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ダンドリオン

作者: 風雨

 ベランダにタンポポが咲いていた。排水溝に詰まった汚泥に根を張っていた。ヤカンで水をやると、すぐに泥はびちゃびちゃになって、水は汚水になった。埃で薄汚れているベランダの中でタンポポの黄だけが鮮やかで、なんというか、生きている感じがした。洗濯籠に濡れた服をいれているのを忘れて、私はしばらく鋭く並んだ花びらを眺める。タンポポの根っこはとても長くて、引き抜いて家に持ち帰ろうとして上手くいかなかったことを思い出した。

「ただいまー」

 母の声と、ビニール袋のこすれる音がした。続いて冷蔵庫の戸が開かれる音。狭い部屋ではやたらと響く。

「洗濯物、皺にしないでよ」

 きっと母は眉を顰めている。うん。と短く返事をして、干しやすいよう順番をきちんと考えていれた洗濯物を入れたときとは逆の順序で取り出す。順序だてて入れたものを、入れたときとは逆の順序で取り出していくのは何か不自然な感じがして、以前それを母にいってみたところ「なにわけわかんないこといってるの」と嫌な顔をされた。けど、やっぱり今日もえもいわぬちぐはぐさを感じながら洗濯物を干す。私のシャツ、母のズボン、私のズボン、父のシャツ、父のズボン、私のシャツ、タオル、タオル、タオル、タオル。底のほうにあった下着をタオルの後ろに隠すようにして干す。母の下着は大きくて、私の下着は小さい。母の下着を手に取ると、台所で晩御飯の用意をしている母の服が透けて下着が見えている姿が頭の中に浮かんだ。気持ち悪い。濡れて萎びた下着は脱いだ直後よりも汚く見える。これは下着で、用途は恥部を隠すことなのだと、主張されているような気分になる。

 そして、父の下着。こんなにブカブカでは落ち着かないだろうと、父に一度聞いたことがある。締め付けられているほうが落ち着かないよ。と父は笑った。濡れてもさほど変化が見られない男物の下着は、私と母の下着に比べて幾分健全な気がした。

「もう、なんでこんなとこにヤカン置いてるのよ」

「ごめん」

 ちょうど全ての洗濯物を干し終わって部屋に入ったときに、母が私がタンポポに水をやるために持ってきたヤカンを取りに来た。社則にしたがって髪は黒で、スーツを着たままの母がヤカンを持つと、いかにも、事務の女といった感じがした。

「あら! タンポポ! こんなところにも咲くのねえ。ねえユミ、見た?」

「見たよ。でもなんか不自然」

「どうして? かわいいのに」

 母はむくれて、健気ねーなんてタンポポに言っている。もう一度タンポポを見てみると、やっぱり洗濯物の下でタンポポは異質に黄色だった。私は母が傍らに放り出したヤカンを台所へ持っていった。フライパンの中でキャベツが炒められていた。

「ただいま」

「あ、おかえり! ねえちょっと見てみて。タンポポ咲いてるのよ」

「ふーん」

 帰ってきた父に、母はまくしたてる。父はちらりとベランダを目をやる。

「なんか、いやだな。違う感じがする」

「えー。もう、ユミと同じこというんだから」

 父はタンポポよりも夕食のほうが気になるようで、「今日の晩御飯何?」と私の手元を覗き込んだ。

「しょうが焼きか」

「うん」

 答えるより早く納得して、父は味噌汁をお玉ですくってお椀によそい始めた。母は、炊飯器のご飯をかき混ぜた。

「いただきます」

 三人分の声。

 食卓でも主に話しているのは母だ。父と私に何かあったと聞き、自分はどうだったかを話す。私と父は、別段特別な出来事はないから何も話さないのに、母は特別でないことをよく話す。だから必然母は食べ終わるのが最後になって、私が自分と父の食器を洗い始めてようやくいそいそと少し冷め始めたご飯を口にかきこむのだ。

「疲れた。寝る」

「あ、うんおやすみ」

「おやすみ」

 寝室は、布団が二枚並んで、間に僅かに、私の手のひら二つ分くらいの隙間が開いている。保健の授業でその意味を知ったとき、私はひどく安心したのを覚えている。

「もう、なんにもおうちのことしてくれないんだから」

「いいよ、パパ仕事たいへんそうだし」

 皿を洗う手を止めないまま答える。父はヘルパーをしていた。いつか、ベランダで煙草を吸っている父から、「若いから、お年寄りは喜んで俺を指名するのだ」と聞いたことがあった。「パパも、だからお母さんと結婚したの?」と聞くと、父はにやりと笑った。その若い父より、母は五つ年下で、そのことでどこかは母安心しているようなそれでいて苦しんでいるような感じがしていた。


「そんなこといったって、ユミも学校あるんだし、お母さんだって仕事してるのに。……それに家族なんだから」

 家族なんだから。顔をしかめる。私はその言葉が嫌いだった。

「でも、一番稼いでるのはパパなんでしょ」

 空気が固まる。米粒を箸でつまんでいた母は酢を飲んだような顔つきになり、ゆっくりと米を口に運ぶ。息を殺して、緊張に耐える。

「……女の子なんだから、そういうことをいうのはよしなさい」

 吐き捨てるように、母は言った。その顔がまるで、だれか知らない女の人のように見えた。

 その後、母は熱っぽいからと私のベッドを使い、代わりに私が父の隣の母が使っている布団で寝ることになった。




 朝起きると、父が台所に立っていた。

 眠い目をこすって、自分の部屋にいくと、ベッドは誰も使わなかったかのようにきれいになっていた。寝室に戻って自分のと、それとさっきまでそこに人がいたのが手に取るようにわかる父の布団もたたむ。時計を見ると、朝のつもりが昼前だった。

