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無垢な色

作者: 海上なつ

 別に知り合いというわけではない。特に目立った言動などもない。けれど、不意に視界に入った少年のために、仕事帰りの道すがら私は足を止めた。

 ここは夕暮れ時には気味が悪いくらい静かになる。というのも、もともと近くに何もなく人通りの少ない場所なのだが、少し歩けば小学校があり、そこの生徒の通学路として利用されているので、唯一朝だけは非常に賑やかになる。しかし下校時刻を過ぎれば全く見かけなくなるので、余計寂しく感じるのかもしれない。

 それなのに――と、そこにぽつんと一人でしゃがみ込んでいるのが少なからず気になったのだろうが、少年から目を離せない根本の理由は分かっていた。

 私は以前から、時々何気ない人を妙に気にしてしまう事があって、その例の第六感だろうとすぐに納得はできた。しかし、こんなに強くその人の内面に秘められた感情を見出そうとして、実体のないそれを心の器から外へ引っ張ってやりたいという思いが湧き起こったのは何年ぶりだろうか。

 これは私の中の無意識の現象であって、抑えるのは難しい。他人におせっかいと言われるのも、もう慣れてしまった。

 そんなわけで、私はためらうことなく少年の方へ近づく。早めに仕事が終わって、家でやろうと計画していた一切のことはもはや忘れていた。

「何してるの?」

 私の声が届いているのかいないのか、とても小さく見えるその彼は、まるで黒い大きなランドセルにのしかかられて動けなくなってしまったようだった。

「もう五時半よ。お家に帰らないの?」

 今度は彼の視界に入るように私も身を縮め、質問を変えてみる。

 ちょっとの間があって、やっと反応があった。彼は顔を上げて瞳に私を映すと、口をきくのも億劫だというような変に大人びた表情で言った。

「僕は……みんなとは違うから」

 それだけでは真の意味は分からない。しかしそれ以上問うことはしなかった。答えてくれる気配などまるでないと気付いたからだ。

 やがて彼はもう私がいることなど忘れてしまったかのように、道のへこみにある今朝の雨の証にそっと両手を浸して、一人で水遊びを始めてしまった。後は時々水面をなでたりするだけで、すっかり黙ってしまい、私は立ち上がって「じゃあね」と別れることを半ば強制されてしまった。

 諦めるしかない――という表現はおかしいかもしれないが、私は付け入る隙を見逃したことが少し悔しかった。相手はなかなか手強い。

 歩き出してから少し経って振り向くと、少年はさっきまで静かに触れていた水たまりに乱暴しているところだった。石を投げ入れたり、水を蹴ったりしているのが見える。それも飽きたのか、最終的に逃げるようにその場を去っていった。

 私はその様子を、子供特有の気まぐれとしか思わなかった。それはごく自然なこと。見えない彼の複雑な心に影響されて、その行動に意味を成しているなどと、その時点でどうして思えるのだ。


 翌日、仕事が終わっていつものように帰路に就くと、私はまた同じ場所で何となく足を止め、辺りを見回してみた。時刻は昨日より三十分ほど遅い。朱色の太陽がわずかに辺りを照らし、もうすぐ月との交代を予感させている。あの少年の姿はなかった。

 不意に、別のある人物に視線を奪われ、同時にその場に立ち尽くした。

 六十歳くらいの女性で、私でなくても気にかけてしまうほど何かに焦ったようにしきりに動き回っている。誰かを探しているようだ。

 「どうかされましたか?」と私が丁重に訊ねると、彼女は「すみません」と一度目を伏せた後、やや混乱気味の口調で説明を加えてくれた。

「孫が戻らないので、私、何かあったんじゃないかって心配で。学校の先生に尋ねたら、あの子はもうとっくに帰ったとおっしゃるんです。それなのにまだ……」

「お名前は? 特徴とか教えて下されば、協力できるかと」

 それを受けて、彼女は「青」と即答した。私は反射的に「青?」と繰り返した。

「ええ、そう。小学三年生の男の子なの。小柄で、今日は黒っぽいシャツを着ていたわね」

 私が「分かりました」と頷くと、それを合図に二人で逆方向に地を蹴った。

 しかし冷静になってみれば、過保護ではないかと思ってしまう。まだそれほど遅い時間ではない。実は友達の家で熱心に遊んでいて、今頃慌てて帰宅している最中かもしれないではないか。あるいは、その子の親から連絡が入っているかもしれない。

