雨宿奇譚
その日は昼頃から雨が降っていた。
下宿の女将さんが紅い番傘を貸してくれたので、遠慮もせずにそれを借りて出かけた。
途中、時雨橋の上で一匹のクロ猫と目があった。この雨の中、濡れるのもかまわずに橋の欄干の隙間からじっと下を見ている。
「風邪をひくよ」
そうつぶやいて、傘を猫に被せてきた。猫は振り返ってじっと僕を見ていた。瑠璃色の水底のようなその視線に捕われたまま、僕は着物の裾をもたげて街の中へと走り去った。
十二番街に入る頃には小降りになっていたその雨は、雨宿亭に着く頃にはほとんど止んでいた。
「雨宿の館なのに可笑しなものだね」
門のところで傘を差しながら、カンテラと手ぬぐいを持って待っていてくれた顔見知りの子使いにそう言うと、彼はそうですね、と無垢な顔をして笑った。
「桶、今日はずいぶんと早いのだね。いつもは大遅刻なのに」
かけられた声に顔を上げると、雪平が開け放された玄関に座って足をぶらつかせていた。雨どいから滴り落ちる乳白色の滴を数えているらしい。雪平の水浅葱色の無着物にはいつも通り一点のしみもしわも見当たらず、それは沈黙を守られた湖水のようだった。
「綺麗な着物だ」
「ああ、これね。恥ずかしがり屋なのさ」
雪平は雨どいから目を離さず、帯の部分をトン、と叩いた。すると、帯の下から一匹の蛙が驚いたように飛び出した。水浅葱色の水面に小さな揺らぎをおこし、着物の中を一泳ぎすると、蛙はまた帯の下に隠れるように姿を消した。
再び滴を数えだした雪平と別れ、僕は館の中へと進んだ。吹き抜けの玄関ホールの奥にかけられた古い吊るし時計の、一秒の狂いもない時の刻みに歩く速度を合わせ、緋色の絨毯の敷かれた細い廊下を足音を忍ばせて進んでいく。
途中気がかわり、楽園の果実の装飾が施された螺旋階段を登った。左右には色硝子がはめこまれた襖が伸びている。こちらの方が幾分近道だった。様々に入り乱れるパイプやら煙草の匂いと、飼い猫たちの鈴の転がる音、そして下世話で醜悪な呻き声さえ我慢すればの話だが。それぞれの部屋から漏れでるぼんやりとした妖しい灯りが壁に映りこみ、金魚の尾のようにふわりと移動していくのを僕は視界の片隅から眺めた。
『関係者以外立チ入リ禁止』と書かれた半紙の貼られた引き戸を引くと、部屋の端に置かれた猫足の長椅子の上に、ほぼ脱げかかった着流しを申し訳程度に羽織った惣二郎が、だらけた様子で寝そべっていた。
「やあ」
僕に気づいた彼は、やる気もなさそうに大仰な素振りで片手を上げてみせた。「遅刻か?」
「そういうお前はサボりか?」
僕の返しに、惣二郎はくつくつと喉の奥を鳴らして笑った。
「この僕のどこがサボってるなんて言うんだい」
「むしろそれ以外何に見えるのかを教えてもらいたいね」
惣二郎と僕の名前だけが裏返されずそのままになっていた着等板の札を裏返しながら、僕はため息とともに言った。惣二郎はフンと鼻を鳴らしただけである。
自分の棚の扉を開き、濡れてしまった袷と洋シャツをハンガーにかけ、脱いだ袴を畳んでいると、「結んだあげよか、タイ」と惣二郎が軽い調子で立ち上がった。
「下田のおじがあんまりしつこいから首を噛んだら、御堂さんに呼ばれたのさ」
「客を噛むなんて、お前は猫か」
「いいネ、猫。よし、生まれ変わったら猫になろう」
惣二郎は無理やり僕の肩を掴み、頭を左に押し倒した。長い指で器用に襟元にタイを結んでいく惣二郎は、今でも十分猫のようだ。
「でーけた、」
タイが結び終わると、惣二郎はバンと僕の背中を叩いた。
「例の大学ン先生がいらしてる、早くお行きよバーカ」
「ご丁寧に教えてくれてありがとう」
「ねえ、桶。猫は西洋じゃ九つの魂を持つのだって」