「お母さんは?」

「もう仕事。休みだから、俺が朝ごはん作るよ」

「うん」

 母はパートだから、土日が休みになることは少なかった。だから、休日はよく父と過ごすことになる。父はしないだけで、案外家事はなんでも器用にこなす。そこが母の父に対する不満でもあるのだろう。きっと母はこう考える。

 できるのならばするべきである、家族なのだから。

「学校は?」

「土曜日だから、ない」

「補修とかもないの?」

「うん」

 イスで待っていると、湯気を立てるおにぎりと目玉焼きが出てきた。フライパンに水をいれている父が席に着くまで、手はつけない。

「おまたせ」

「いただきます」

 醤油を目玉焼きにかける。父の目玉焼きにもかける。母は塩をかけるので、それを見たらと親子ねと笑っただろう。私は色素の薄いほうで、それは父からの遺伝だった。私はあまり母には似ていなかった。

 休日の食卓はうるさくしゃべる母がいないのでとても静かで、時折食器がお箸がぶつかる音がするだけだ。父は眠そうに食事をする。というか、父はいつでも眠そうなのだけれど。顔を見ているだけなら、父は母より年上には見えないし、母は父より年下には見えない。

「皿、今日は俺がするから」

「ありがとう、ごちそうさま」

 皿を洗うのは、手が荒れるから嫌だった。しかし、それ以外の家事となると昨夜あらかた済ましてしまっていたので、手持ち無沙汰になる。そういえば、風呂を掃除してないな。と気づいた。

「ねえ、私、お風呂掃除するから」

「ああ、じゃあ待って。髪切ってもらいたいんだ」

「わかった。私はいつでもいいから」

「うん」

 ベランダで髪を切ればいいんじゃないかとも思った。そういえばタンポポが咲いていたなと思ってみてみると、あいも変わらず咲いていた。下の階には、根っこだけが届いているのだろうか。

「ねえ、タンポポが群生したらどうする?」

「どうだろうな。雨が降ったら、根腐れしてみんな枯れちゃうんじゃないか」

「それはそれで、いやだね」

 父はテレビをつけた。折り悪く、テレビショッピングしかやっていない時間だった。舌打ちをして、父はテレビを消した。

「なあ、やっぱりべランダで、髪切ってくれないか?」

「いいよ。タンポポ、見たいの?」

「違うよ」

 父は笑った。

「風呂は、イスが低くて疲れる」

「服、脱いで、先に行ってて。鋏持ってくるから」

 ぱさりぱさりと髪の毛がベランダに落ちる。父の髪は染色の影響で異様に柔らかかった。そのうちハゲると、よく母と私は父を脅す。

「なんか、パパの髪を切ってるとさ」

「うん」

「あんまりタンポポも気にならないね」

 父は背中は白くて、そしてとても大きい。どうやったらここまで大きくなれるのだろう。せり出すように骨が出ていて、時折ピクリと表面の筋肉が胎動する。タンポポよりも、生きている感じがした。うねりだすような、生きているものの結晶体のようだった。

 髪の毛が風に吹かれてふわふわと外へと飛び出していく。外の人に申し訳ない。と思うよりも、父の生命の残滓に逃げられたような気がして嫌だった。

 べったりと首に張り付いていた襟足や、耳を完全に隠していた横の髪を切り終えて、前髪を申し訳程度にそろえる。

「終わったよ」

「ああ、ありがとう」

 父に先導されて家の中に入る。ベランダの掃除も一つ予定に追加だ。

 不意に、ドンと、柔らかい衝撃があった。するりと世界が回った。思わず身を竦めて胸の前に鋏を抱いていた。

「……すまん。滑った」

「びっくりした」

 父が私を押し倒した形だった。首を伸ばすと、足元に切ったばかりの髪が一房、絡みついていた。

「どうやったらここで転べるの?」

「床を汚したくなくて、つま先で歩いてた」

「危ない」

「悪い」

 頭に残っていた髪が私の顔に降ってきて、さわさわと皮膚をくすぐる。

「きれいになったな」

「私まだ結婚しないよ」

「そのときはまた別のことをいう」

 そう。と答えようとした私の口が、安物のドアが軋む音で固まった。

「なにしてるの?」

 ただいまといおうと思っただろう母の口が、別な言葉をつむいでいた。

「転んだ」

「そう」

 私はまだ床に倒れたままだったので、頭越しに見る母は倒立していた。

「服は?」

「髪切ってもらってたから」

「ご近所に見られたらどうするの。そんな格好で」

「ちゃんと仕切りしたよ」

「そんな問題じゃないのよ!」

 母は声を荒げた。

「ユミももう17なのよ? おかしいことしないで! 常識を身につけてよ!」

「そんなんいったって……」

 父は口ごもった。

「髪散るから、早くお風呂はいってよ」

 理不尽に怒鳴られる父が不憫で、私は助け舟を出す。うなだれて父は歩き去った。

 掃除機はうるさい。うるさい掃除機は母の声をさえぎる。声をさえぎられた母は怒る。ベランダにあった髪はみんな、風に運ばれて消えていた。

 母はまだ怒鳴っている。若い母の怒鳴りに、幼い私は縮こまる。去っていいた父が気を遣うように、風呂から水温がときおり響く。

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