 数分後、狭い空き地でそれらしき人物を見かけた私は、とりあえず「青くん?」と呼んだ。その少年はこちらを振り向く前に、微かに「お母さん」とつぶやいたようだった。

 目が合うと、向こうはすぐに視線をそらしてしまった。

 私は仕方なく彼の前まで歩いていくと、胸の所に名札がついていて、すぐに本人だと確信することができた。そして驚いた。それは、昨日声をかけたあの少年だったのだ。あの時は彼の折り曲げた膝で名札は隠れ、名前までは知り得なかった。

「あなただったのね」

「……どうして僕の名前を呼んだの?」 

「今、あなたのおばあちゃんが心配して探しに出ていて、事情を聞いた私も一緒にあなたのことを探すことにしたの。それで私の方が見つけちゃったわけだけど……がっかりしたらごめんね」

 青くんは下を向いて、無愛想に「別に」と答えた。

「さ、行こう」

 私はその小さな手を握った。彼は素直に頷いて自分で歩き出したので、そのまま二人で来た道を引き返していった。

 その地面にはもう人の影は映らず、彼の手のぬくもりだけが私に安堵をもたらした。


 布団の中で太陽の強い光を感じて、自然に目を覚ます。すでに正午近かった。

 休日は大抵テレビなどを見て適当に過ごすのだが、今日は何故か外へ出て体を動かしたい衝動に駆られ、簡単に支度を済ませると、散歩も兼ねてあえて徒歩で少し離れた飲食店へと向かう。

「あら、ちょっと!」

 背後でそんなふうに呼び止められたのは、家を出てから十分くらいのことだった。

 振り返り、声の主が青くんのおばあさんだと知る。買い物の帰りだったのだろう。片手に中身のたくさん詰まったスーパーの袋を提げている。

 私は瞬時に笑顔をつくり、「こんにちは」とあいさつした。

「昨日は青の無事が嬉しくて、あなたにろくにお礼も言えないで」

「いえ、気になさらないでください」

「あなた、これからお出かけ?」

「ええ。散歩がてら外食をしようと思っていたところです」

 おばあさんは「ちょうどいい」と音をさせずに手を打った。「ぜひ、家に食べに来てくださいな」

「そんな……お邪魔じゃないですか?」

 嬉しいお誘いだったが、つい昨日知り合ったばかりの他人同然の私が、相手の一家団らんに加わっていいものかと遠慮したのだ。

「あたしが言うのだから、何の問題もないわ。青もあなたのことを気に入っているようですし、きっと喜ぶと思うの。ね、いらして」

 そのまま行こうとするので、私は断るタイミングを失ってしまった。急いで並び、「持ちます」と彼女の重そうな荷物に手をかけた。

 それからは特に会話もなく、私はただゆっくりと彼女へついていくだけだった。

「私、青くんのお母さんと声が似てるんですかね?」急に思い出して、隣に話しかける。「青くんを呼んだ時、私の顔を見る前に『お母さん』て言ったみたいでしたから」

 すると意外にも、彼女は顔を曇らせて否定した。

「いいえ、それは違うわ。あの子、母親の声を知らないんですから」

「えっ?」

「青を生んで間もなく、母親はこの世を去ったわ。元々体が弱くて……。だから、きっとそれはあの子の願望でしょうね。昨日家に戻らなかったのは、そういう寂しい想いが募った結果かもしれない」

