第七十五話 楔
ノインが俺たちに与して魔法を使えば、冥霊は直ちに彼女の命を奪おうとする。冥霊の束縛を解くまで、彼女は魔法を使えないということだ。
(ノインの霧は、砦の全体を覆うことができる。もし俺と協力できれば……いや、その案は初めから無しだ)
そして、冥霊に対する施術を、俺が本当に成功させられるのかという問題がある。もし失敗すれば、アスティナ殿下は精霊に対抗する力をある程度持っているが、ラクエルさんたち三人の騎士たちに危険が及ぶ。
冥霊は生物に恩恵をもたらすものではなく、呪いそのものだ。ノインを制約で縛りつけるという契約に従い、それを妨げるものを無差別に攻撃する――冥霊に対する対処を誤ったばかりに、一つの村が滅びたという記録もある。
それゆえに、禁じられている。学院の書庫の奥には冥霊について記した書物が秘蔵されているというが、一般の生徒が見られるものではない。
だが、ノインは事実として冥霊を宿されている。それは、学院にある書物を閲覧し、悪用したものがいる可能性を示唆していた。
もはや学院すらも、全てが俺たちの味方というわけではない。義姉さんがそれを知っていて看過することは考えられない――学院長である彼女が、学院の職員、そして宮廷魔法士との個人的な繋がりまでも、全て把握できていないのだと思いたい。
「……グラス、ミレニアのことを気にしているのですか?」
「っ……す、すみません。今は、そんな場合じゃ……」
「ミレニア・ウィード学院長は、私とは関わっていないわ。私も末端に過ぎないから、確実にそうとは言い切れないけど……彼女が軍にいるときから今に至るまで、何かの陰謀に関わっていたという話は聞いていない。それどころか、宮廷魔法士となった生徒のその後について、適正な報告を願うと上申していたわ」
義姉さんは、宮廷魔法士の一部が不穏な動きをしていることを関知していたのだろうか。それとも、学院が輩出した生徒の活躍を、後輩たちの励みとするべく示そうとしたのか――俺が知るミレニア・ウィードという人物の性格を考えれば、そのどちらもあるのではないかと思う。
「学院長が、本当の意味で『王国の味方』でいてくれるなら、何の問題もないんだけどね……できるなら、敵になってほしくないよ」
もし、学院に対してまで圧力がかかり、アスティナ殿下に敵対することを強いられたとしたら。俺と同じ学び舎で学んだ魔法士と、ノイン以上の実力を持つ宮廷魔法士たちともいずれ戦わなければならなくなる。
「ジルコニアを攻撃したことが中央に伝われば、私達の命令違反を理由に、王室内部の敵対勢力が動く可能性があります。いえ……確実に、私を捕らえようとするでしょう。彼らの狙いは、私の失脚。そして、幽閉することなのでしょうから」
殿下が戦に出てもし大敗を喫したときは、それを弱みとして責められ、味方であるはずの中央が彼女を追い落とそうとする。
そんな状況で、よく戦い抜けたものだと思う。薄氷の上を渡り、ここまで騎士団を率いてきた彼女が、部下や民を守るための行動で処罰されていいわけがない。
「殿下……私から今、殿下にお話できることがあります。殿下の母君……第一王妃とそのご子息、第一王子と、姉君である第二王女のことです」
「ノイン、それを言えば貴女の命に関わります。今は自分のことを優先してください」
本当はすぐにでも知りたいはずだ。しかし殿下は少しの未練も見せずに断った。
俺たちは侵入に使った経路から脱出し、指揮官宿舎の外に出る。意識を失っているベイルは植物の蔦で吊り上げ、窓の外に出す――同じ蔦を使って外に出たあと、資材小屋に身を潜めていたラクエルさんたち三人と合流する。
「この男は……殿下、捕虜とするのですか?」
ベイルの肩につけられた指揮官章を見て、ラクエルさんはすぐに事情を察した。殿下は頷き、俺はアルラウネを召喚して、彼女の花粉をベイルに嗅がせる。
「う……」
「これから俺たちに同行してもらう。逆らうことは許さない」
「……分かりました……」
目の焦点がぼけているが、催眠はしっかりと働いている。これでベイルによって妨害されることはなくなるだろう。
「軍船のところまで案内してもらう。人目につかない出入り口はあるか?」
「……こちらへ……」
ベイルは最初ふらついていたが、次第に足取りが確かになり、見張りの視界に入らない経路で、河に隣接した船着き場に俺たちを案内する。
砦の中から船着き場に出るためには二つの通用口があるが、そのうち一つだけが衛兵によって守られており、一方は櫓から見張られているようだが、催眠空気玉を使えばあっけなく無力化することができた。
船着き場の中にも見張りはいる――しかしここまで来ると、手練れが混じっているわけでもない敵兵を排除することは難しくなかった。見張りの死角に隠れて息を潜ませ、順に昏倒させていく。最後の一人は、軍船に乗り込むための桟橋を警備していたが、ベイルが姿を見せて釣ったところで、後ろに回り込んだプレシャさんが槍の柄で打って昏倒させた。
「順調すぎて怖いくらいだね……」
「ええ……ですが、やはり風向きが良くありません。このままでは運河に出られず、ジルコニア領側へと流されてしまいます」
「水の精霊魔法を使えば、意のままに船を動かせるということですが……この逆風では、風向きが変わるほうに期待したくなりますわね」
ディーテさんがなびく髪を押さえながら言うと、ノインは苦笑する。彼女がそんな表情を見せるとは思わず、意外に感じられた。
