第八十三章 邪悪なる神の降臨
鋼たちと別れ、『清めの塔』を後にして、数分。
ルファイナは久しぶりに見る『封印の回廊』に、圧倒されるものを感じていた。
ここが、魔王と世界の近接点。
魔王と世界が一番近付く場所なのだ。
「大丈夫かい、ルファイナ。
まだ立ち直れていないというのなら、別に今日でなくてもいいんだぞ?」
それを慮ったのか、優しい父の声を聞き、ルファイナは父、レドリック王へと顔を向けた。
あの事件があってから初めて見る父の顔は、何だか少しやつれているようだった。
無理もない、とルファイナは思った。
自分にとって母を失ったということは、父が愛する人を失ったということと同義なのだから。
「心配いりません。わたしはわたしのために、この儀式を完遂してみせます」
しかし、ルファイナに迷いはなかった。
それを示すように足を広場の中心、封印の回廊の本体である魔法陣へと向ける。
それだけで、周り中から大きな歓声が上がった。
もちろん封印の巫女に対する厳戒態勢は解かれていない。
それでも騎士団が周りを固めるそのさらに向こうには、封印の儀式を、ひいてはルファイナの姿を一目でも見ようとたくさんの人々が集まっていた。
魔王に対する国民の押し殺された不安、第二王妃が殺されたことによる混乱が、封印の巫女への崇敬に形を変えて押し寄せているとルファイナは感じた。
そんなことあるはずがないのに、ルファイナにまで人々の熱気が肌に伝わってくるような気さえするくらいだった。
「行って参ります、父様」
そして、ルファイナが封印の回廊の中心、二メートル四方ほどの魔法陣に足を踏み入れた時、それは起こった。
【ふ、ふふ、あはははは!!】
始まりは、笑い声だった。
どこからか誰かの、いやに耳障りな、それでいて誰もが軽視できないような不快な哄笑が辺りに響いた。
護衛の兵士たちがざわつく。
「何者だ! どこにいる!?」
レドリック王が叫んで辺りを見回すが、笑いの主は見当たらない。
その間も笑いは収まるどころかいっそうその音を大きくして、
【あははははっははははははははっはははははっははははっははははははははっはあっはははははははっはははっはあはあははははははははっははははああははははっははははははっはははははははっははははははっははははっはははははっはははははははははははははははははははははっははははははははははははは!!!】
広場にいる者全員が耳をふさぐほどの、大音声になった。
ただ、その笑い声だけが世界を支配する。
……たかが、笑い声。
そのはずなのに、そうでなければおかしいのに、その場にいた民も兵も、王でさえも、その場にいた全ての人間が、たかがその笑い声に圧倒されていた。
なぜなら、分かってしまったのだ。
声を聞いただけで、その存在のほんの一欠片に触れただけで、理解できてしまったのだ。
――ああ、自分たちは、こいつには勝てない、と。
そして、
【我は、我は感謝する!!】
とうとう、『声』が笑うのをやめ、意味のある言葉を放つ。
その、奇妙に張りのある、それでいて聞く者に畏怖や恐怖を感じさせずにいられない声に、その場にいる全ての人間が、自分の状況も立場も忘れて聞き入った。
【ありがとう、人間! ありがとう!
いつまでも愚鈍でいてくれてありがとう!
我に滅ぼされるために栄え続けてくれてありがとう!
そして……我に封印を解く為の『贄』を供えてくれて、ありがとう!!】
だから、その最後の文言を聞いても誰もすぐには反応できなかった。
そしてその遅れがその後の展開を決定づけた。
一番初めに『声』の口にした言葉の意味を理解したのは、レドリックだった。
『声』の意図に気付いた瞬間、彼は叫んだ。
「そこから離れろ!! ルファイナ!!」
だが、その警告は、遅すぎた。
『声』の圧迫を一番強く感じていた彼女は、結局魔法陣の中心から一歩も体を動かすこともできないままで、
「あ、父様? これ……え?」
自分の視界が、不意に真っ黒な何かに覆われるのを呆然と眺めていた。
それは、魔法陣の外周に沿うように現れた巨大な闇の咢。
光の世界に顕現したその闇は、鋭い牙を剥き出しにし、そのまま、
「ルファイナ! 逃げ――」
その大きな口を、閉じた。
そして王と兵士と、大勢の国民の目の前で……。
「うそだろう、ルファイ、ナ…?
