005話 たまには作者を叩いてみよう(テンプレ批判、ライトノベル批判への苦言・その③)
「一を聞いて十を知る」
という言葉がある。出典は論語だ。
物事のほんの少しの事を聞いただけで、その全てを理解するという意味で、とても賢く優れた洞察力と理解力を持っている事のたとえだ。
ライトノベルを否定する人達は、まさに自分がそういう「一を聞いて十を知る」とても優れた人間であり、他人より遥かにレベルの高い人間だと自負している。
だからライトノベル批判派の人達はライトノベルとその作者、読者をよくも知りもしないのに直ぐに型に当て嵌め決めつける。
大抵は少しの作品を読んで、それで「無価値」「くだらない」「つまらない」「低俗」「得るものは無い」と判断し、それがライトノベルの全てだと判断する。
中にはライトノベルは読まないと広言していながら、ライトノベルは全て無価値と決めつけている人もいる。
読まずに全てのライトノベルの内容を把握し理解しているとは大したものだ。
まるで神様気取りだ。
一つ、つまらないたとえ話をしよう。
「一軒のカレー屋さんがあり、そこに入ってカレーを食べた。不味かった。全国のカレー屋さんも不味いに違いない」
そう判断する人がいるだろうか。
恐らく、せいぜい、このお店はハズレだったと思うくらいだろう。
何か初めての物を食べるにしても一軒のお店だけで判断するというのは早計というものだろう。
これは本でも同じだろう。
純文学であれ大衆文学であれ、ジャンル別で恋愛小説であれ、冒険小説であれ、推理小説であれ、現代小説であれ、歴史小説であれ、他の何であれ、ほんの数冊読んだだけで、その属する文学、ジャンルの全ての本の内容や本質を理解し良いだの悪いだの判断する人がいるだろうか?
恐らくいないと思うし、いたとしても少数派ではないだろうか。
それどころか純文学の作品にだって自分にとって良い作品や、中にはそうでない作品もあると認識しているのではないだうか。
ある純文学の文学賞の選考において、その文学賞を過去に受賞した事もある選考委員の一人が、候補作について「苦労して読んでますけど馬鹿みたいな作品ばかりだったよ」と言った事は有名だ。
純文学の世界に携わっている人の中にさえ、純文学の賞の候補になる作品なのに、そう言う声をあげる人もいる。これは純文学の作品であっても全ての作品が個人個人にとって必ずしも良い作品とは限らないという一例だろう。
他の文学やジャンルについても同様ではないだろうか。
恋愛小説の中にも自分にとって良い作品やそうでない作品もある。
推理小説の中にも自分にとって良い作品やそうでない作品もある。
現代小説の中にも自分にとって良い作品やそうでない作品もある。
歴史小説の中にも自分にとって良い作品やそうでない作品もある。
純文学の中にも自分にとって良い作品やそうでない作品もある。
大衆学の中にも自分にとって良い作品やそうでない作品もある。
詩文の中にも自分にとって良い作品やそうでない作品もある。
etc、etc…
だからこそ、多くの本を読み、良い作品と巡り合う事を楽しみにしているのではないだろうか。
それは本来、ライトノベルとて同じな筈だ。
ライトノベルの中にも自分にとって良い作品がありそうでない作品もある。
だがライトノベル否定派の人達は「ライトノベルだけ」はそういう考え方を絶対にしない。
「一冊のライトノベルを読んだ。読むに値しなかった。ライトノベルは全て読むに値しない」
そう考える。一冊の所が十冊や二十冊読んだという人もいるだろうが結局は同様だ。
それどころか全く読みもせずに決めつける人もいる。
「個」というものを見ようとしない。
ライトノベルは年間数百冊が出されているし、今まで出版されたライトノベルの数はそれこそ膨大な数になるだろう。
そのほんの一欠けらしか読んでいないのに、または全く読んでいないのにライトノベル否定派はライトノベルの全ての本をさも理解しているかのように決めつけ論じる。
ライトノベル否定派は言う。
「ライトノベルは全て内容が薄くテーマは軽い」
「ライトノベルを読む人はライトノベルしか読まない」
「ライトノベルを書く人はライトノベルしか書かない」
「ライトノベルは中高生が読んでいるもの」
さらにこの「小説家に◯ろう」については「読者は中高生ばかり」と言う。
多少言葉が違うかもしれないが、大同小異の言葉をライトノベルの読者と作者は目にしてきただろう。
「ライトノベルは全て内容が薄くテーマは軽い」
確かにそういうライトノベルも多いだろう。
だが、そうでないライトノベルもまた多い。
例えばネット古書店「ブックオ◯・オンライン」のライトノベル・コーナーでは昨年から「重すぎるライトノベル特集」というのを紹介している。
ライトノベルだけど内容が重いという作品28点を取り上げ紹介しているのだ。
コーナーの紹介を読むと「心に深く残る」「シリアスで重厚なストーリー」「読んだあとに何かを得られる」という作品を紹介したという事だ。
私はその28作品のうち一部しか読んだ事が無いので、私自身にとってその全作品が「重すぎるライトノベル」に当て嵌まるかどうかはわからない。
だが、少なくともそのコーナーを作った人にとっては、他人にお薦めできるほどの「重いライトノベル」と言う事なのだろう。
個人の捉え方、考え方にもよるだろうが、ライトノベルを長年読んで来た人ならば多かれ少なかれ「重いライトノベル」と出会った事があるのではないだろうか。
その「ブックオ◯・オンライン」のコーナーには載っていなかったが、私などは重いライトノベルというと「十二国◯」シリーズを思い浮かべる。
特に短編集の最新刊「丕緒◯鳥」の中の「落照◯獄」などは異世界が舞台だが、その国で凶悪犯罪を犯した罪人は死して償うべきなのか、生かして償わせるのか、つまり死刑制度をテーマにした作品で、司法の役人の懊悩が描かれていた。
これが書かれた頃は日本国内で死刑存廃問題が取り沙汰されていた時期であり、死刑制度について命の重みについて考えさせられる作品だった。
特に、日本では死刑存置派が多数を占めるとはいえ、世界的には死刑廃止の流れが強く、日本は国連からも死刑の廃止を求められている。
まぁライトノベル否定派の人達には全く興味の無い話でありテーマだろう。
ちなみに私がライトノベルを読んで初めて涙を流したのは「コバル◯文庫」の「波多野◯」さんの「ファイナル・シュー◯」という小説だった。一人のサッカー少年が不治の病にかかり、それでも最期の瞬間までサッカーに情熱を燃やし悲しい結末を迎えるというストーリーだった。
まぁライトノベル否定派にとっては、まだ少年の主人公が悲劇を迎えようが、そんなのはありふれて大した事はないとか、死刑制度の存廃問題や罪の償いなんて、大した事は無いテーマだと言うに違いない。
何せライトノベル否定派の人達は「ライトノベルは全て内容は薄くテーマは軽い」と言うのだから。
ところで、「◯のライトノベルがすごい!」という本がある。
2004年から毎年出されているライトノベルのランキングを主体にしたライトノベルの紹介本だ。
最新の2015年版と前年の2014年版で、作品部門でランキング1位がある作品によって連覇された。
その著者は2014年版の中のインタビューで、ライトノベルは頭をつかわない低俗なものみたいな偏見には抵抗があるので、そう言われない作品を書くように思っていると発言している。
その作品を読んだ事が無いので実際に私にとってどうなのかはわからない。
だが、著者としてはそういう思いで書いており、それがライトノベルを代表する人気作になっている事も事実だ。
まぁライトノベル否定派の人達は、ライトノベル著者のそうした努力や思いなんて一切認めないだろう。
何せライトノベル否定派の人達は「ライトノベルは全て内容は薄くテーマは軽い」と言うのだから。
ライトノベル否定派は言う。
「ライトノベルは中高生が読んでいるもの」
「『小説家に◯ろう』の読者は中高生ばかり」
果たしてそうだろうか?
