1 香助
「――香助!」
問屋の相手をしていると母屋の方から自分を呼ぶ声がした。香助は、稲妻にうたれたようにビクンと体を震わせ、問屋に断りを入れて慌てて母屋へと走った。
ばたばたと足音をさせて螺旋階段を上る。また煩くさせたと咎められるだろうが、それよりも何よりも――と思いながらやっと二階の廊下に出て、奥にある部屋へと息も切れ切れに入った。
「へっ、へえ、奥さま」
香助は直ぐに土下座した。
呼んでいたのはこの町で一番の商店『銀山』の女主人の佳菜子だ。顔を真っ赤にさせ、噂の通りの鬼にも見える表情で、外国製の椅子から立ち上がった彼女に香助の体が勝手にぶるぶると震えた。
周りのきらびやかな飾りとは違い、優雅の欠片もない佳菜子が絨毯をどすどすと踏み締める。そして、しゃがむと同時に香助の結いだ髪を握り、無理矢理後ろへ引っ張った。ひっ、と香助が悲鳴を漏らすも、佳菜子はそれも気にならないぐらいに怒って言った。
「香助、おめえ、自分の仕事はなした? 問屋の小栗の相手は華のはずだべ? おめえは金倉の世話のはずだぁ……おめえ、おらの言う事ば聞げねえってことか?」
間近で見下ろす佳菜子の眼は充血し、眉頭がくっつきそうなほどに眉間に皺を寄せ、唾を飛ばす。
香助はごくんと喉を鳴らして「…へ、へえ、金倉の世話はちゃんとしました。小栗さんの相手ばしてたのは、華が急に腹ぁ痛ぐなったからって――」と、言い訳をしたが途中でばしんっと頬を打たれた。
「嘘こぐなっ!」
怒鳴った佳菜子が、今度は拳で香助の打った同じ頬を殴る。
香助は髪を掴まれていたが、その強さに吹っ飛んで壁にぶつかった。
「香助――」
佳菜子がぎりぎりと歯軋りさせて呼ぶ。「おめえは華が羨ましして仕事ば取ったんだろ」
思いもよらない言葉に香助は驚いて佳菜子の顔を見上げた。そんなことはしないと首を振ったが、佳菜子の表情は緩まず、ますます真っ赤になった。佳菜子が倒れた香助の着物の胸ぐらを掴んで言うには、華が泣いて縋って来たらしく、若く優しい小栗に横恋慕して嫌がる華を厩に閉じ込めた、と。
店番の華は佳菜子のお気に入りだった。「おらが男だったら嫁さしてるどごろだ」と毎日華に晩酌させて、可愛らしい華の顔を酒の肴にし眺めていた。
その華が、着物は馬糞まみれ、綺麗に結われたはずの髪はぐしゃぐしゃに藁を絡ませ泣いていたのだから――、佳菜子は怒りがおさまらずぶんっと香助を廊下に投げ捨てた。
「おめえがそのつもりだんなら、おめえば剪定する! 庇護はねえもんだと思えよ!」
香助は、呆気にとられ、勢い良く閉じられた戸を見るしかなかった。
香助が剪定――奴隷商に売られることになった晩、原因の華が香助のいる厩の隣の小屋を訪れた。絶対に、一生着ることが出来ないだろう細かな刺繍のされた夜着を見せびらかすようにして、おかしそうに香助を笑った。
「おめえが小栗さんを取ろうとするがらわりぃんだべ」
「はっ、誰があんな胡散臭ぇ奴ば!」
普段なら、佳菜子のお気に入りに楯突こうなど思わないが、剪定に間違いなく出されることが決まった今、香助は膝をつくこともせず、少し自分より背の低い華を睨みおろした。
華は、一瞬怯んだものの鼻で笑って言い返す。もし手を出されたら佳菜子に告げ口してやろう。そうすれば剪定よりも酷い仕打ちをしてくれるだろうと煽るようにどんと胸で香助を押した。
「小栗さんに褒められで頬ば染でだくせに! うちからあの人ば取ろうとして……好ぎになってもまいんだはんでな! あの人はうちのもんだ!」
華の言葉に香助はぐっと奥歯を噛んだ。佳菜子や華が言う通り横恋慕しようなど微塵も思ってはいないが、滅多に褒めたれたことがない香助が小栗の些細な一言が嬉しかったのは本当だ。「金倉は君が好きなんだね、世話をよくしている証拠だ」と、訛りのない声で言われてどきりとした。
しかし、華が熱を上げるような気持ちにはならなかった。なにせ、小栗は女と見れば誰にでも優しい。ほんわりと微笑み、家業で街や外国にも行くせいか垢抜けた雰囲気は町では異質でまた憧れの的だった。小栗の妻になり他の女に自慢してやる――そんな女が多くいた。だが、香助のように生きることに精一杯、仕事をいかに続けられるかそればっかりの女には、男にうつつを抜かしていることが馬鹿らしく見えた。
夫が欲しい、子供が欲しい、暖かな家庭を欲しがる将来など、ないに等しいことだった。
――結局、香助は華に言いようにいわれるがまま、ただ悔し涙を呑み込んだ。恋を知らずにこのままきっと死んでいく。羨ましく思いながらも、自分はすでに違うものだと黙って耐えた。




