第六十八章 ほぁああああああ!!
鋼の振り下ろしたナイフは、狙い過たず、鋼の胸に深々と突き刺さった。
「コウ!」
あわててマキが駆け寄ると、鋼は必死で笑顔を作った。
「あはは、だい、じょぶ。三十秒で、生き返る、から」
「生き返る、って……」
呆然とつぶやくが、マキも鋼の今までの話を聞いてタナトスコールという技の存在は知っていた。
鋼の背後に死神の姿があるのを見て、遅まきながら今のナイフにタナトスコールが付与されていたのだと気付いた。
微妙に焦点の合っていない目で、鋼がつぶやく。
「やっぱ、飛び降りの方が、よかったかな。
あんなに、がんばったのに、即死じゃないとか……」
「あんたなに言って……」
思わず鋼に食ってかかろうとして、マキはその途中で鋼の言葉の真意に気付いた。
気付いてしまって、思わずぞくりと総身を震わせた。
最近、鋼が頑張っていたことはなんだろうか。
そう尋ねられれば、マキは、近頃向こうの世界に行く研究とやらで忙しかったシロニャたちよりもはっきりと答えられる。
――筋力トレーニング。
そして腕立て伏せをしている時、自分やシロニャが理由を聞くと、鋼は何と答えたか。
鋼は、言った。
『向こうの世界に行く時』『即死じゃないと痛みが長引く』から、『さくっとヤれるように』腕立て伏せをしている、と。
その意味が、今になってようやく分かった。
つまり、鋼は、自分で自分の命を絶つことを前提として、その悲壮な決意の下に、ずっと自分を鍛えていたのだ。
一ヶ月以上前から、ずっと!
「コウ、あんた、おかしいよ。そこまで、そこまでやらなくてもさぁ!」
言いながら、マキはすばやくコートを脱いで、ナイフが刺さったままで今も血を流す鋼の傷口に押し当てる。
大きなコートがすぐに真っ赤に染まっていく。
「僕だって、死にたくはない、けど……。
時間が問題、で……」
「時間?」
「行きも帰りもシロニャに頼ったら、かかりすぎる。
だから、もどる時だけ、シロニャに力を使ってもらおうと、頼んで……」
「それ! 向こうに行くのにこんな方法使うってこと、みんな知ってるの!?」
マキには信じられなかった。
こうやって鋼が自殺をすることで、どうにかして向こうの世界に行けるとしても、傍目にも鋼のことを好いているあの三人がそれをよしとするだろうか。
だから、その質問は否定を期待した問いかけだった。しかし、
「あたり、まえ、だろ。みんな、勇気あるって、賛成、してくれて……。
シロニャ、なんて、僕が、はなす前から、ぜんぶ、わかってるって」
「う、そ……」
鋼はあっさりと肯定した。
マキは足元がガラガラと崩れていくような気持ちを味わった。
その言葉に従えば、シロニャたち三人は、鋼が自殺をしないといけないと分かっていながら平然としていたことになる……だけではない。
クリスティナは、マキにはっきりと『シロニャの力を使う以外、向こうの世界に渡る方法は見つかっていない』と言っていた。それにマキは、クリスティナが必死になって向こうの世界に渡る方法を探している姿をはっきり見ていた。
鋼の言葉が真実なら、それが全て単なる演技に過ぎなかったということも証明されてしまうのだ。
だってまさか、こんな大事なことを話し合っていないはずがない。
実は、
『鋼とシロニャたちの間にはとんでもない誤解や勘違いがあって、一見全員が同じ計画に沿って動いているように見えながら、鋼だけが一人、全く違うことを考えていた』
なんてことでもなければ、そういうことになる。
「そ、だ……」
マキの思索は、鋼がうめきながら動いたことで中断された。
「コウ!? 動いたらダメだって……」
今はそんなことを考えている暇はないと、マキは鋼に向き直る。
そんな、マキの首に、
「これ、クリスマス、プレゼント……」
鋼は、マキも見覚えのあるペンダントをかける。
「これ、シロニャがあんたに渡してた……」
「『相思相愛の証石』、だってさ。
世界がちがっても、つかえるか、わからないけど、もらって、ほしい……」
その言葉に、マキは一瞬詰まって、
「バカ! そんなのは、いいよ!