2014年12月22日に「この小説家に◯ろうがアツイ!」という本が出版された。
「小説家になろ◯」の運営会社と「富士◯書房」が協力して出した本だ。
「小説家にな◯う」の作品が多数紹介されている。
読んだ方もおいでだろう。
この本には「小説家に◯ろう」における読者の年齢層のデータも載っている。
それによると、
13歳~18歳の中高生の読者は全体の25%という数字が出ている。
18歳~22歳の大学生と同じくらいの年齢の読者は17.6%という数字が出ている。
23歳~29歳までの20代の大人の読者は23.7%という数字が出ている。
30歳以上の中高年の読者は全体の31.9%という数字が出ている。
つまり「小説家◯なろう」の読者は中高生がメインだなんて事は無い。
中高生は読者の4人に1人なのだから。
そもそも、これは想定外の数字というわけではない。
予想されていた事だ。
2004年に発売された「このライトノベルが◯ごい!」にはライトノベルの読者層は「中高生から20代」という事が記述されている。もう10年以上も前の話だ。
2013年に某出版社の運営するサイトでライトノベルが話題に取り上げられていたが、そこには今や30代がライトノベル読者の中核を担っているという話だった。
同じ2013年に某編集長はネット上で「小説家◯なろう」のメインの年齢層はその作品の傾向から見て20代後半から30代ではないかという推測を披露していた。
更に同じ2013年、ライトノベル・レーベルに新たに「MF◯ックス」が加わった。
この「MFブ◯クス」は、ここ「小説家◯なろう」と提携して小説を出版しているので、ご存知の方も多いだろう。「小説家に◯ろう」から既に複数の作品が書籍化されている。
それも主に異世界ハーレムチート系の作品だ。
その「MFブック◯」は最初から読者層(客層)を30代~40代としている。何故なら他社においても、その年齢層がお客になっているからだ。
出版社だって商売だ。売れなきゃ潰れる。その出版社が、それも「◯説家になろう」から書籍化する作品の客層を30代~40代としている事は大いに注目するべき点だろう。
このように、もう何年も前からライトノベルの読者層の年齢が高くなっている事や、「小◯家になろう」の読者層が高い事は、あちらこちらで言われていたのだ。
ライトノベル否定派は「ライトノベル」という言葉が使われ始めた頃の、ライトノベルは中高生が読む物というイメージで現在も物を語っているのだろう。
そしてライトノベルは中高生が読む物だから、ライトノベル調の作品が多い「小説◯になろう」も作者も読者も中高生がメインだと安易に決めつけたのだろう。
きちんと調べもせず偏見混じりのイメージで語っているのだから困ったものだ。
しかも、ライトノベル否定派の人達は、その「小◯家になろう」の読者層は中高生という間違った推測から飛躍して、さらにおかしな推論を組み立てる。
今時の中高生の多くは、人生に疲れ果て未来に絶望し将来に希望が持てないから逃避先として異世界ハーレムチートに救いを求めている。だから「小説◯になろう」では「異世界ハーレムチート」が人気になる。なんて分析していたりする。
だが、それがいかに的外れか、前提となる「小説家になろ◯」の年齢層を見誤っている事からもわかろうというものだ。
そもそもちょっと考えてみればわかるだろう。
人生に疲れ果て未来に絶望しているというのなら、それは中高年の大人に多い筈だろう。
社会人にはなったけれど、若者だった頃に夢見ていた人生を歩めている人がどれほどいるだろうか。
若いうちに何かしらの分野で栄達を望む夢を見ていたとしても、大半の人はそれはかなわず普通に就職する事になる。
就職するにしても、今の中高年が新卒で就職した90年代~2000年代は、不況が長く続き厳しい就職状況だった。そのため第1希望の企業に就職できたなんて人は圧倒的に少数派だ。
もうかなり以前から大学生の間では「大手病」という言葉がある。
大手企業への就職に執着する言葉だ。
「寄らば大樹の陰」で、ともかく大企業に就職したい。そうすれば生活は安定し、見栄もはれるし自慢できる。だから就職先として大手企業ばかりを希望する。
それは人としてわかる。当然すぎる考えだろう。
だが、世の中、そうはうまく行かない。
大手企業の求人にも限りがある。希望者全員なんて採用できない。不況の時なら尚更だ。
ましてや企業だって慈善事業で人を雇うのではない。
利益を出さなきゃ会社が潰れる。不況の時には一部上場企業だって倒産するし、中小企業を含め年間1万社以上が実際に潰れているのだ。
企業も他社との競争に勝たなきゃ生き残れない。
そこで良い人材が欲しい。
だから大手企業、それも一流と評価されてるような大企業は、低ランクの大学の学生などは殆ど採用しない。中にはその年の採用予定人数に達していなくても、就職希望の大学生に一定のレベルが無いとそこで採用を打ち切っているという企業もあるくらいだ。
ついでに言うと、不況の時は大学生の就職難が声高に言われるが、それは低ランクの大学の学生が主に苦労しているのであり、高ランクの大学の学生の就職内定率はさほど変わらなかったりするの実情だ。
それはともかく、今の中高年層が大学を出る頃の大手企業の求人倍率は特に低かった。
2015年度の大手企業の求人倍率はアベノミクス効果もあり0.73倍だが、今の30代後半から40代前半の人達の時代は諸に不況の大波で大手企業の求人倍率は0.32倍とか0.36倍とかいう数字が珍しくなかった時代だ。現在の半分以下だ。
つまり大手企業に就職を希望しても3人に1人程度しか入れない。
何社も大手企業の採用試験を受けるがうまくいかず、結局は希望していなかった中小企業に行くか独立するしかなくなる。独立するにも資金がいるからその多くは中小企業に行くか非正規雇用となった。
その不満の残る就職で妥協し、安い給料で扱き使われ、出世も頭打ち、転職したくてもリスクも大きい。だから現状に甘んじ自らの生活のため、家族の生活のために頑張って働いているのが今の30代から40代の人の大半だ。
はっきり言って、もうここまで歳をとると、この先、自分の人生に輝かしい未来があるかどうかなんて、わかってくる。大半の人にその可能性は限りなく低い。
