その2 完結
さすがに疲れた。
俺は大きく一息ついた。その途端に思わず蹈鞴を踏んでしまう。
やれやれ、もう無理はできないなぁ。俺は手摺を求めて手を伸ばした。
ぐにぐに……。
手に当たる、柔らかい感触。何と無く数回、握ったり放したりしてみる。これと似たようなさわり心地……こないだ特殊なマッサージ屋さんで……。
唐突に嫌な予感が背筋を走った。
そこには顔を紅潮させ、怒りと羞恥の入り混じった表情を浮かべた手摺じゃない、女性が立っていた。彼女が着ているタートルネックの白いセーターの胸元には俺の手。言い訳しがたい図式の中、一瞬にして車内の空気が凍りついた。
「こんの、痴漢野郎ー!!」
女性の絶叫と同時に、俺の横っ面に凄まじい衝撃が走る。
おおっ、首がねじ切れる。
「白昼堂々と私のバストを揉みしだくなんて良い度胸だわ!!大体、ここは女性専用車輌よ!!」
胸を触る俺の手を握り、そのまま無理やり上に掲げさせられる。
しまった、そうだったのか。などと悔やんでみても時はすでに遅し。
「こいつ、やっぱり痴漢よー!!」
言い訳する暇も無く、車輌内に響き渡る声で叫ぶ女性。それにしても、「やっぱり」って。酷いと思うんですけど。
「とりあえず、次の駅で降りてもらうからね」
般若の形相でそんなことを言われ、おまけに手首は痣になりそうな力で握り締められている。
逃げようにも回りは敵だらけ。みんなの視線が痛いことこの上ない。これはまた、降りるときが勝負だな。
「あ、そうだ、ケータイ出しなさいよ」
「え?」
「あんた、逃げるつもりでしょ」
なにぃ!!こ……こいつ、もしやエスパーか!?
「この期に及んで、何まごついてるのよ。絶対に逃がさないからね。あんな…こ、こねくり回して」
恥ずかしいなら、照れるような表現を選ぶなよ。
それ以前に俺は揉みしだくの方がエロいと思う。
「何にやついてるのよ、変態!!さっさと出しなさいよ」
そんなに叫ばなくっても良いじゃないか。わざわざそんなことしなくても、車両中の視線が全部突き刺さっているんだから。
「ほら、早く出して」
彼女が空いているほうの手を差し出してくる。
こうなったら仕方がない。
「俺が悪かった」
つかまれている手をそのままに、突然俺は土下座をして見せた。
「ちょ、いきなり何よ!?」
「本当に、反省している。わざとじゃなかったんだ」
「え、そ、そんなことしたって、勘弁しないからね」
慌てているらしい声の彼女。
「もちろんだとも。然るべきところに突き出してくれて構わない。これは、俺の気持ちなんだ」
若干声などを震わせて見る。手首の力が、ほんの少し緩んだのを感じた。
「えー、何アイツ、信じられなーい」
「土下座してるよ、みっともないね」
「あんなことするなら、最初から痴漢なんてすんなってば」
「頭悪いよねー」
「あいつ、ぜってーに一白水星の生まれだって。鳳仙花の占いに出てたもん。今年の一白水星は女難の相ありって」
「マジで?桃尻って凄くない!?」
「あれ、本気かな、油断させるつもりなんじゃないの?」
一番最後の女、余計なこと言うな。
何気に今、聞いたことのある占い師の名前が出たような……?
