玲美 (少女崩壊③)
「よし、これで玲美の喜ぶ顔が見られるぞ。」
玲美の父岳田哲雄は机上に広げた青写真を見て満足の笑みを浮かべた。時は昭和の初め、岳田家は、日本有数の資産を持ち、一族から貴族院議員に名を連ねるものを排す、時の一大権力者であった。
哲雄が今見ているのは、来月に控えた玲美の誕生日のプレゼントにと、設計士に発注していた遊園地の設計図だった。玲美は体が弱く外出もままならない。もうすぐ15歳になるいままで、学校へもほとんど通っていなかった。いつも家の中で玲美のためにつけた真面目で実直でいつも地味な装いの女執事の黒田とメイドとともに過ごしていた。
そんな玲美のため、少しでも気晴らしになれば、と計画したのが、この遊園地だった。さほど規模は大きくないが遊具を取りそろえ、一般にも開放しようと思っていた。
「玲美、来てごらん。」哲雄は玲美を呼んだ。玲美はいつものように真っ白いレースのワンピースを着、栗色の髪は巻き毛に整え、窓辺のソファに腰掛けていたが、父に呼ばれ、立ち上がりそばへ行った。
「御覧、気にいるといいんだが。」哲雄は青写真を玲美に見せた。最初自分が見ているものが何なのかわからなかった玲美だが、だんだんと、それが遊園地の設計図だということがわかってきた。「素敵!乗り物もたくさんあるのね!」哲雄は、玲実の喜ぶさまを見て満足した。「来月のお前の誕生日のプレゼントにと、考えたんだ。」「お父様、素敵!ありがとう!真ん中に回転木馬があるのね。」玲美は回転木馬は物語の世界でしかまだ見たことがなかった。
「ああ、お前が乗ってみたいといっていたからな。だがこの回転木馬はただの回転木馬じゃないんだぞ。世界で一つだけなんだ。」なあに?と玲美が尋ねた。「普通の回転木馬はすべて馬か、馬車のかごなんだが、この回転木馬にはそうじゃないものを一つ入れることになっているんだ、なんだと思う?」玲美はまあ、何かしら、といってしばらく考えたがわからなかった。「降参よ、お父様。」「それはね、お母様の白い象だよ。」玲美はさっきまで座っていたソファのほうを見た。そこには古ぼけた白い象のぬいぐるみがあった。「あの象なの?本当に?」玲美は叫んだ。哲雄はなだめるように玲美の肩を抱き「玲美の大事にしている、お母様の白い象をかごにデザインして木馬の中に据えようと思っている。遊園地は一般の人にも公開しようと思うんだが、その白い象のかご(クレイドル)だけは玲美の専用でほかの誰も乗せない。そのかごに乗れば、玲美はお母様に抱かれているのと同じことだよ。」「うれしい、お父様!」
玲美の母は玲美が幼いころに亡くなっていて、玲美はその母が手作りしてくれた白い象のぬいぐるみを片時も話さずそばに置いていたのだった。哲雄は「たくさん人が来れば玲美にもお友達ができるかもしれないとも思ってね。」と続けた。玲美はいつもひとりだったので友達というものにあこがれていた。「ありがとう、お父様、こんなうれしいことってないわ・・・・。」
開園の日が来た。父や一族の知り合いや取引先から大量の花輪が届き、クラッカーがなり、華やかに遊園地は幕を開けた。「ようこそいらっしゃいませ。」玲実も主催者側に立ち来場者に挨拶をした。この日のために雇われた楽団は一日中休むことなく演奏を続けた。
回転木馬は大人気だった。順番を待つ長い行列ができていた。だが、どんなに込み合っていても、白い象のかごだけはしっかりと網をかけて、誰も乗れないようになっていた。「どうして、ここに乗れないの?」小さな子どもたちは口を尖らせた。
毎日毎日たくさんの人が来た。玲美も気分の良い日には園へ出向くようにした。
開園して一年以上過ぎた。玲美は園に何度も足を運んだ。でも。
玲美はもうわかっていた。いくら待ったって友達なんかできやしない。いくら人が来たって誰も玲美など見やしない。遊園地に来る人は、誰もが連れ立ってやってくる。家族連れや友達同士や・・・、恋人同士や。誰もが自分たちの世界に入っていて、玲美のことなど気にしないのだ。
それどころか、おかしなことが起こっていた。誰も乗れないはずのあの白い象に使われた痕跡があるのだ。係員を問いただしても決して誰も乗せていないという。しかし玲実の、玲実だけの白い象のかごに擦り傷やひっかき傷がついているのだ。「もしかすると、」と係員が言った。「夜のうちに誰か入り込んでいるのかもしれませんね。」
玲実は思ったように友達を得ることができず、傷つき意地になっていた。それで、夜の遊園地に行き誰かが白い象のかごに勝手に乗っていないか見張ろうと決心した。メイドだけを連れ玲美は出かけた。
遊園地につくと、できるだけ音を立てないよう歩いた。夜の遊園地は昼間と違いとても恐ろしかった。風が木々を揺らす音が誰かのうめきに聞こえる。メイドもひどく恐れ二人は体をくっつけあいながら回転木馬のところまできた。「ここでまってて。」玲美は メイドを待たせ、その場所から反対側にある白い象のかごへ行った。すると、
・・・・これは、なんなのかしら?