家内安全、子供の健やかな成長、ちょっとした趣味、会社でのちょっとした仕事の成功。そうした事に細やかな幸福を見出し満足するしかない。
そこには世間から注目されるような華々しい成功や輝かしい栄光なんてものはない。
そんな30代から40代の人達の一部が「小説家になろう」の小説に、「異世界ハーレムチート作品」の主人公の活躍に感情移入して、現実世界では味わう事のできない悦びを享受し、そこに慰めを見出していると考える方が自然だろう。
だからこそ30代~40代に異世界ハーレムチートの作品が売れているのではないか。
それに作者にしても、少なくとも社会人の年齢で異世界ハーレムチートを書いている人はかなりいるのではないかと思う。
ライトノベル否定派は読まないから知らないだろうが「異世界ハーレムチート」の作者の活動報告や後書きを読むと、仕事や会社の事に触れていたりして社会人とわかる作者も結構いるのだ。
確かに、ワーキングプア(働く貧困層)の家庭も多く、厳しい環境にある子供達も多いので、人生の行く末に不安を持っている子供もそれなりにいるだろう。
だが若者はまだ未来に希望を持てる。
あるプロのライトノベル作家さんは大学を卒業をするまでは世界は自分を中心に回っていると思っていたけど、社会に出てそうではない事を知ったという事を後書きで書いていた。
多くの若者はそんなものではないだろうか。
大半の子供は親の庇護の許に衣食住を与えられ、受験戦争という戦いはあるものの、未来を絶望視するほどにはいたっていないのではないだろうか。
友達と遊んだり、部活に熱中したり、楽しい事を享受している子の方が多いのではないだろうか。
人は本当に人生に絶望したら自殺という道を選んでしまう。
内閣府のデータによる平成24年における自殺者の数を見てみよう。
19歳以下の10代が587人だ。痛ましい事だ。
30歳~39歳は3781人だ。10代の自殺者の6倍以上だ。悲しい事だ。
40歳~49歳は4616人だ。10代の自殺者の7倍以上だ。悲痛な事だ。
いかに中高年の30代~40代が10代の若者より多く自殺という道を選んでいるかわかるだろう。
それだけ人生に絶望し追い詰められているという点では、10代より30代、40代の人の方が多いのだ。
だから「異世界ハーレムチート」を好む読者層の年齢が高くても私は驚きはしないのだ。
だが、こうした「この小説家になろう◯アツイ!」に載っている読者の年齢層のデータなど、ライトノベル否定派の人達は認めないだろう。
何故なら自分達は賢く間違いをおかすような人間ではないと自負しているからだ。
間違いを認めればプライドに傷が付くからだ。
自己愛が極限にまで肥大しているからだ。
ライトノベル否定派の人達の主張する「小説家にな◯う」で自分達の作品が陽の目を見なかった理由の一つは、読者層が中高生が中心であり、だから自分達のレベルの高い高尚な作品が理解されず受け入れられなかったというものだ。
その主張が崩れてしまうデータなどライトノベル否定派の人達が認めるわけがない。
「たまたま今回はそういう数値が出ただけ」
「何かの間違い」
そう言って、お偉いライトノベル否定派の人達は「小説家になろう」の読者の年齢層やライトノベルの読者の年齢層が高い事を否定するに違いない。
または、年齢層は高いがレベルの低い低俗が人間が集まっているから、自分達の小説が受け入れられないのだという主張に方向をずらすかだろう。
ちなみに「◯Fブックス」の編集の人がインタビューで語っている事によると「異世界転生物」がこのまま流行り続けるとは思っていないそうだ。ライトノベルの初期と現在では流行も違うように変化があると見ているらしい。
「電◯文庫」の小説賞でも、その時その時の流行りの作風に似た応募作が多いというのと一緒で、「小説家になろ◯」で現在はそういう「異世界転生物」の流行が続いているという事だろう。
「小説家になろ◯」で異世界ハーレムチートが流行っているのは、書籍化の影響も大きいのだろう。
ここの運営会社はライトノベル・レーベルとの提携に力を入れている。
それで書籍化される作品が多い。
その書籍化される作品に一番人気の「異世界ハーレムチート」が選ばれたため、ライトノベルで小説家デビューを狙う作者さんが「この小説家になろ◯」にやってきて、さらに「異世界ハーレムチート」作品を投入する。その作品数が少なからずあるから面白い作品もその中には当然ある。それがまた書籍化されて更に……
というサイクルになっているのではないだろうか。
他の小説投稿サイトにも似たような事になっている所がある。
某小説投稿サイトは全ジャンル投稿OKだ。だが運営しているのが某恋愛小説系レーベルで人気作はそこから書籍化もされるため「恋愛小説」がランキングで強い。上位から下位まで殆ど「恋愛小説」がランキングを独占している。
そういう特色が出ているという事なのだろう。
話を元に戻そう。
ライトノベル否定派は言う。
「ライトノベルを読む人はライトノベルしか読まない」
「ライトノベルを書く人はライトノベルしか書かない」
所詮はこれもライトノベル否定派の根拠無き単なる憶測に過ぎない。
どこにそんな調査データがあると言うのだろうか。
どこかの本やサイトに載っているのだろうか。
また、「小説家◯なろう」51万人の内、その0.1%の510人でもいいからアンケート調査でもしたのだろうか。
「小◯家になろう」のシステムでは作者さんの作品やブックマーク、評価した作品などがわかるし読者にしてもブックマーク、評価した作品などはわかる。
だが、どんな人も「小説◯になろう」での活動は仕事、生活、趣味の一部であり全てではないのではないだろうか。まぁ中には全てという人もいるかもしれないが。
かく言う私も、ここで発表している作品が私の活動、作品の全てというわけでもないし、これまで読破した全ての本を紹介した覚えもない。
ましてやここでの活動に全てを賭けているわけでもない。
大半の人にとって「小説家になろ◯」で公開している個人データなど、極一部ではないだろうか。
それなのに、ライトノベル否定派は「小説◯になろう」だけから得られるデータを見て全てを知っているかのように決めつける。