「風だけでなく、川の流れにも逆らわなくてはならない。『水に協力してもらう』しか、今の天候でこの軍船を運河まで運ぶ方法はないわ」
「……精霊魔法とは、やはり恐ろしいものですわね。同時に、頼もしくもありますわ」
ディーテさんは俺を見やって言う。俺のことは頼りにしているが、ノインを信用するのはリスクが高いということだろう。
ノインをこちら側に引き入れることになったのは、俺が立ち会ったからだ――俺の責任も重いが、医者としての経験が、ノインが嘘をついていないことを教えてくれている。
「……待て。何か、音が……これは、角笛……?」
ラクエルさんの言う通り、西の方角から音が聞こえてくる――草たちを踏み荒らしながら、敵兵の一団がこの砦に近づいてきている。
「まさか……いや、あんたは違うね。もう、覚悟を決めてる目だから」
「……アレハンドロが、私の裏切りを感知した。それで兵を送ってきたとしたら……彼らは砦の中に入り込んで、私のことを探そうとする」
「迷ってる暇はないな……全員、軍船に乗り込んでください。俺はここで、ノインの冥霊を『祓霊』します」
「グラス兄、私も儀式の立ち会いならできる。祓霊のための魔法陣を描くこともできる」
「よし……レスリー、頼む。ノイン、少し催眠をかけさせてもらうぞ」
彼女の『拘束に抗う意志』に冥霊が反応するならば、儀式の進行を見ていてもらうだけでも危険がある。
「っ……召喚主さま、この方、私の子どもたちに対して耐性があるのです」
「……何とか抵抗を弱めてみるわ。ごめんなさい、私は魔法士だから……っ、く……」
戦闘魔法士は、精神に影響を与える敵の魔法に反応し、防御する訓練をしているようだ――しかしノインは自分の意志で防御を弱める。
催眠がかかると、ノインの瞳はとろんとして、身体は脱力する。レスリーはその足元に、魔力を通す塗料を用いて魔法陣を描き上げた。
「グラス兄、それは……?」
「俺たちが祓おうとしているのは『冥霊』だ……『霊楔法』を使う必要がある。通常の精霊を祓霊するなら、『楔』は必要ないんだけどな」
今のノインは、強制的に冥霊と契約させられている。その契約を破棄するためには、ノインが本来契約している水の精霊と冥霊との間に、もう一つの精霊――第三霊を介入させて『楔』の役割を果たさせ、一時的に『第三霊』に契約を引き継がせる必要があるのだ。
しかしこれを行うとどうなるか――冥霊の契約をユーセリシスが一時的に引き継ぐため、ノインに対して強制力を持てるということになる。
だが、ユーセリシスがノインの生命を脅かすことは無いので問題はない。問題は、契約を移行させるために顕現させた冥霊を、今の俺の力で封じられるかだ。
「……よし。レスリー、ルーネと一緒に離れていてくれ」
「グラス兄……気をつけて。絶対、無理しないで」
迷っている時間はない。それをレスリーも理解していて、俺の指示通りにアルラウネを抱きかかえ、軍船に乗り込むための縄梯子に近づく。
一人で船着き場に残った俺は、緊張を抑え込むために『海岸松』のエキスを口にする。ラクエルさんにも飲んでもらったものだが、自分で作ったものだからこそ、効果は俺が一番良く知っている――雑念が見る間に消えて、視界が明瞭になる。
「ノイン、本来契約している水の精霊の名前を教えてくれ」
「……水天……アプサラス……」
元素精霊について記した書物でも、水に属する中で上位の精霊――やはり、ノインの実力は相当のものだ。よく名前が上がるのは『ウンディーネ』『ネレイス』などで、これらの精霊も元素精霊ではあるが、天変地異を起こすほどの力は持っていない。
アプサラスは美しい女性の姿をしているという。冥霊を宿されたことで、それがどのような状態にあるのか――。
一刻も速く病を取り除く。俺は決意し、神樹の力を借りるべく詠唱を始めた。
「ノイン・フローレスに宿りし、冥界の精霊よ。その契約を我が精霊に移譲し、在るべき場所へと還りたまえ……!」
詠唱し、地に手を突く。その瞬間、ノインの胸に刻まれた霊導印を蝕むように絡みついた禍々しい存在が、彼女の身体から引き剥がされるようにして姿を現した。
「っ……グラス兄っ……!」
「来るな、レスリー!」
黒い蛇――水の精霊に対立する存在である、冥界の水精。ノインの魔力を吸い上げ、強制的に顕現したそれは、アプサラスの全身に巻き付き、締め上げていた。
契約した精霊が弱り、死に瀕するということは、魔法士自身の生命力を蝕む。アプサラスの首筋に食らいついた黒い蛇は、水精霊の清冽な魔力を吸い上げ、自らの淀んだ肉体を肥え太らせる。
(これが病か……俺の力で封じられるか。いや、封じてみせる……!)
そう誓った瞬間だった、魔法陣の線上に、急速に草が芽吹き、蔦となり、地面を張って広がって、俺とノインごと包み込むように巨大な檻を形成する。
これは、結界――神樹の眷属によって織りなされたもの。ユーセリシスが、冥霊を逃がさずに封じ込めるために作り出したのだ。
これで皆を巻き込む恐れはなくなった。しかしノインの生命力は、今も黒い蛇に吸い上げられ続けている――その力を全て、持ち主の元に返してもらわなければならない。
「……ここからいなくなってもらう。そこはお前の居場所じゃない……!」
黒い蛇がアプサラスの首筋から牙を離す。その次の瞬間、顎を開いた蛇が、目にも留まらぬ速さで襲いかかる――しかし。
「召喚主さま、汚れた水でも関係ないのです! 神樹さまなら……!」
「っ……!」
そう――もう、結果は決まっていたのだ。
ノインの足元に根を張った神樹の眷属が、その蔦を彼女の身体に絡ませたときには。




