0018話 たまには作者と読者を叩いてみよう(歴史小説の考証について)
「小説家になろう」のジャンルには歴史もあり、そこに投稿された作品の中には戦国時代を舞台にしたものもある。
そういう作品に関連して戦国時代では「これは違う」「あれが正しい」なんて色々な事についてとやかく言う人が作者にも読者にもいる。
そういう人達の共通点は何かしらの文献を参考にし、それを正しいと思い込んでいる点だ。
正しいと思い込み、他の文献や説を否定する。
一例をあげれば織田信長について書かれた二つの文献だ。
織田信長に仕えた太田牛一が書いた「信長公記」と、同時代の医師の小瀬甫庵が書いた「信長記」について、「信長公記」は正しいが「信長記」は間違っているという見解だ。
小瀬甫庵の「信長記」は太田牛一の「信長公記」を元に書かれ、それも色々と脚色されており小説に過ぎないという批判がある。
だから太田牛一の「信長公記」は信頼できるが、小瀬甫庵が書いた「信長記」は信頼できないというわけだ。
「信長公記」を評価して「信長記」は全く評価しないという作者や読者もいる。
だが、本当に太田牛一の「信長公記」は信頼できるのだろうか?
いや、できない。
例えば「桶狭間の戦い」の部分だけを読んでみれば幾つも間違いがある事に気付く。
一番の大きな間違いは桶狭間の戦いがあった年が天文二十一年(1552年)と書かれている事だろう。それも文中に三回も天文二十一年(1552年)と書かれているのだ。
だが、実際に戦いがあったのは永禄三年(1560年)だ。
他の間違いとしては家康が丸根砦と鷲津砦を攻めたと書いてあるが、実際に攻めたのは丸根砦だけで、鷲津砦は朝比奈泰朝が攻めている。
他にも鳴海城と大高城と沓懸城はそれぞれお互いに一理(4キロ)離れており三角形の位置にあるとしているが、これも違う。
鳴海城と大高城の間は約2キロ。大高城と沓懸城は約8キロ。沓懸城と鳴海城の間は約7キロだ。
歴史の専門家でもない私でさえ、これぐらいの間違いを桶狭間の戦いの部分からだけで見つけ出せる。
これだけ間違いがあるのに他の部分は絶対に正しい。他に間違いは無いなどと言えるだろうか?
私にはとても言えない。
それどころか他にも間違いがあってしかるべきだと考えた方がよいと思う。
そもそも太田牛一は織田信長の家臣ではあったが、桶狭間の戦いに参加していたどうかはわからない。
どこまで自分の目で見て書いているかわからないのだ。
歴史家の中には「信長公記」には京都所司代、村井貞勝がつけていた記録を太田牛一が流用して書いている部分があるという説を発表している人もいる。
つまるところ「信長公記」も書いてある事がどこまで本当かは、実際に当時を知る人がいない以上わからないのだ。
はっきり言って「信長公記」の内容を盲信する事は危険だ。
逆に「信長記」の場合は脚色が多いからと言って、それが全部作り話とは限らない。全否定するのは間違いだ。
「信長公記は正しく、信長記は間違いだ」と言う人がいたらこう言おう。
「信長公記では桶狭間の戦いが起きたのは天文二十一年(1552年)となっている。
信長記では永禄三年(1560年)となっている。
信長公記の書いてある年が正しいのですか?」と……
つまり「信長記」にも確実に正しい部分はあるのだ。
同時代を生き「三河物語」を書き記した徳川家の家臣、大久保忠教は「信長記」について「三河物語」で次のように書いている。
「三個に一つはあった事なり。三個に一つは似た事があった事なり。三個に一つは跡形も無い事なり」
つまり三分の二は脚色だ。しかし三分の一は本当の事なのだ。
だから脚色が多いからと言って全部否定するのは間違っている。
全部否定してしまえば三分の一はある筈の本当の事まで否定する事になる。
まぁ大久保忠教の話しを信じればの話しだが。
そもそも「信長公記」が脚光を浴び始めたのはここ数十年の事だ。
日本は太平洋戦争で敗戦し教育や歴史認識も大きく見直された。
戦前、戦中に言われていた事は全部間違い。
つまり戦後はそれまでの通説を「否定する」事から始まった。
だから織田信長の桶狭間の戦いも奇襲では無かったという説が持て囃された。
とある歴史家はそれまで、あまり評価されていなかった「信長公記」を「一級の史料」「良質な史料」と持ち上げ、それまで主流だった桶狭間奇襲説を否定する。
自分の頭で考えようとしない、新説にすぐ飛びつく者達がそれを支持して盛り上げる。
それが今の現状だ。
だが、もう一度原点に戻って考えてみるべきだろう。
何故、「信長公記」がそれまで評価されてこなかったかを。
何度も繰り返してしまうが、桶狭間の戦いが起きたのは天文二十一年(1552年)なんて、とんでもない間違いを書いているから史料としての信憑性に疑問符が付き信頼されていなかったのだ。