困ったものだ。
数年前から一般文芸作品の表紙の「コミック化」とでも言うべき物が進んでいる。
出版社が古典文学や一般文芸の作品の表紙にコミックやライトノベルのようなイラストを起用して、若者の取り込みを図っているのだ。
数年前、古典文学で『太宰◯』の「人間失◯」がそういう表紙になった途端、3ヵ月で10万部も売り上げた
と話題になった。新聞にも載っていたくらいだ。
若い人=ライトノベル読者というわけでもないだろが、ライトノベル読者も買っている、読んでいると見るべきではないだろうか。
近年「ビブリ◯古書堂の事件手帖」という一般文芸の小説作品が大ヒットした。テレビドラマにもなった。
知っている方もおいでだろう。
この作品がヒットした事について、ある企業が運営する本についての話題を提供する某サイトにおいて、ライトノベル・ファンと一般文芸の読者の両方の支持を得る事ができた事からヒット作になったと分析していた。
「ライトノベルを読む人はライトノベルしか読まない」なら、何故企業からこんな分析がでてくるのだろうか。
結局、ライトノベル否定派の言っている事なんてのは砂上の楼閣でしかない。
ライトノベル否定派の妄想と言ってもいいだろう。
ライトノベル否定派も、その自分の妄想の世界でのみ声を上げていてくれれば問題は無いのだが、困った事に自己顕示欲が物凄く強いから他人に対してとやかく言いたがる。
高尚なレベルの高い文学を嗜んでいる優れた知性を持つ、人としてレベルの高い自分達ライトノベル否定派は、ライトノベルを読んだり書いたりしているような『レベルの低い低俗な輩』を「説教」して「啓蒙」してやらねばならないと考る。
だから「ライトノベル以外を読め」と言う。
だから「ライトノベル以外を書け」と言う。
「ライトノベル以外のジャンルの本の良さや楽しさを知るべきだ」と言う。
「作者はライトノベル以外のジャンルに挑戦し自分の可能性をさぐるべきだ」と言う。
だが、本来その論法で言うのなら当て嵌まるのはライトノベル読者、ライトノベル作者だけではない筈だ。
他のジャンルにも言える事だろう。
例えば、
『恋愛小説しか読まない者もいるだろう。その人は他のジャンルも読むべきだ。
推理小説しか読まなない者もいるだろう。その人は他のジャンルも読むべきだ。
現代小説しか読まない者もいるだろう。その人は他のジャンルも読むべきだ。
歴史小説しか読まない者もいるだろう。その人は他のジャンルも読むべきだ。
純文学小説しか読まない者もいるだろう。その人は他の文学も読むべきだ。
詩しか読まない者もいるだろう。その人は他のジャンルも読むべきだ。
etc、etc・・・
一つのジャンルに偏った読み方をしないで、他のジャンルの良さや楽しさを知るべきだ。それはきっと自分にプラスになるのだから』
『恋愛小説しか書かない者もいるだろう。その人は他のジャンルにも挑戦するべきだ。
推理小説しか書かない者もいるだろう。その人は他のジャンルにも挑戦するべきだ。
現代小説しか書かない者もいるだろう。その人は他のジャンルにも挑戦するべきだ。
歴史小説しか書かない者もいるだろう。その人は他のジャンルにも挑戦するべきだ。
純文学小説しか書かない者もいるだろう。その人は他の文学にも挑戦するべきだ。
詩しか書かない者もいるだろう。その人は他のジャンルにも挑戦するべきだ。
etc、etc・・・
一つのジャンルに偏った書き方をしないで、他のジャンルにも挑戦し自分の可能性を試してみるべきだ。
例えそれで大成しなかったとしても、貴方にとってその経験はプラスになり貴重で得難いものになるだろう』
と言えるように、本来、ライトノベル読者、ライトノベル作者以外の他のジャンルしか読まない書かない人達にも当て嵌まる論理の筈だろう。
だが、いつもこうした「他に目を向けろ」式の論理の標的にされるのは『ライトノベル読者とライトノベル作者だけ』だ。
しかも、こうしたライトノベル批判派の人達は、一般文芸作家としてプロデビューした後にライトノベルを書いたプロの作家さんについては絶対に触れない。
例えば『宮部みゆ◯』さん。
この方は1987年に「オール讀物推理新人賞」を受賞して作家デビューされた方だ。
そして1992年には「吉川英治文学新人賞」を受賞された。
1993年には「山本周五郎賞」を受賞された。
1997年には「日本SF大賞」を受賞された。
1999年には「直木賞」を受賞された。
2002年には「司馬遼太郎賞」を受賞された。
こうした、文学賞を受賞されてきた「宮部み◯き」さんは、2003年に角川文庫から「ブレイブストー◯ー」という単行本を出された。
この「◯レイブストーリー」は劇場版アニメが制作され2006年7月に公開されている。
その文庫本化は劇場版アニメに先駆けて行われ2006年5月にライトノベル・レーベルの「角川◯ニーカー文庫」から全4巻で出されている。
『大沢在◯』さん。
この方は1979年に双葉社の「小説推理新人賞」を受賞して作家デビューされた方だ。
そして1991年には「吉川英治文学新人賞」を受賞された。
1993年には「直木賞」を受賞された。
この「直木賞」を受賞された同じ年に「大沢◯昌」さんは、ライトノベル・レーベルの「ジャンプ・ジェイ・ブック◯」からライトノベル「黄龍の◯」第1巻を出されており、翌年には第2巻を出されている。
『佐々木◯』さん。
この方は1979年に「オール讀物推理新人賞」を受賞して作家デビューされた方だ。
そして1984年にはライトノベル・レーベルの「◯バルト文庫」から「あこがれは上海クルー◯」など数点を出されている。
その後、再び一般文芸に活躍の場を移しておいでだ。
1989年には「山本周五郎賞」を受賞された。
2002年には「新田次郎文学賞」を受賞された。
2010年には「直木賞」を受賞された。
『福井晴◯』さん。
この方は1998年に「江戸川乱歩賞」を受賞して作家デビューされた方だ。
そして2000年にアニメ「∀ガンダ◯」の小説、題名もそのままの「∀ガンダ◯」というライトノベルを「ハルキノベ◯」から出されている。
一般文芸の小説も書いており、
2002年には「日本冒険小説協会大賞」を受賞された。