今は、今はあんたのことでしょ!」
そう怒鳴ってから、こんな状況なのに鋼から『相思相愛』なんて名のつく物をもらえたことをうれしく思ってしまった自分を戒めた。
「それより、あたしに何かできることはない?」
罪滅ぼしの意味も込めて、鋼に尋ねる。
すると、鋼は、青い顔にせいいっぱい申し訳なさそうな表情を浮かべて、
「だっ、たら、これ、押し込んでほしい」
自分の胸に刺さったナイフを指さして、言った。
あんまりにもあんまりな要求に、マキの頭の中が真っ白になる。
「三十秒、まで、時間、ないから……」
鋼の声が、どこか遠くから聞こえるような気がした。
――この人は、なんて残酷なんだろう、とマキは思う。
イブの夜に呼び出してさよならを告げて、最後まで一緒にいたいと願うマキの目の前で胸にナイフを刺して、そして今、マキが誰よりも好きな相手を殺す手伝いをしろと言う。
「あんたって、やっぱり最低だ」
口にしながら、マキは震える手でナイフの柄を握る。
たぶんマキはその時、泣いていたと思う。
こんなひどい、とんでもないことはマキの領分じゃなくって、もっと豪胆だったり冷静だったり電波だったりするおかしな連中に任せるべきだと心の底から思っていた。
でも、泣きながら、マキはその手に力を込める。
「あたし、は…!」
怖さと悲しさと怒りに涙がボロボロこぼれて、それでもナイフに込めた力だけは緩めない。
これが自分にできる最後のことだから。
これが特別でない自分が鋼の力になれる、唯一のことだから。
「う、ぐっ!」
鋼のうめき声が聞こえる。
自分がやっていることが信じられない。
一瞬でも気を抜けば意識を手放してしまいそうだった。
人生で一番長い数秒が過ぎ、
「も、だいじょ、ぶ。ぬい、て…」
弱々しい鋼の言葉に従って、ナイフを引っこ抜く。
抜けた途端に手からすっぽ抜けてナイフがどこかに飛んで行ったが、とてもたしかめる気にはなれない。
これで、マキのできることは、マキの『やらなくてはいけないこと』は終わった。
これでもう鋼は何の心配もなく異世界に行って、マキの手の届かない場所でマキの想像もつかないことをするのだろう。
マキにはそうした確信があった。
だから、マキは……。
「マ、キ…?」
マキは、鋼の胸からナイフを抜き取った後、しばらくまったく動かなかった。
やっぱり、こっちの世界に生きてきたマキには刺激が強すぎたのか、鋼がそんな風に後悔していると、
「あたし、は!」
叫びと共に、マキがぶつかってきた。
よろめきそうになる体を、後ろに回したマキの手が支える。
「あたしは、あんたのこと、最低だって思うし、ゆっきーに悪いから、何も言えないって思ってた。
でも…!!」
後ろに回されたマキの手に、びっくりするくらいの力がこもる。
鋼よりもちょっと下にあるマキの顔が、鋼の顔からあまりに近くて驚いた。
そして、その顔にあって、一際目を引く赤い唇が、つややかに動く。
「でも、やっぱりあたしはあんたが、好き!!
言う必要ないって思っても、言っちゃいけないって思っても、あんたが好き!」
ずっと秘め続けた思いを、血にまみれた愛する人の胸の中で、たたきつけるように口にしていく。
「ずっとずっと、好きだった!
世界で一番、ううん、向こうの世界とこっちの世界をあわせた誰よりも、あたしは、あんたが好き!」
ほんの数センチの距離で、マキの唇が愛を叫ぶ。
「だから、だからお願い! あたしを好きになって、なんて言わない!