「……じゃあ、お父さんは?」

「無責任にずっと行方をくらましたまま――。今はあたし一人で面倒を見ているのよ」

 前半は声を低くして、後半は私の方に微笑みかけながら言う。それから、その調子を継いで付け足す。

「どうか可哀想と思わないでやって。あの子、周りと違うことを気にして、友達とも上手くいっていないようなの。あたしが支えてやらなきゃならないのだけれど、実際どうしていいか分からなくて……ただ優しくするだけで。できることなんて、それくらい――」 

 ここではっとして、「ごめんなさいね、こんな話」と軽く頭を下げて無言の私に謝った。


 それから三十分後、私たち三人は小さな丸テーブルに置かれた鍋を囲んで座った。

 青くんは珍しそうにぐつぐついう鍋の具を見つめていた。おばあさんは努めてか、家へ帰ってきてからは笑顔を絶やさないようにしている。

「ちょっと多めに材料を買っておいてよかったわ。あなたが来るっていうから、久しぶりに食べたくなったのよ」

「冬はもうちょっと先ですし、真昼間から鍋なんて、初めてですよ」

「そういえば、ちょっと変ね」

 私たちは笑った。

 やがて三人のお箸が鍋の中身をきれいになくし、各々が満足のため息をついて温かい食事を終えた。青くんは始終寡黙だったが、食べながら幸せそうに顔を緩ませていたことが私は何より嬉しかった。

「ごちそうさまでした。では、私はそろそろ」

「そんなに急がなくても。ゆっくりしていって」

「ありがとうございます。でも、何だか今日は風にあたっていたいんです。散歩の続きに戻ろうと思います」

「あらそう。それじゃあ、またいらっしゃって。いつでも大歓迎だから」

 笑顔で返事に代えると、今度はそのすぐ横に視線をずらして言った。

「良かったら、青くんも一緒に来る?」


 見慣れた街路樹に沿って足を動かす。しかし不思議なことに、今日の景色は普段と違って見えた。

 真横を見ると、青くんが落ち着いた様子で私の歩調に合わせている。悪戯な風が木々を揺すり、群を離れた葉が孤独に舞い散る様子を、彼は飽きずに目で追っていた。

 私は口を開く。

「あんまり日焼けしてないみたいだけど、夏休みにプールとか海で泳いだりしなかった? ほら、青くん前に水たまりで遊んでいたでしょう。水遊びが好きなのかなと思って」

「違うよ。好きなのは水じゃなくて、雨だから。空が落としていった、雨だから」

 思わぬ言葉で返されて理解に苦しんだ私は、首を傾げて説明を待った。が、しばらく発言がないまま、歩き疲れたのかベンチに座り出した。私も隣に腰掛けると、やっと「それに……」と喋ってくれた。