白い象の小さなかごの中で何かがうごめいている。何かが絡み合ってまるまった大きな肌色の玉のようにも見えた。けれど、その絡んだものの中の一つが人間の脚であることに気づき、玲美ははじかれたように飛びのき、メイドのもとへ行った。「帰りましょう。」というと振り返りもせずすたすたと歩きだした。どうなさいました、お嬢様、と何度も問いかけるメイドの声を上の空で聞きながら玲美は待たせてあった車に乗り、家へ帰った。
家に帰っても、玲美は誰とも口をきかず、部屋に閉じこもったまま三日がすぎた。女執事は心配して仕事で家を空けていた玲美の父、哲雄に連絡した。
哲雄は帰ってくると玲美の部屋に行き、「玲美、どうしたんだ。」と問いかけた。玲美はベッドの中で布団の中にもぐりこみ「何でもないの。」と答えた。
玲美は、まったくあれが何なのかわからなかった。身の回りにいるのは女執事とメイド。女執事の黒田は、独身を通し、実直で、玲美をそういう情報からは完全に遠ざけて生活させていた。それは父哲雄の望みでもあったから。「玲美を穢れを知らぬ娘に育てたい。」その哲雄の言葉を胸に玲美を育ててきた。もし、母が生きていて、目の前で両親の愛情こもったやり取りなどを見ていたなら、あれがどういうことかを知らなくても、ここまで恐怖を感じずにに済んだであろう。だが玲美には母はいなかった。そして、もし母が生きていたなら、恐ろしいことがあれば母に打ち明ければよい。だがそれもかなわなかった。
あれから玲美はずっと心の中で反芻していた。あの光景を。そして、ある出来事を思い出していた。昔、庭を散歩していた時にアジサイの茂みから何か、長い紐のようなものが絡まって出てきたことあった。なんだろうと思ってよく見ると、大きなな蛇の塊だった。二匹の蛇が絡み合っていたのだ。玲美の悲鳴に園丁が飛んできたが「ああ、こいつは、」といってニヤニヤ笑いだした。こんな奴らでも夢中になると、わかんなくなってこんなとこまででてくるんでさい、といって絡まった蛇を棒に巻き付け裏門の外へ放り出した。大丈夫ですよ、青大将ですから、毒はないですからと言って、行ってしまったが、いまだに忘れられぬ光景だ。あの時もこんな気持ちが少しした。恐ろしく逃げ出したいような・・・、そして、・・・もっと見たかったような。思い出すだけで体の芯が熱くなり、奥の方からあふれてくる潤いを止めることができなかった。
哲雄は悔やんでいた。遊園地を一般に公開してしまったことで玲美が傷ついたのだと思ったのだ。玲美のことだけを考えるべきだった、と。哲雄はあまりの玲美のふさぎ込みに何か手立てはないかと思った。そしてある決断をした。
十日もすると玲美は起き上れるようになって、女執事黒田を安心させた。黒田は玲美の亡くなった母親の女学校時代の親友だった。いや、黒田はひそかに、可憐な美しさを持っていた玲美の母親に恋心を抱いていた。そして今はその母親そっくりに美しく成長した玲美に。そういう人だったので、玲美を愛し、玲美に尽くし、玲美を完全に無菌状態で育てて来たのだった。
玲美は少し元気を取り戻していた。あの光景は眼に焼き付いて離れないが、いくら考えてもわからない、わからないことは考えるのはやめにしよう、その代わり、また、夜、あの白い象のところへ行って、あのかごを覗いてみよう。そして中に人がいたら聞いてみよう、「なにしてるんですか?」と。
その日、玲美の父哲雄は、仕事の区切りがつき、十日ぶりにやっと帰宅してきた。そして玲美に行った。「久しぶりに別荘へ行ってみないかい。」