2003年には「吉川英治文学文学新人賞」を受賞された。
ライトノベルも2007年から「角◯文庫」で「機動戦士ガンダムU◯」シリーズを書かれている。
その後、一般文芸の小説も書かれている。
『今野◯』さん。
この方は1978年に「問題小説新人賞」を受賞して作家デビューされた方だ。
2006年には「吉川英治文学新人賞」を受賞された。
2008年には「山本周五郎賞」と「日本推理作家協会賞」を受賞されたが、この年に「◯野敏」さんは「機動戦士◯ガンダム外伝 ティターンズの旗のもとに」というライトノベルを出されている。
『朱川湊◯』さん。
この方は2002年に「オール讀物推理新人賞」を受賞して作家デビューされた方だ。
2005年には「直木賞」を受賞された。
2013年には「ウルトラマンメビウス アンデレスホリゾン◯」というライトノベルを出しておられるが、この作品は特撮の「ウルトラマ◯」シリーズのノベライズだ。
直木賞作家が「◯ルトラマン」の小説を書くという事で一部マニアの間で話題になった。
一般文芸の小説で作家デビューし、後にライトノベルを書いた作家さんはまだまだいるが、この辺で一区切りしよう。
その逆にライトノベルから一般文芸に活躍の場を広げ文学賞を受賞された作家さんや、ライトノベルと一般文芸を同時進行で書かれている文学賞受賞作家さんの存在も忘れてはならないだろう。
『村山由◯』さん。
この方は1991年に「環境童話コンクール大賞」と、ライトノベル系の「ジャンプ小説ノンフィクション大賞佳作」を受賞された。
そしてライトノベルを書きつつも一般文芸の作品や絵本まで書いておられる方だ。
1993年には「小説すばる新人賞」を受賞された。
2003年には「直木賞」を受賞された。
2009年には「中央公論文芸賞」「島清恋愛文学賞」「柴田錬三郎賞」のトリプル受賞をされ話題となった。
こうした文学賞を受賞されても1994年からライトノベル・レーベルの「ジャンプ・ジェイ・ブッ◯ス」で刊行を開始されたライトノベルの「おいしいコーヒーの入れ◯」シリーズは現在も継続中だ。
『桜庭一◯』さん。
この方は1999年にライトノベルの「ファ◯通エンタテインメント大賞小説部門佳作」を受賞して作家デビューされた方だ。
ライトノベルを書きつつも一般文芸の小説も書いている。
2007年には「日本推理作家協会賞」を受賞された。
2008年には「直木賞」を受賞された。
この「桜庭◯樹」さんには2003年から書かれている「GO◯ICK -ゴシッ◯-」というアニメ化もされたライトノベル・シリーズがあるが、このシリーズはまだ継続中だ。
『小野不由◯』さん。
この方は「講談社X文庫ティーンズハー◯」からデビューされた方だ。
ライトノベルを書きつつも一般文芸の小説も書いている。
2013年には「山本周五郎賞」を受賞された。
この方のライトノベル作品の「十二◯記」シリーズはまだ継続中だ。
『山本文◯』さん。
1988年に「コバル◯文庫」からデビューしたが、その後に一般文芸に活躍の場を移し2000年に「直木賞」を受賞されている。
『唯川◯』さん。
1985年に「コバ◯ト文庫」からデビューしたが、その後に一般文芸に活躍の場を移し2001年に「直木賞」を受賞されている。
他にもおられるが、ここら辺で一区切りしよう。
一つのジャンルに拘らず他のジャンルの良さを知るとか、活躍の場を広げるとかいう意味において、今までお名前を挙げさせていただいたこういうプロの作家さん達は、それこそいいお手本の筈だろう。
だがライトノベル否定派の人達は決してこういう作家さん達には触れない。
プロの作家さんでも一般文芸からライトノベルに活躍の場を伸ばしたり、その逆の人達だっているのに、何故ライトノベル否定派は、こうした作家さん達の動きを無視し触れなのだろうか。
何故ならそれはライトノベル否定派の根本を揺るがす存在だからだ。
自分が未だに作家デビューできないのは、この「小説家に◯◯◯」の主流となっているライトノベル・ファンの作家と読者のせい。
でも自分達には他人より遥かに優れた知性と才能があり、ライトノベルなんて「低俗で無価値」な物より遥かに重みのある価値のある文学を書いている。
そう思う事でライトノベル否定派は自分達が作家デビューできない事をライトノベル作者と読者のせいにしてプライドを守り、尚且つライトノベル作者とライトノベル読者を見下す事で優越感を持ち満足感を得ている。
それを確固たるものとするためにライトノベル批判を行い、自尊心と自己愛とを満足させようとする。
それには「ライトノベルは無価値」でなければならない。
『ライトノベルは低俗で読む価値の無い物』
ライトノベル否定派の人達はそう主張し、ライトノベルを貶める事で自分達を高尚な文学を嗜む優れた知性と高いレベルにある存在だと持ち上げ自負し満足する。
だからライトノベル読者もライトノベル作者も自分達から見てレベルの低い人間でなければならない。
ライトノベル作者はライトノベルしか書かず、ライトノベル読者はライトノベルしか読まないような自分達から見て無能で低レベルな人間でなければならない。
そうでなければ見下せない。
そうでなければ優越感に浸れない。
特に大事なのは『ライトノベル作者が自分達よりも優れた存在であってはならない』という事だ。
ライトノベル作者よりも遥かに自分達の方が文才が上。
その考えにすがっているのだ。
心の拠り所なのだ。
だからこそライトノベルとその作者と読者を貶める。
「小説家に◯◯◯」での「ライトノベル」の作者と読者に他のジャンルを書け、読めと説教する。
そうやって自分の肥大しきった自尊心と膨れ上がった自己愛を満足させているのだ。
だからこうした文学賞を受賞し尚且つライトノベルを書いているプロの作家さんについては見て見ぬふりをする。
文学賞をとった作家さんが「ライトノベル」を書かれているという事は、「ライトノベル」にもそれ相応の一定の価値があるという事を示すものだ。
だが、そんな事はライトノベル否定派にとって認めるわけにはいかない。
「ライトノベル」を書いているような文章力の低い低俗な作家が一般文芸の作品で文学賞をとるなどという事は断じてあってはならない。