で も、車内の空気が、痴漢を見る目から痛い奴を見る目にかわり、彼女は痴漢にあった奴から、痛い奴に捕まった女、的な空気に変わってきた。
少し顔を上げてみると、若干居心地の悪そうな顔に変わってきている。
よぉし、後一押し。
「あ、あのさ、そういうのは後で駅員さんのところに行ってやってよ。とりあえず立ってよ」
「いや、俺はこのままでいい。俺みたいな奴は、立ち上がるのも悪いから。ほんとに、俺は悪い奴だ」
「いや、だから、そうじゃなくてさー」
彼女のほうが泣きそうな声になってきた。
ほらほら、手のロックが甘くなってきていますよー。
次の駅に着くまで、俺はひたすら土下座で詫びを入れたり、自分を貶してみたり。やってみて分かったが、これはなかなかに辛い。
違う意味で心が挫けそうだわ。
「あ、着いたよ。ほら、降りるよ」
「はい、本当に僕なんかのためにすみません。会社とか遅刻させてしまって」
「いや、ほら、うん、駅員さんのところで聞くからさ、降りてよ」
電車を降りて、改札口のほうに歩こうとする彼女。
そこで俺は立ち止まってみる。
「ちょっと、行くわよ」
そう言いながら、彼女が振り向いた瞬間。俺は勢いよく彼女の手を振りほどいた。
ぶちっ!!
なんか音がしたけど、構っている暇があるわけもない。
「ほんとにごめん。事故なんだよー」
そう叫びつつ、そのまま彼女の横を通り抜けてダッシュ。
「あ、待てー、バカーッ!!!」
彼女の絶叫。
俺は同じくこの駅で降りた数人も追い抜いて、改札を駆け抜けた。
「そいつ、痴漢ですー。今駆け抜けた奴」
彼女が後ろで叫んでいる。
ここまで逃げて捕まってたまるか!!
「待ちやがれ、下衆野郎!!ぶっ殺してやる!!」
ありえないぐらいに汚い言葉で俺を罵る声。多分駅員の物なのだろうが……下衆野郎?
この路線にはろくな駅員がいないと感じるのは俺だけだろうか。
そんな事を考えつつ、俺は咄嗟に路地に飛び込んだ。
「あ、狭い道に入ったわ」
「野郎、どこまで汚ねぇんだ。皮を剥いで駅員室に飾るしかねぇな!!」
おまわりさーん、後ろに殺人鬼がいますよー。捕まえてくださーい。
全く、今の日本はどうなっているんだ。
俺が言うなって?さもありなん。
後ちょっとで路地を抜ける。そう思った瞬間、黒塗りの高級外車が路地の出口に横付けされた。
おーまいがっ!!もう駄目だぁ!!
後ろを振り返ると、目を血走らせた駅員と、ちょっと引き気味のタートルネックちゃんが路地を猛然と走ってくる。
いっそ乗り越えるか……。と車のほうを向いた瞬間、突然後部座席のドアが開いた。
「先生、早く乗ってください」
「へ?」
「早く!!」
野太い男の声。
先生?誰と勘違いしているのか分からないが、この際だ。僕は思い切ってその後部座席に乗り込んだ。
同時にばたんとドアが閉まり、車が急発進する。追いかけてきた駅員が何か叫んでいるのが見えた。多分、聞くに堪えないスラングだろう。
何はともあれ、あの連中からは逃げ切ったらしい。
「先生、お疲れ様でした。しかし、警察に追いかけられるとは、らしくもない」
「え?はあ……」
いや、あれは駅員なんですけど。
改めてその男のほうに目線を向けてみる。
黒いスーツに黒いサングラス。ピシッとセットされた髪型。百パーセントの怪しさを醸し出している。
「ターゲットの死亡は確認済みです。まさか喫茶店のマスターになっていようとはね。さすがは先生。見事なお手前で」
……死亡?いや、確かに女性の胸についている脂肪ならこの手で確認したけど……。多分違うよね。
「ただ、一つしくじりましたな」
そう言って、スーツの内ポケットに手を差し込む男。
拳銃!?
男の口元に笑みが浮かび、内ポケットからゆっくりと手が引き出される。
幸いにも拳銃は握られていなかった。男の手の中にあったのは、千切れた糸のついたボタン。
「ターゲットともみ合ったときに引きちぎられたんですな。ちゃんと回収しておきましたよ」
そう言ってそれを手渡される。
男はとんとんと自分の手首を叩いて見せた。
袖口?俺のジャケットの袖口を見ると、確かにボタンが一つ取れていた。
ああ、そうかあの時の音はこれか。
よくよく見れば俺のより高級品じゃないか?