でも、向こうに行っても、どうか、どうか、あたしを……あたしを、忘れないで!!」
だから、その言葉が終わると同時に、鋼は、唇までの数センチの距離を、
「――ッ!?」
ゼロに、変えた。
一度だけ、唇が離れて、
「コ、ウ…?」
「マキ……」
視線が絡み合う。
やがてマキは目を伏せて、代わりにその唇を寄せた。
一瞬が、永遠になる瞬間。
完全なる一体感。二人はまるで一つの生物のように寄り添い合った。
お互いの体を熱が循環し、鼓動が溶け合い、体と体の境界線すら曖昧になる。
だがその時、鋼の体からは、既にほとんど全ての力が抜け落ちていた。
マキの声を聞こうにも、もう音は聞こえない。
目もかすんで、マキの顔すらよく見えない。
ただつながった唇の熱だけが、鋼にマキの存在を知らせていた。
(あぁ……)
鋼の命は急速に消費し尽くされて、今まさに枯渇しようとしているのだと、自分でも分かった。
(マキ……)
彼女とはここで、別れるのだとしても。
もしかするともう二度と、会うことができないとしても。
せめて、この唇の温かさだけは持っていきたいと、そんな埒もない考えを浮かべながら、鋼は、
(さようなら……)
そっと目を、閉じた。
――そして、鋼の世界は、暗転する。
急速に、五感がもどってくる。
まず反応したのは、聴覚だった。
さっきまではなかった喧騒。浮わついた熱気。そしておそらく、鋼たちが突然出現したことによる驚きの声。
そんな物が耳に届いてくる。
次は、触覚。
夜の校庭の刺すような寒さはなくなり、屋内の生ぬるい空気が肌に触れる。なのにマキと触れていた、体の前面と唇だけが、まだ熱を持っている。
マキと別れてしまったなんて、とても信じられないくらいに。
まるで、マキと体を寄せ合い、肌を触れあわせたあの一瞬がまだ続いているかのように、はっきりと、まだ鋼の体には、マキのぬくもりが残っている。
感傷的だと思いつつも、そんな風に感じる自分を、鋼は止められなかった。
そして最後は、視覚。
鋼がゆっくりと目を開くと、そこは予想した通りの光景と、予想外の光景の二つが広がっていた。
予想通りだったのは、夜の校舎とは思えない、熱狂と歓喜、きらめきとざわめきに満ちた周りの光景。
そして予想外だったのは、
「え? マ、キ…?」
元の世界に置いてきたはずのマキが、目をぱちくりとさせながら、鋼と唇を重ねたまま、目の前にいるという光景で……。
「ひぃぁっ!」
目が合った瞬間、マキは真っ赤になって弾かれるみたいに鋼から離れた。
「え、ええ? な、なんで?
お別れ、なんじゃないの?
え、ていうか、ここ、どこ?
屋上じゃ、ない?」
だが、マキが混乱していられたのもそこまでだった。マキの戸惑いすら飲み込んでしまうかのような、声の奔流が鋼たちを襲う。
「見せつけてくれるぜぇ!」「ライブジャックとか、しびれるぅー!」「お二人ともー! お幸せにー!」「ひゅーひゅー!」「あれ、男の方、幻の転校生くんじゃない?」「ミニスカサンタ、イイ!!」「ブルレ先生、お久しぶりですー!」「これ演出?! 演出なの!?」「クリスティナー! てめーようやく戻ってきやがって! 貸した本返せよなー!」「もう一回、キース! キース! キース!」「二人の式は、いつですかー?」
周りに集まった鋼と同年代の少年少女たちが、口々に鋼たちに冷やかしの言葉を投げかける。
そして何より、鋼たちの背後、きらびやかなステージには、
「わ、わ、わたしのライブで、何やってんのよぉおおおおおおおおおおお!!!」
キメッキメなアイドル衣装を着て、顔を真っ赤にしているリリーアがそんな風に叫んでいて、
「あは、あははははは!」
鋼は思わず、笑い出してしまった。
一方で、突然の状況の変化についていけていないのは、当然マキで、
「こ、コウ? これって……」
コートがなくなって、ふたたびミニスカサンタにもどっている彼女に、鋼は端的に告げた。
「あ、ごめん。一緒に連れてきちゃったみたいだ」
その言葉が、マキの脳に染みわたるまで、五、四、三、二、一……、
「え、え、えぇええええええええええええええええええええ!!!」
そうしてきっかり五秒後に、今まで聞いたことがないほどのマキの絶叫が、騒がしい講堂を一層賑やかにしたのだった。
「いやー、ぜんっぜん考えてなかったけど、神様の転移ってアバウトだしねー」
転移の瞬間、マキとはぴったりくっついていたし、そういえばマキには鋼の魔力が流れていた。
装備品か同一人物だとでも判断されて、一緒に連れてきてしまっても不思議はないと鋼は分析した。
しかし、それで納得できるはずがないのはマキだ。
突然異世界の、しかも魔法学院なんて場所まで連れて来られて混乱しているだろうと思いきや、
「え? えぇ? だって、でも、あたし、言っちゃったよ?