あ、あぁ、ああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
――少女の姿は、闇へと消えた。
国王の慟哭が響く中、悔恨を込めて魔法陣をにらみつけているのは、ラトリスだった。
「ハガネ様から、ルファイナ様の警護を任されていながら、私は…!!」
冷静な彼女にしてはめずらしく怒りを露わにし、拳を自分の足に叩き付ける。
しかし、そんな行為の最中でも、彼女の頭は高速で回転している。
(封印の儀式を行う12月31日は、一年で最も封印が弱まる時期であり、封印の儀式を行うここ、封印の回廊は、世界で唯一あの赤い月に力を送る事が出来る場所。
つまり、この日、この時、この場所は、最も魔王が干渉し易い条件を具えている事になる)
導き出されるのは、一つの可能性。
(単純に封印の巫女を殺しても、封印が弱まるだけで封印の解除にまでは至らない。
だが、最も魔王の影響力が強まる場所まで巫女を誘き寄せ、その上で封印の巫女を直接、魔王が取り込んでしまえば…?)
もし仮に、魔王が取り込んだ者の能力を奪うスキルを持っていたとしたら、それは魔王の復活を、ひいては世界の終わりを意味する。
これが最初から封印の巫女を取り込むことを目的としていたのか、ホムンクルスがやられなければ別の方策があったのかは分からない。
しかし、
(やられた! 私達は、負けた。
敵の策略に、まんまと乗せられた!!)
もはや魔王の復活は避けられない事態であることは、疑いがないように思えた。
そんなラトリスの考えを、まるで裏付けようとでもいうように、
【……美味、なり】
魔法陣から、黒い煙が湧き出していく。
【美味なり、封印の巫女!!】
そして、ふたたび聞こえる『声』。
【そして、ふむ、これが封印の力か!
思ったほどに強い力ではないが、じきにこれが体になじめば、我が縛めをも破る力となるのであろうな】
「貴様、貴様が、ルファイナを、貴様がぁ!!」
そんな『声』に、普段温厚なはずのレドリックが怒りに我を忘れ、目を血走らせながら魔法陣に突撃しようとして、周りの護衛に止められる。
【くく、愚鈍で矮小な人間ごときが、我を殺そうと言うのか?】
挑発する『声』に、しかし怒りに理性をなくしたレドリックは怯まない。
「知ったことか! 貴様が一体、何であろうと、私は……」
【我が何か、だと? あははは!!
無知というのは恐ろしいな!
いや、それとも知っていて気付かない振りをしているのか?
……ふん、ならば名乗ろうか】
だがその言葉は、『声』の逆鱗に触れたらしい。
平静なように聞こえる言葉ながら、『声』の圧力は一段階上がり、その言葉を聞いただけで激昂しているはずの王すら地面に膝をついた。
そして、
【我は魔王、お前たち人間を皆殺しにする存在だよ】
その言葉が耳に届いたのを最後に、ラトリスの体は封印の回廊から弾き出されて消えた。
ラトリスが次に目を開いた時、そこはララナの馬車の前だった。
「よかった、無事だったか……」
目の前でラトリスが敬愛する主君が、自分の身を案じて息をついていた。
それは嬉しい。
ラトリスとしては普段であれば胸が熱くなるほどに嬉しいことなのだが、
「ラトリス…?」
今の自分にはその資格がないと、ラトリスには分かっていた。
だからラトリスは、
「申し訳、ありません、ハガネ様。ルファイナ様、が、魔王に……」
震える唇を動かして、
「……食われ、ました」
鋼に、自らの見た物を告げる。
すると、
「ルファイナ!!」
その言葉を聞いた途端、鋼は馬車の床を踏み抜くほどの勢いで立ち上がった。
そして、それだけでは終わらない。
次の瞬間、
「きゃっ!」
「うわぁっ!」
鋼と同じように馬車の中で腰かけていたララナとリリーアが、突然の下からの突き上げに馬車の中に転がった。
「い、いったい何?」
「じ、地震…? でもこんな場所で……」
そう言って振り返った彼女たちは、そこで、ありえないはずの物を見る。
「な、なん、で…?」
「そん、な……」
なぜなら、そこには、
「び、びっくりしました…!! きゅ、急に真っ暗になって……」
ラトリスが食べられちゃったよ発言をした、当のルファイナがいたのだから。
呆然としていたのも一瞬、すぐにララナが立ち上がって怒鳴る。
「ちょ、ちょっと、何してんのさ、ルファイナ!