「しかし、逆に今回は引きちぎられて良かった。何しろこの時間に袖口のボタンが引きちぎられたサラリーマン風の男がこの近辺に二人もいるわけはないですからな」
ご満悦のところすみません、偶然いました。
「とは言え、少し遅かったようです。既に警察がかぎつけていたとはね。なかなか侮れない連中だ」
違います。
あれ、駅員。
「下っ端の連中なら、海にでも沈めて終わりなんですが、先生は我々にとっても大事な方だ。この城田、何とか手を打ってみましょう」
城田と名乗った男は物騒なことをさらりと言って、反対側の内ポケットから携帯電話を取り出した。
ああ、そういえば会社に連絡を取らなくちゃなぁ……。
ちらりと時間を確認すると、もう完全にアウトの時間だった。恐らく、課長が烈火のごとく怒っていることだろう。怒ってても良い、課長助けて。
そう思った途端、ポケットの携帯電話が震えた。取り出してみると、会社からだった。城田は携帯電話でどこかと話をしている。
出るなら今だろうか。そう思って、通話ボタンを押そうとした瞬間だった。
「先生ぇっ、電話はご遠慮くだせぇ。サツに盗聴でもされたら厄介ですから」
しゃがれたような声で強く言われ、俺は慌てて携帯電話をポケットに押し込んだ。
運転していた男がミラー越しにこっちを睨んでいた。
がっしりとした体つきの、いかにも武闘派といった感じの男で、ミラー越しとはいえ、睨みつける視線には凄みがある。
「す……すみません」
やがて振動が止まり、同時に俺のサラリーマン生活にもピリオドが打たれてしまった。ため息をつくと、体から力が抜けた。
「ははは、すみませんな。うちの金森はどうも荒っぽくて」
城田の電話は終わったようだ。ため息をつく俺を見て、金森と呼ばれた運転手にうんざりしたように見えたのだろうか。
「話はつきました。これから先生を逃がしてくれるところにいきますので」
逃がしてくれる?
いや、もういいんですけど……。
「金森、凌さんのところに車を回せ」
「へいっ!!」
凌さん?名前からして中国方面の人っぽいが・・・。
嫌な予感がするなぁ。
「これから・・・どこへ?」
勇気を振り絞って城田に聞いてみる。城田はじいっと僕の顔を見つめた後で口を開いた。
「凌さんのところです。先生はご存じないですか?この世界じゃ有名な逃がし屋ですよ」
「いや……聞いたことないです」
知っているわけがない。
まあ、皆さんの世界に近々デビューしそうだけど。
「まあ、先生は今まで逃げなきゃならないような事にならなかったんでしょうな。だからこそ、我々も先生に頼ってきたわけだ」
そう言って自虐的な笑みを浮かべる城田。
「今回のことで、ちょっとは恩返しになるといいんですがね」
先生って誰だよ。
「それはともかく、凌さんに任せれば、先生は絶対に捕まらずにすみます。暫く身を潜めて、またほとぼりが冷めたらお迎えに上がりますよ」
いや、そんなに長いこと隠遁する気はないんだけど……。
「いやぁ、しかし先生の顔を始めて拝見しましたけど、見事に普通の人ですねぇ。顔無しって名前にも納得ですよ。こりゃ、誰も気付かないわけだ。案外、街ではすれ違ってたりするんですか?」
「さ、さあ?」
「なるほど、徹底した秘密というわけだ。さすがはプロフェッショナル。憧れるなぁ」
城田はそう言いながら携帯電話をカチカチと弄り始めた。
「先生、干支は?」
「は?」
「干支ですよ。何年ですか?それぐらい、教えてくれたっていいでしょう」
「ええと、午かなぁ」
「ほう、それは本当?いやいや、信じますよ。えーと、今月の午年は……と」
城田は上機嫌で携帯電話を弄っている。
「あの、何を?」
「桃尻式干支占いですよ。知りませんか?巷じゃ大流行らしいですけど」
またか。一体、何種類の占いを出しているんだ、桃尻鳳仙花とやらは。
