女に着いておいき。隅々まで風呂で洗って貰いなよ、待っているからね」


 アイサに背を押され、香助は見送る二人を何度も振り返り、振り返り、下女の後を歩いた。

 


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