最後かもしれないって思ったから、いろいろ……」
「ああ、覚えてる」
「ずっと、……き、だったとか。
せ、世界で一番、とか……。
しかも、ひ、人前で、き、き、キス……。
あ、う、うぁ、あ、あわわ…!」
なんだかちょっと違うことで煩悶していた。
マキは、それこそ人目もはばからずにのた打ち回り、
「……コウ」
「何?」
「あたしは、貝になりたい」
「……まあ、正直気持ちは分かるよ」
完全に、撃沈した。
貝になってしまったマキはひとまず置いておいて、鋼が横に視線を走らせると、
「懐かしい雰囲気だと思いましたが、ここは魔法学院ですか。戻って来たようですね」
いつでも冷静なラトリスがいつもの冷静な態度で立っていて、
「ほらキース、キース、キース! ……って、あれ?
もしかしてここ、魔法学院じゃないですか?!
い、いつの間に!? キングクリ○ゾン!!」
いつでもおとぼけなクリスティナも、いつものボケをかましていた。そしてついでに、途中から聞こえてきたキスコールの犯人まで分かってしまった。
とりあえず、予定外の一名も含めた全員の転移が確認できて、ホッと一安心する鋼。
だが、混迷はまだ収まらない。
「コウ!」
鋼のオラクルの力を使って、白猫姿のシロニャの分身が現れた。
「これは、いったいどういうことなんじゃ!?
なんでいきなり、こっちの世界に……」
駆け寄るなりそう問い詰めてくるシロニャに、鋼は首をかしげた。
「なんで、って、予定通りだろ。
もともとクリスマスイブにこっちの世界に転移して、次の日、クリスマスの朝から魔王について情報収集。1月10日にシロニャの力がたまったら、最低でも真白さんを連れて元の世界にもどる、って計画だったじゃないか」
さも当たり前のことのようにそう話す鋼に、シロニャは混乱する。
「ま、待つのじゃ、コウ!
情報収集とは、あっちの、元の世界でするのではないのか?
ワシはてっきり……」
「あっはは! 何言ってるんだよ、シロニャ。
こっちの世界の魔王のことなんて、元の世界でいくら情報収集しても分かるはずないだろ?」
「えぇぇ!? いや、それはそうじゃけど、えぇえ!?」
シロニャは大混乱だ。
「そ、そうじゃ! そもそも、どうやってこっちの世界に……」
「ほらほら、そういう話は今はいいだろ。
お前の知り合いでもあるんだから、とりあえず今日の転移の立役者さんにあいさつしなきゃな」
何か言いかけるシロニャを、鋼は無理矢理に方向転換させる。
そう言って鋼たちが向き直ったのは、当然講堂のステージの真ん中……ではなくて、その逆、観客席。
「ほら、あの人だよ」
鋼の言葉に、シロニャがその視線の先を追うと、観客席の最前列で、鋼たちが巻き起こした騒動なんてものともせずに、
「リリーアちゃん、ほっほぁあああああああああああ!!」
と叫んでいる重度のアイドルオタクがいる。
「お、おぬしは…!?」
その姿を見て、今度こそシロニャの表情が固まった。
そう、そこにはかつて武闘大会中、(リリーアの)ファンです!と鋼に熱烈にアピールを重ねていた、巫女服の女性の姿があった。
我関せずの態度を貫いていたその巫女服の女性も、鋼とその腕に抱かれたシロニャが至近距離まで近付いて来ると、ようやく鋼たちに気付いた。
「あぁ! もしかして、そこにいるのはシロニャちゃんとスカートめくりの鋼さんじゃないですか!?」
あいかわらずのテンションで、鋼たちに声をかける。
「変な二つ名つけないでください。たしかに鋼とシロニャですけど……」
苦笑しながら鋼が答えると、巫女服の女性は軽く首をかしげた。
「え? それじゃあ、さっきわたしのところに転移してきたのって、もしかすると鋼さんですか?
あれ? あれれ? ということは、もしかして鋼さん、アレから三か月も経ってないのに、もう死んじゃったんですかぁ!?」
その口から放たれる、元気だけど歯に衣着せない言葉に、鋼はまた苦笑いした。
それでも今回ばかりは恩があるからと、丁寧な態度を崩さない。
「あはは。ええ、まあ。
でも、おかげでこっちにもどってくることができました。
ありがとうございます、審神者さん」
そうやって鋼に丁寧に頭を下げられて、巫女服の女性こと、審判の神『審神者』はくすぐったそうに身をよじり、
「もう! わたしのことはサニーでいいですよ!
ね、わたしのかわいい使徒さん!!」
そう言って、鋼に百点満点の笑顔を返したのだった。
これが後に、『リリーアライブ1997、聖夜のライブジャックキス事件』と呼ばれる騒動の顛末。
――結城鋼の、あまりに賑やかな異世界への帰還であった。