学者なんてものは独自の新説を発表しなければ浮き上がれない。
だからあれこれ言い出すものだ。
私に言わせれば、前述したように桶狭間の戦いだけでも間違いが複数見つかり、どこまで真実が書かれているかわからない「信長公記」を「一級の史料」「良質な史料」と言うのなんて、とんでもない話しである。
これは他の当時の文献にしても同様だ。
現代のように携帯電話やテレビ、インターネットや動画を撮れる録画機器がある時代ではない。
現代に比べたら当時の情報収集伝達能力というものは非常に限られている。
何でもかんでも自分の目で確認できるものではない。
当然他の人からの伝聞も多くなるだろう。
情報化社会と言われた現代でさえ間違った情報はあふれている。
ならば、当時の文献もどこまで真実が書かれているかなんてわからない。
他の文献と内容を照らし合わせ、自分が正しいと思うものを真実だと思っているに過ぎない。
しかし、それが本当に正しいかなんて事はわからないのだ。
「戦後はそれまでの通説を「否定する」事から始まった」と先程、書いたが、その中の一つに出雲大社の高層神殿の例がある。
遥かな過去、出雲大社には高さが48メートルもある大きな高層神殿があったとされる。
日本書紀、古事記などに出雲に大きな建造物がある事が書かれている。
元禄元年(970年)に書かれた文献と他の史料と照らし合わせて出雲に45メートル以上の建造物があると判断できる。
以後も幾つかの文献で出雲には高層神殿があると判断できる。
しかし、そんな話しは天皇家の権威を固めるための作り話で、当時の技術でそんな巨大な建造物が造れる筈が無いという説が、戦後の昭和の時代では言われていた。
だが、2000年になって出雲大社において巨大な柱の遺構が発見される。これが高層神殿の物ではないかと話題になった。
某大学教授と大手建築会社が手を組み当時の技術で高層神殿が建築可能かどうか検証も行った。その結果は可能だ。
そして、最近では流石に出雲に高層神殿が無かったなんて言う人はあまり見かけなくなった。
この事から得られる教訓は、自分の知識や考え常識を過信してはいけないという事だ。
事実は小説より奇なり。
あり得ないなんて思っていたら実はそれがあり得たという例が幾つもあるのが歴史なのだ。
戦国時代の話しもまた然り。
自分ではそれが真実だと思っていても実は違っているかもしれない。
特に昔の話しには異説がある事が多い。
そちらの異説の方が正しい場合もあり得るのだ。
歴史を語る時にはその点に留意しておくべきだろう。
戦国時代ものの歴史小説を書くという事は昔の事を書く事だ。
昔の事は、わからない事が多い。
どう話していたか。どう呼んでいたか。どう命令を下していたか。
細かい所は不明な事がよくある。
以前、とあるweb小説で鉄砲隊の指揮官が「撃てぇ!」と言っていた。
すると感想欄で当時は「放て!」と命令したと指摘していた。
大河ドラマや戦国時代もののドラマでも、よく「放て!」と言っている。
だが、しかし、戦国時代に本当に「放て」と言っていたかどうかは不明だ。
明確に「放て」と書かれている文献が無いからだ。
ドラマや映画はそれらしい言葉を使っているに過ぎない。
江戸時代初期に書かれた「雑兵物語」には「うつ」「はじく」とある。
だから、戦国時代にもしかしたら「撃てぇ!」と言っていた可能性もあるのだ。
繰り返すが自分ではそれが真実だと思っていても実は違っているかもしれない。それが歴史を語ると言う事だ。
そんなわけで、戦国時代物に限らず、歴史小説の作品にはよく、重箱の隅を楊枝でほじくるような小姑の如きツッコミを入れている人がいるが、そういうのを見るたびに正直、呆れ果てている。
その時代を実際に見たわけでもなく、文献で調べただけの、それも真実かどうかはわからない事を、上から目線で偉そうに、ご教授しているのを見ると、もう溜め息しか出てこない。
ノンフィクションや学術論文ならともかく、小説ならば、もっと大らかに読めない物だろうか。
特に「小説家になろう」に掲載されている戦国時代物の小説の多くはフィクションだろう。
「三国志」に対する「三国志演義」のようなものなのだから窓の桟に指をやり埃が付いているか確認しているが如き小姑のような真似はやめてもらいたいものである。
中には主人公の特異性、優秀さについてとやかく言うような人もいるが、「三国志正史」にさえ左慈というような摩訶不思議な術を使う術者が出て来るのだ。繰り返すが「正史」にだ。つまり国の正式な歴史にだ。
それを鑑みれば、フィクションの小説で異常に秀でた主人公がいてもよいのではないだろうか。
フィクションにツッコミばかりを入れるのは野暮というものだろう。