別荘につきお茶の用意をさせている間に哲雄は「玲美、見せたいものがあるんだ。」と玲美を別荘の裏手に連れて行った。
なんとしたことか、そこにはあの白い象のかごのある回転木馬があった。
「お父様、これは・・・。」玲美は息をのんだ。
「うん、こうしたほうが玲美が遊べると思ってね。」哲雄は答えた。
実は軍のほうから、遊園地の遊具を金属供出に提供するよう要請が来ていた。そこで岳田家の力を使い、玲美のため回転木馬だけはのこしてやりたくて、ここに移していたのだった。だが、そんな社会情勢など、かごの中の小鳥のように暮らす玲美は知る由もなかった。
お父様はいつもこうだ、と玲美は思った。いつも、いつも、先回りして私の見たいものを取り上げる。あの蛇のときだって・・・。あの昔、庭で蛇を見つけた次の日園丁に、あれは何だったの、と聞こうとしたが園丁は暇を出されたのか、いくら探しても見つからなかった。実際はその現場を見ていた女執事黒田が園丁の態度に腹を立て首にしていたのだが。
そう、いままでも玲美が異性や恋や性的なものを本や何かで見つけるたびに、それを「お父様が喜ばれませんよ。」と遠ざけていたのは、黒田であった。だが、玲美はすべて父の仕業と思ってしまっていた。
年頃の娘は少女から大人へと変わる。性への目覚めも当然起こる。その変化をそばで監視され、決して許されなかった玲美には、行き場のない負のエネルギーがゆがんだ形で蓄積されていた。これまでも自分の中に自分では抑えきれない衝動を感じることがあった。
玲美はそばのお茶の用意がされたガーデンテーブルに近づくと果物に添えられたナイフを手に取った。そして刃先を向け、まっすぐに哲雄の背中に突き立てた。
私は何をしているのだろう?玲美は手にべっとりとついた赤い血を眺めそう思った。自分の足元には父が倒れ苦しそうにうめいている。お茶の用意をしていた使用人たちは大慌てで母屋へかけていったようだ。音が何も聞こえなかった。夢なのかしら。早くさめますように。玲美は一人、回転木馬の前に立ち続けた。
岳田家の一大事、恥さらし、ということで、親族会議が開かれ、裏から手を回し、この事件は一切、表ざたにはならなかった。父を殺して気の触れた玲美は一族の恥である。まだこのころは一家の恥となるものは座敷牢に閉じ込めるという考えも生きていた時代である。玲美はこの別荘に閉じ込め一生、門の外へ出さぬ、というのが親族会議の決定であった。
そして今、もう戦後も久しいというのに、まだ、玲美はあの回転木馬で遊んでいた。お父様が玲美が遊べるようにとここに移してくださった回転木馬、何も知らず、清らかで、ずうっと遊んでいることがお父様が望まれたことだから・・・。玲美のそばにはあの女執事黒田も付き添っている。
そう、これは玲美の見続けている、住み続けている夢だ。気の触れた玲美は別荘に閉じ込められたのち、回転木馬に乗り続け、木馬にともす明かりを消すことをゆるさなかった。灯りのともされた回転木馬は一面真っ暗な中、上空からさぞ美しく輝いて見えたことだろう。広大な別荘の敷地の中、世間の監視の目は気の触れた玲美のところまでは届かなかった。空襲で直撃を受け、ずっと付き従っていた黒田ともども亡くなった。だが、二人の魂は無間地獄をさまようかのように、それぞれに愛する人の魂を求め続け、錆びついて朽ち果てた回転木馬から離れることができないまま、今もそこでクルクル回る白い象のかごに乗り続けているのである。