ライトノベルを書いているような作家はライトノベル否定派より、絶対に劣っていなければならないからだ。
こうした作家さん達の存在はライトノベル否定派にとって実に「不都合な真実」だ。
ライトノベルを見下す事で得ている優越感に揺らぎが生じてしまう。
だから無視して触れない。認めない。無い物として扱うのだ。
困ったものだよまったく。
そもそもだ。人の可能性の話をするのなら文学のジャンルがどうのこうの言うのは視野が狭いと言うものだろう。
可能性なら文学以外の世界にもあるというものだろう。
かつて『鷲田旌◯』さんという「◯バルト文庫」からデビューされたライトノベル作家さんがいた。
今、この人は◯◯党に所属する衆議院議員をされている。(おわかりになっているとは思いますが『◯田旌刀』とは作家としてのペンネームで、実名・議員名ではありません。念のため)
前に名前を出したが『波多◯鷹』さんという作家さんがいる。「コ◯ルト文庫」からデビューされた元ライトノベル作家さんだ。この方は「鷹匠」の資格を取り現在は動物関係の本を何冊も出されている。
『筒井康◯』さんという作家さんがいる。
日本SF小説界の大御所と言って言い方だ。「小松左◯」さん。「星新◯」さんのお二人のSF小説家と合わせて「SF御三家」何て呼ばれていたりもする。ご存知の方も多いだろう。
「筒井◯隆」さんは
1970年にSF小説の賞たる「星雲賞」を受賞された後も、複数回の「星雲賞」を受賞されている。
1981年には「泉鏡花文学賞」を受賞された。
1987年には「谷崎潤一郎賞」を受賞された。
1989年には「川端康成文学賞」を受賞された。
2000年には「読売文学賞」を受賞された。
2002年には「紫綬褒章」を受章されている。
そんな勲章まで貰っている「筒◯康隆」さんは、2012年に「ビアンカ・オーバースタディ」というライトノベルを世に出している。
そんな作家として輝かしい業績を持っている「◯井康隆」さんだが、作家だけでなく俳優としても活躍しており映画やドラマにも出演している。
先に述べた『今野◯』さんだが、この方は長年「空手」をしている。
そして自分で一流派を立てておいでだ。しかも、その流派の支部は日本だけでなくロシアにもあるそうだ。
これまでに挙げたケースはライトノベルを書いた作家さんが他の分野でも活躍しているという例だが、作家以外でも、他の分野から別の分野に移って活躍した人も数多いる。
プロ野球の世界からゴルフの世界に転向し、日本を代表するプロゴルファーになった人もいる。ジャ◯◯◯◯さんだ。
実業団バレーボールから芸能界入りしてモデルや女優をして一躍人気女性タレントになった人もいる。江◯◯◯◯さんだ。
元Jリーガーが弁護士になって活躍している例もある。◯◯◯◯さんだ。
社交ダンス講師や会社勤めをしていた人がタレント学校に通ってお笑い芸人としてデビューし、人気が出た例もある。A◯◯4◯の物まね、特に「私の事は嫌いになっても…」でブレイクしたあのお笑い女性芸人だ。最近見ないけど。
この辺で一区切りしておこう。一々挙げたらキリがない。
『人の可能性』という話をしたら、それこそ数多あるという事になる。
今この「小説家◯なろう」で小説を書いている人には、もしかしたら
教師としての才能があるかもしれない。
プロゴルファーとしての才能があるかもしれない。
サッカー選手としての才能があるかもしれない。
俳優としての才能があるかもしれない。
政治家としての才能があるかもしれない。
芸人としての才能があるかもしれない。
絵描きとしての才能があるかもしれない。
棋士としての才能があるかもしれない。
歌手としての才能があるかもしれない。
etc、etc…
三つ四つの才能を持つ人だっているかもしれない。
幾らでも可能性はあるのだ。
だが、人の身体は一つしかないし時間は有限だ。
限られた時間と一つしかない身体で、全ての可能性に挑戦する事はできない。
どれに挑戦すべきか。
しかも才能の見極めも難しい。
どの時点で才能の有無を決めるのか。
昔から「遅咲き」という言葉がある。
年齢がある程度いってから成果が出るという場合もあるのだ。
最近では将棋の世界で41歳という最も年齢の高いプロの棋士が誕生したのがそのいい例だろう。
何に挑戦しどこで才能を見極めるのか、それはその人本人の選択に任せるべき事であり、他人が偉そうに横から口を出すべき事ではないだろう。
可能性の取捨選択は本人のたった一度の人生なのだから本人の納得のいくように任せるべきなのだ。
もし、他人の人生に横から口出しして、それでうまく行かない場合は責任を取れるのか? という問題も出てくる。
そもそもだ。
他人に可能性をとやかく説教する人には、まずは自分自身はどうなのだ? と問いたい。
自分は数多の可能性を試して来たのか? とも問おう。
まぁ、きっと数多の可能性に挑戦中なのだろう。
まさか自分がやりもしない、できもしない事を他人にやらせよう何て事はしていないだろうと思うから。
また、他のジャンルを読め書けなんて言った人は、自分こそ全部のジャンルを読んで来たのか? 書いて来たのか? と問おう。
まぁ、きっとライトノベル以外の数多のジャンルを読んだり書いているのだろう。
まさか自分がやりもしない、できもしない事を他人にやらせよう何て事はしていないだろうと思うから。
きっと模範でも示してくれているのではないだろうか。
恋愛小説を書き、官能小説を書き、ハードSF小説を書き、海洋冒険小説を書き、推理小説を書き、時代劇小説を書き、ホラー小説を書き、経済小説を書き、古代から現代に至るまでの各時代の戦記小説を書き、西洋・中東・アジアの歴史小説を書き、アクション小説を書き、童話を書き、犯罪小説を書き、格闘技小説を書き、詩を書き、他にも多くのジャンルの作品を書き、またそうした多くのジャンルの本を読んでいるに違いない。
ここで、ついでに「ライトノベル」と「一般文芸」の垣根について語っておこう。
この文章を読んでくれた方には先に名前を出した「ビ◯◯ア古書堂の事件手帖」について「あれっ?」と思った人もいるかもしれない。
あの作品は「ライトノベル」ではないのかと?