「いつもはいくら手を伸ばしたって届かないけど、水たまりに映った空は触れるでしょ?」 

 青くんは首を真上に曲げて、誰にともなく声を出す。

「僕のお母さんは、あそこにいるんだ――って、おばあちゃん言ってた」

 私も同じように足を止めて、空を仰いだ。現実をありのまま話すよりかは、そう教えた方がいいのかもしれない。けれど、悲しいことに正解を知る由はない。

「僕に生きてほしいから、代わりにお母さんは遠い所へ行っちゃったんだって」

「青くんは何も悪くない。心配することなんて何もない」

「そんなこと言ったって、考えちゃうよ。どうして僕なんか産んだの」

「きっとお母さん、ずっとあなたのことを見守るために昇っていったのよ。でも大丈夫。こうして空を見上げれば、いつでも会える」

「ずるい。全然届かないくせに!」

「それに、今はおばあちゃんがいるでしょう?」

「分かってるよ。だから、もういいんだ。ほっといて」

「……ごめんね。私、迷惑だって知ってたのに……」

「謝られると、言いづらくなる! 本当は、ありがとうって、言いたかったのにさ」

「青くん……」

 彼の小さな心に渦巻く不安が、どうして溢れないのだろう。私の方が泣いてしまった。隣に気付かれまいと、頬杖をつくふりをして俯いて涙を拭き、明るい調子で訊く。

「ねえ、お母さんのこと、恨んでる?」

「さあ……恨むってどんな感じ?」

「例えば、その人の顔をいつまでも頭に浮かべて、いつか仕返ししてやるって思うことかな」

「じゃあ知らない。だって、顔も全部思い出せないんだもん。仕返し、したいのかもね」

「でも会いたいでしょう?」

 その質問には、「うん」と即座に頷いた。

「それが好きって感情を表すこともあるのよ。その方がずっと自然。あなただってきっとそうよ」

 口を動かすと同時に、一種の罪悪感を覚えていた。実際、私は何も分かっていなかったのだ。おせっかいどころか、私はそれ以上に残酷なことを彼にしていたのかもしれない。

 私は知ってしまった。彼の心に潜む感情など初めからなく、ただ空っぽだったと。過去を悔むことも、人を恨むこともできずに、確実な何かを求めて常に不安定だったと。それをこの私が、愚かにも無理に引きずり出そうと試みていたのだと……。

 とうとう隠しきれずに、声を上げて涙を落した。青くんが驚いた顔で覗きこむ。

「優しいね」

 ――やさしい? どうして、そんなことが言えるのだろう。どこに、他人を受け入れることができる器が残っているのだろう。友達にからかわれて、大人に同情されて、うんざりしてるに違いないのに。

「ごめん、気にしないで。おばあちゃん心配するし、そろそろ帰ろっか」

 ふいに歩きだして、私は話を終わらせた。これ以上一緒にいても、できることなどない気がして。

 振り向くと、青くんはあの時とよく似た表情をしていた――最初に出会った時の、開き直ったような、何かを悟ったような、変に大人びた表情。

「解決する方法なら知ってる」

 追いつく間につぶやいた言葉が、不快な違和感とともに耳にへばりついた。


 それから何十回と同じ場所を通ったが、青くんとそのおばあさんに会うことは一度もなかった。

 その間は雨の降る日が続き、久しぶりの青空が見えると私は衝動的に外へ飛び出していた。そのまま足早に進みながら、一度深呼吸をする。多くの感情が入り混じって発生した、心の中の黒い煙を吐き出すように。

 今、頭の中を一つの悪い考えが率先しているようで、偶然会わないだけだとか、傘をさしていたから気付かなかったとか、それでなかったら急な用で引っ越したのだとかいう平凡な考えは、どうしても鮮明な理由にならなかった。どうも一種の気休めのようになってしまうのだ。青くんは、いつか父親と再会して一緒に暮らすことになればいい。今も無事に毎日を送っていると思いたい。けれど、確かめない限り、この嫌な想像はなかなか消えてくれない。

 彼の言う「解決する方法」とは、「死」ではないのか。――母親に対する最大の復讐は、子である自分が死ぬこと。そうでなくて、純粋に会いたいにしても、同じ道を辿って空へ向かおうと考えたのかもしれない。

 私はだんだん下ばかりを見て歩くようになっていた。すると、足もとの水たまりがふと気になり、立ち止まる。雲一つない快晴の空を映している、地上の鏡。

 私はいつかの彼のように、それに静かに触れてみる。こうすることで、彼がどんな気持ちでいたかを知ることができるような気がした。

 水面でわずかな抵抗がある。それを越えると、自分の手が役目を果たすべく、瞬時に脳に感覚を伝えてくれる。

 ああ、そうか。あなたがいるから大丈夫なんだ。まだ小さな彼の心を満たして決して枯れさせない、強くて、広くて、温かくて、そしてどこまでも青い、永遠のあなたが在るのだから。

 彼も同じように感じているのだろうか。この無垢な色を――。

 お読みいただき、ありがとうございました。

 本当は別のラストを考えていたのですが、長ったらしくなりそうだったので、このような余韻を残す結末になりました。読者の想像力をお借りしたいと思います。

 では、また次の機会に。

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