「あった、今月の午年は……。やるなら出来うる限りの完璧を求めましょう。中途半端は身の破滅です。但し、道を外れた行いは必ずやあなたに報いを与えるでしょう。ラッキーな方角は西のつく方向。ラッキーな食べ物は餃子だそうです」
当たってる……のだろうか。
「ほら、先生当たってますよ。やっぱりボタンですよ。あれのせいで危うく破滅するところでしたよ」
いや、それは違うと思う。けど確かに、道はたくさん外れたなぁ。
駆け込み乗車に暴力沙汰、そして痴漢。なるほど、この状況はその報いですか。それはあんまりですよ、桃尻先生。
「でも、安心してください。先生が今から向かうのは西です。それに、餃子も美味い。逃げ切れること間違い無しです」
嫌な予感がむくむくと育っている。
でも、人違いだと今更言ったら、きっと殺されるんだろうなぁ。
車が到着したのは、中華料理屋の前だった。
「先生、着きました」
「ここが?」
薄汚れた看板に、立て付けの悪そうなすりガラスの引き戸。どう見ても潰れかけた大衆中華の店だなぁ。
「まあ、おおっぴらに出来る商売じゃありませんからね」
城田はそう言って、先に立って俺を店内に招きいれた。
薄暗い店内、ぼろぼろの机と椅子、薄汚れた壁と床。はがれかかったメニューにいつのものとも知れない、ビールの広告。ノイズ交じりのテレビではワイドショーが流れている。
エプロンを腰に巻いたおっさんが、そのテレビを見ながらぷかぷかと煙草をふかしていた。
「開店はまだだよ」
こちらも見ずに、しわがれた声で男はそういった。
「凌さん、さっき連絡した城田ですよ」
城田という名前を聞き、凌さんと呼ばれた小男は始めてこちらを振り返った。その目は鋭くこちらを睨みつけている。
「おお、待ってたぜ」
流暢な日本語だ。小柄だが、改めてみると尋常ではない迫力を感じる……様な気がする。
「この方が、先生かい?」
「ええ、何とか逃がしていただきたい」
城田の言葉に、凌さんはにやりと笑った。
「おうよ。まかせな」
そう言って、彼がエプロンのポケットから取り出したのはパスポート。
「こいつに、先生の顔を張り付けりゃ、出来上がりだ。なに、段取りはもう組んであるから安心してくんな」
「えーと、それはつまり」
「おうよ、高飛びよ」
予想通りの回答に、俺は膝から崩れ落ちた。
「いやいや、そんなに喜んでくれなくったっていいぜ。こいつが俺の仕事だからなぁ」
凌さんはそう言ってがははと笑った。
違う。断じて違う……。
まあ、そんなわけで俺は今ここにいるわけだ。全く、とんだ目にあったよ。今かい?ああ、今は平和さ。だからこうしてあんたと喋っている俺は笑顔だろ?
さっきから妙に引いてないか?せっかく同郷の人間に会えたんだ、仲良くしてくれよ。
何?気になる?
何がだい?
このアフロ?
このピンクのスーツ?
このアニマルプリントのトートバッグ?
このフレームがトロピカルなサングラス?
しょうがないじゃないか。
O型のラッキーヘアスタイルはアフロだし、乙女座のラッキースタイルはピンクのスーツだ。
一白水星生まれのラッキーバッグはアニマルプリントのトートバッグで、午年のラッキーアイテムは夏っぽいサングラスなんだから。
え?誰が言ってたかって?
もちろん桃尻鳳仙花さ。
信じているのかって?さあ、どうだろうなぁ。
でも俺がこうして生きているのは、この格好をしているおかげかもしれないと思うとね。
まあ、お守りみたいなもの……かな。
そう言えば、あんたの血液型は何型だい?
ここまで読んで頂いて、ありがとうございました。
自分としてはテンポを大事にして書いたつもりなのですが、如何なものだったでしょうか。
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