「ビブリア◯◯堂の事件手帖」を出している「メデ◯◯ワークス文庫」はライトノベル・レーベルではないそうで一般文芸のレーベルなのだそうだ。「◯◯ィアワークス文庫」の編集の人がインタビューで言っていたりするから間違いない。
しかし、世間には「メディアワー◯◯文庫」をライトノベル・レーベルと判断している人はかなりいるのではないだろうか。
本屋さんの中には「◯◯ィアワークス文庫」をライトノベル・レーベルの所に置いてるお店もある。
ネット通販大手のA◯azonのライトノベル・ランキングの上位で「ビブリア◯◯堂の事件手帖」は常連でもある。
「メディアワー◯◯文庫」の作者さんにはライトノベル・レーベルの「電◯文庫」で活躍している方も多い事だし、そう思われても無理は無いと思う。
それに「◯撃文庫」と「メディアワー◯◯文庫」の小説賞への応募は同じ送り先であり、分けられてもいないとくる。
まぁ一般文芸とライトノベル・レーベルの間に位置するのが「メディ◯◯ークス文庫」なのだろう。
似たようなレーベルに「新◯社」の「新潮文庫ne◯」が昨年出来た。
こうしたライトノベルと一般文芸の中間のようなレーベルがこれから増えていく動きになるのかどうかはわからないが、ライトノベル読者がこうした物を読んでいく事は恐らく間違いないだろう。
ところで本屋さんに行って文庫の本棚を見てみると「ライトノベル」と「一般文芸」の棚は大抵の本屋さんで分けられている。
だから一見すると明確に分けられているように見える。
しかし、個々の作品で見たり、出版社によっては必ずしもそうでは無い事がわかる。
個々の作品というのは「ライトノベル・レーベル」で出版された本が、後に一般文芸の文庫として再刊されるという事が少なからずあるのだ。幾つか例をあげてみよう。
例えば、『赤川次◯』さんの作品で映画化もされた「死者の学園◯」だ。
「角◯文庫」から1983年と2009年にカバーを代えて一般文芸の文庫として再刊されているけれど、一番初めに出されたのはライトノベル・レーベルの「◯ノラマ文庫」で1977年の事。
まぁ、まだこの時代は「ライトノベル」という言葉は無かったが。
同じく「赤◯次郎」さんの作品で「ソ◯ラマ文庫」から最初に出され、後に「徳◯文庫」から一般文芸の文庫として再刊されたものに「幻の四重◯」や「赤いコウモリ◯」がある。
ちなみに「赤川次◯」さんもデビューは一般文芸だ。1976年に「オール讀物推理小説新人賞」を受賞されデビューされた。
以後、現在に至るまで一般文芸でもライトノベルでも活躍なされている。
なかでも「コ◯ルト文庫」から出されている「吸血鬼はお年ご◯」シリーズは長寿作品だ。何せ第1巻が出されたのは1980年。最新作は先月発売された「雑誌コバル◯」の最新号(2015年◯月号)に連載中だ。
ライトノベル・レーベルの「ビーン◯文庫」に人気作の「彩雲国物◯」「少年陰陽◯」「今日からマ◯」といった作品があるが、これらの作品は一般文芸の「角◯文庫」から表紙を変えて再刊されている。
ライトノベル・レーベルの「講談社X文庫ホワイトハー◯」から出た作品に「十二◯記」シリーズがある。この「十二国◯」シリーズは、一般文芸の「◯談社文庫」から再刊されている。
後にこの「十二◯記」シリーズは「◯潮文庫」に移籍したが、そこでも一般文芸扱いだ。
ライトノベル・レーベルの「ファミ◯文庫」から出た作品に「カー◯ー」という作品がある。これも一般文芸の作品として「◯談社文庫」で再刊された。
ライトノベル・レーベルの「ソノラ◯文庫」から出た作品に「クラッシャー・ジョ◯」という作品がある。
この作品は「ハヤカ◯文庫」から再刊されているが、元々「◯ヤカワ文庫」にはライトノベルと一般文芸といった分け方は無い。SF作品かファンタジー作品かその他のジャンルかと言った分け方をしている。
それは「◯京創元社」も同じで、ライトノベル・レーベルの「ソ◯ラマ文庫」から出た作品「妖精作◯」シリーズを「創◯SF文庫」から再刊している。
ライトノベル・レーベルの「◯ャンプ・ジェイ・ブックス」から出された作品に「もう一度デジャ・◯」「おいしいコーヒーの入れ◯」「◯ハード」といった作品がある。これらは一般文芸の「集◯社文庫」から再刊されている。
「トクマ・ノベル◯」から出たライトノベルに「銀河◯雄伝説」という作品がある。
この作品が出た時の「トクマ・ノベ◯ズ」では一般文芸でSF作品としての扱いだった。
その後、文庫化される時は一般文芸の「徳◯文庫」から再刊された。
後に「徳◯書店」では「徳間デュア◯文庫」というライトノベル・レーベルを立ち上げる。
この時、「徳間デュ◯ル文庫」の最初の顔となったのが「銀◯英雄伝説」であり、表紙や一冊当たりの分量も変えられ巻数を多くして新創刊された。
さらに「◯河英雄伝説」は後に「東京創◯社」の「創◯SF文庫」からも再刊されている。
先にも述べたように「東◯創元社」は、ライトノベルや一般文芸という分け方はしていない。「SF」「推理」と言ったジャンル別でレーベルを分けているだけだ。
ここに挙げたライトノベルから一般文芸に移って再刊された作品はほんの一部に過ぎない。
そして老舗の大手出版社がいかにライトノベルを一般文芸に持ってきているかわかるだろう。
あまり書かなかったが他にも一般文芸からライトノベルに行った作品もある。
「ライトノベルを読まない」と広言している人は大変だろう。
何せ自分の読む本が元はライトノベルかそうでないのか、一々確認しなくてはならないのだから。
もし、一般文芸で読んでいた作品がライトノベル・レーベルに移ったら、きっとその読んだ作品については読まなかった事にするのだろう。
ご苦労様な事だ。