ていうかこれ、もしかしてコウくんの指示?! ひどいよ!
ボクがヴァンパイアさん用に作った場所を、そんなことに使うなんて!」
「え? ああ、うん、ごめん…?」
まずツッコむべきところはそこなのか、と鋼は首をかしげながら謝る。
しかしたしかに、ルファイナが寝ていたのは馬車の座席の下の空洞、ララナがヴァンパイアの仲間ができた時のために作った場所だった。
「え、えーと?」
周りの反応に戸惑ったのか、ルファイナが座席の下から顔をのぞかせながら、困った顔をする。
ララナやラトリスも何が起きているのか分からないようなのだが、なんとなく質問する空気ではなくなっていた。
そんな中、
「ま、待て? その、私には何がなんだか分からないのだが……」
いい意味で空気を読まず、そこで疑問をさしはさんだのはやはりアスティだった。
そしてそれに答えたのは、
「あ、つまり、向こうに行ったわたしは偽物なんです。
ホムンクルスの前に母様が作ってくれた人形ですね」
気まずい空気が解消されて、心なしかホッしたように見えるルファイナだった。
「え、ええーっ!」
リリーアなどはそれに素直に驚いていたが、ララナなどはやはりとばかりにうなずいた。
「どーりで城から出て来た時いつもとオーラがちがうと思ったよ。
そういうカラクリだったんだね」
さらに、あっという間に自失状態から回復したラトリスが聞く。
「成程。全く気付きませんでした。
ではもしや、貴女が今持っているのは以前言っていた気配を消すアイテムですか?」
「あ、そ、そうです。
本当は『清めの塔』に向かう時に使えたらよかったんですけど、もしわたしを狙う人がいた場合、わたしが馬車の底に寝てるなんてバレたら大変ですから……」
そしてそれが、仲間に今回の計画をギリギリまで話さなかった理由でもある。
「なによ、もう!
ほんっと人騒がせなことしてくれるわね、あんたたちは!!
ルファイナさんが本当に死んじゃったかと思ったじゃない!!」
安心したのか、いつもの元気を取りもどしたリリーアがそう怒り、ルファイナが恐縮しながら頭を下げた時、それは起こった。
「ふ、ふふ、あはははは!!」
どこからともなく、笑い声が聞こえてきたのだ。
「だ、誰っ? どこにいるの!?」
反射的に尋ねたリリーアの声に応えるかのように、
「あははははっははははははははっはははははっははははっははははははははっはあっはははははははっはははっはあはあははははははははっははははああははははっははははははっはははははははっははははははっははははっはははははっはははははははははははははははははははははっははははははははははははは魔王ワロス!!!」
その笑い声は鋼たち全員を唖然とさせるほどの大音声になる。
その、どことなく耳障りな声の、正体は、
「に、人形食べといて美味とか、これで封印破れるとか……。
どう見ても勘違いです、本当にありがとうございましたwww」
大爆笑しながら地面を笑い転がる、巫女服姿の女性だった。
それを、いつのまにか隣に立っていたなんちゃって西洋鎧を着た女性がたしなめる。
「少し落ち着け。そのような態度は神の品位を損ねるぞ」
「む。言いますね。さっきまでルウィーニアちゃんだって、『え、魔王出たの!? よっし魔王グッジョブ!! これでコウに会いに行ける!!』って騒いでたくせにぃ」
「そ、そんなこと言っていない!
こ、コウ! 本当だからな!? 絶対言ってないからな?
……あ、ところでコウ、今日偶然クッキーを作りすぎてな。
ちょっと食べてくれないか?」
あいかわらず地面に転がったままの巫女服女性と、こちらにクッキー入りと思われるリボンで結ばれた袋を差し出してくる西洋鎧の女性を見て、鋼は、
(本当に何とかしなきゃいけないのは、魔王よりもこっちなんじゃないかな……)
なんてことを思ったのだった。