扉に手をかけた僕の背中にふわりと手を置き、惣二郎は不必要で残酷な誘いを耳元でささやいた。
「あと九回生まれ変われるのなら、一回ぐらいの命など惜しくはないと思わない?」
ホールでは奥にあるステージでバンドが軽快なジャズを演奏していた。
テーブルを過ぎるごとに顔馴染みの客やボーイに声をかけられるが、それらを全部無視して、右手にある扉へ向かった。
部屋に入ると、例の大学ン先生と榛名が喋っていた。榛名は久しぶりに呼ばれたのか、何となく楽しそうだった。妬ける。
「アンタもたいがい物好きだね」
席に座ったと同時に煙草の火をつけ、紫の煙を吐き出す。口の中に苦く退廃的な味が広がった。
ご丁寧にも、指名の印の桃の花まで机の上においてある。それは熱でもあるのかと思うほど紅かった。
「また遅刻かい、桶は悪い子だね」
丸眼鏡のいかにも人の良さそうな紳士は、うさん臭い笑顔で僕を見つめた。
「……雨が降っていたもんで」
「雨宿りしに来たって訳か」
丸眼鏡はクスクスと高い笑い声をあげたが、面白いことは一つもない。
「今日は惣二郎はいないのかい」
「下世話なお客を噛んで謹慎中です」
「ほう」
一瞬、男はどこでもない宙を睨みつけ、そして僕の膝をさすった。
「お前も噛むのか」
男はその丸い眼鏡の奥で、瞳をギラリと輝かせた。
ゴクリ、と誰かが唾を飲み込む音がやけに近くで聞こえ、全ての雑音が消えた気がした。
「……………ご所望ならば噛みますよ」
ああ、そうだね、お前はそういう子だ、客は僕の肩をさするように撫でつけた。まるで小さな子供のような感触だと、ぼんやり煙草をふかしながら僕は思った。
「桶、ちょっと」
その時、ボーイの天木がまだテーブルについたばかりだというのに小声で声をかけてきた。その顔はにわかに穏やかではない。
「なに」
「お前の猫が入りこんでるって、雪平が」
「雪平の言うことなんて嘘ばっかりだよ」
「俺も見たんだ」
ちょっと失礼しますよ、と僕は丸眼鏡から離れた。去り際に榛名が僕のベストの裾をつまんだが、僕はそれに気づかないふりをして立ち去った。
また雨が降り出した。
僕は、黒いセーラー服を着た少女の手を引いて十二番街の路地裏を走っていた。灰色の壁が雨を吸い込み、黒に近づく風景を何度も何度も残像に変わる。
少女の手は冷たく、握っているうちに暖かくならないか、と力を込めた。反響する警報と客たちの太く甲高い悲鳴が耳の中でこだましていた。みな着の身着のまま、客もボーイも従業員も、タイやら手拭いやらふんどしやらをだらりと下げた銭湯帰りのような妙な姿で御天道様が隠れた雨空の下に駆けていく。そんな逃げ惑う客たちの間で、あの丸眼鏡だけはニヤニヤと紫の煙の出る煙草を吸っていたのが見えた。辺りには外国の、生ぬるい匂いがしていた。
「今度こそ御堂さんは僕をクビにするのかな」
僕がふとつぶやくと、
「そうしたら私が御堂さんの首筋に噛み付いてやるわ」
と少女は強い口調で言った。
時雨橋のところで雨はぱたりと止んでしまった。いつの間にか太陽は沈んでいて、まあるい月が雲の間から顔を出していた。
「ありがとう、桶」
少女は橋げたにえい、と飛び乗った。鈴が転がるような声が響く。
「またね」
赤い番傘を広げ、少女はふわりと飛んだ。
僕は、あっ、と馬鹿みたいに声をあげて、欄干に飛びついた。しかし、少女の姿はどこにもなかった。 僕は闇に紛れてしまった少女をいつまでもいつまでも探していた。白い月と黒い川の間で、赤い残像がチラチラとうごめいたような気がしたのだ。けれどもそれすら見間違いのような気がした。
傘のこと、女将さんに何て言い訳しようか。
そんなことを考えながら、水たまりをひょいひょいと避けながら、僕は下宿に向かって歩き出した。後ろでにゃあと猫が鳴いた気がした。