まぁここまで色々と書いて来たが、結局、ライトノベル否定派の人達の主張なんてものには、明確な証拠は全く無い。全ては憶測だ。
しかもライトノベル作品、ライトノベル読者、ライトノベル作者について「十把一からげ」にして決めつけ、作品、読者、作者にもそれぞれ個性があり違いがあるという事を全く理解しようとしない。
困ったものだ。
結局、我々ライトノベルを好む者は何の罪も無いのにライトノベル否定派の自尊心と自己愛を満足させるために攻撃の対象とされる哀れな犠牲の羊というわけだ。
ふざけた話だ。
そして、こうしたライトノベル否定派の人達による何の証拠もない憶測によるライトノベルとライトノベル読者と作者への攻撃はこれからも続いて行くのだろう。
やれやれだ。
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さて、今回を含めこれまで三回に渡ってライトノベル批判をする人達について書いて来た。
「憶測」で「徹底的」に「決めつけ」を行い色々と書いて来た。
だが、これはこれまで何度も言って来たように、ライトノベル否定派の人達が行って来たやり方だ。
まぁライトノベル否定派の人達がこの文章を読んでいるかはわからない。
読んでいたとしたら、かなり不愉快な思いをしたのではないだろうか。
嫌な思いをしたのではないだろうか。
何せ私はライトノベル否定派の人達について
「自己愛が肥大化している」
「プライドだけは超一流」
「道理を知らない」
「思いやりに欠ける」
などなど、かなり厳しい事を書いて来た。
不愉快になって当然だと思う。
ライトノベル否定派でなくても不愉快になった人もいるのではないだろうか。
ここで一つの古い「問答」を引用しよう。
これまでに書いてきた内容(「ファンタジー批判への苦言・その①~③」)から、伏線をばら撒いておいた事から、読者の皆さんは賢いから既にここで何を引用しようとしているのか察していると思う。
そう、中国の歴史に大きな影響を与えた偉大な思想家「孔子」の問答だ。出典は論語だ。
『子貢問曰、有一言而可以終身行之者乎。
子曰、其恕乎、己所不欲、勿施於人』
これは孔子と弟子の子貢の問答だ。
日本語に訳すと
「子貢が師匠に尋ねました。
人生で一番大切な事を一言で言うと何でしょうか?
師匠の孔子がこれに答えました。
それは思いやりです。
自分がされたくない事を他人にしてはいけません」
となる。
論語の中の名言・格言として、問答の終わりの方の部分を
「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」などと、よく紹介されていたりもするので知っている方も多いだろう。
私がこれまでライトノベル否定派の人達について、ライトノベル否定派の人達と同じやり方で徹底的に書いて来たのは、ライトノベル否定派の人達に、ライトノベル否定派の主張によってライトノベル作者と読者が味わった同じ思いをしてほしかったからだ。
そして、この「孔子」の言葉「自分がされたくない事を他人にしてはいけません」という事をライトノベル否定派の人達に実感してほしかったからだ。
今、この文章を読んでいるライトノベル否定派の人達がいるとしたら、その人達はこの「孔子」の言葉の意味を噛み締めているのではないだろうか。
人は知性で知りえた事でも、実際に体験しなければ、納得も共感もしないという事がままある。
世の中には言論の自由があるとは言っても何を言っても許されるというわけではない。
たとえ事実であったとしても社会では口に出してはいけない事もある。
初対面の髪の薄い人に対して「この禿!」何て言わないだろう。子供が言ったとしても、その子の親は窘める筈だ。
ましてや、ライトノベル否定派の人達が、これまでライトノベル作者や読者に言ってきた事は『明確な証拠が何一つ示されないただの憶測』に過ぎない。
『憶測で、しかも十把一からげ』で自分の事を好き勝手に言われる事がどれほど嫌な事か、これで実感し理解したのではないかと思う。
そして自分がライトノベル作者と読者に何をしてきたのか理解したのではないかと思う。
「孔子」の言葉をもっと単純化すれば
『人の嫌がる事をしない』
という事であり、社会で生きて行く上で当たり前の事に過ぎない。
綺麗に言えば
『他人に対し思いやりを持った行動をする』だ。
ライトノベル否定派の人達に、その身に、これらの事を実感し理解してほしくて敢えて私は憎まれるのを覚悟でこのエッセイ(「ファンタジー批判への苦言・その①~③」)を書いた。
私はライトノベル否定派に
自身の主張を考え直せとは言わない。
ライトノベルを読めとも言わない。
ライトノベルを書けとも言わない。
ライトノベルを好きになれとも言わない。
ライトノベル作者に敬意を持てとも言わない。
ライトノベル読者を馬鹿にするなとも言わない。
人の心や考えはそう簡単に正反対の立場を受け入れるなんてできないだろう。
だから心の中でライトノベルとその作者と読者を批判し否定するのは構わない。
自宅や誰も居ない場所で大声で、ライトノベルとその作者と読者を批判し否定するのは構わない。
家族や意見の同じ友人達との間でライトノベルとその作者と読者を批判し否定するのは構わない。
仲間内だけの事ならライトノベルとその作者と読者を軽蔑し馬鹿にするのは構わない。
だが、不特定多数の人が見ているような環境においては配慮ある言動を心掛けてほしい。
そうした配慮が無いと不愉快な思い、嫌な思いをする人が必ずいるのだ。
私がライトノベル否定派の人達に願うのはたった一つの事だ。
『ほんの少し他人に対し思いやりを持った行動を心掛けてほしい』
ただ、それだけだ。
『「小◯家になろう」の片隅でひっそりと「異世界物」を書いている一作者より』