第五十三章 首に縄
今でこそ何だか和気藹々と学院長と話している鋼たちだが、もちろん最初からこんなに親しかったワケではない。
それは、鋼が最初に図書館にこもって書き取りの課題を始めた時のこと。
【あーきーたー! 飽きたのじゃよ!
コウ、何かもっと面白いことをやるのじゃ!】
シロニャはたちまち退屈し、文句を言い始めた。
ちなみに図書館ではシロニャの制御を離れスタンドアローンになっている白猫は、もうすっかり椅子の上で丸くなってお昼寝中であった。
「無茶言うなよ。このページまでやったら休憩するから、その時まで待て」
【なんじゃとぅ! そんなことを言うんじゃったら、ワシ一人でゲームでもやって……ゲーム? 一人?】
だがそこで、さらにエキサイトして文句を言っていたシロニャが止まった。
そして、
【た、大変なことに気付いてしまったのじゃ……】
毎度おなじみになった感のある言葉を吐く。
「そう言って大変なことだった例がないけど……。
まあいいや、で、なんだって?」
鋼に急かされ、シロニャははやる気持ちを抑えるように、意図して冷静な口調で話し始める。
【この図書館、ワシの分身は動かせなんだが、オラクルやワームホールは普通に使えるのじゃ。
それで、ワームホールには生き物を通すことができんのじゃが、電波なんかは無生物じゃから通すことができるんじゃ】
「えっと、それで何が言いたいんだ?」
要領の得ない言葉に鋼がそう聞くと、シロニャはおずおずと答えた。
【じゃ、じゃから、おぬしにワシのP〇Pを貸せば、ワームホール越しに二人で通信プレイができるのではないかと思うのじゃが……】
それを聞いた後の鋼の行動は迅速だった。
肩に乗っていた白猫を即座に抱き上げると、
「 神 猫 降 臨!!!!!!!!!!!!」
何だか優勝球団の監督みたいにわっしょいわっしょいやり始めた。
抱き上げられてもみくちゃにされてワショーイまでされ、
【わ、ちょ、なんなんじゃよ!
ちょっとほんとなんなんじゃよ!】
とたまらず叫ぶシロニャに、
「今までバカにしてて悪かったよシロニャ!!
お前って本当に神様だったんだな!!」
ものすごいテンションで語りかけてくる鋼。
【こんなことでまさかの神認定じゃと!?】
突然別の意味でも持ち上げられ、動揺するシロニャ。
などという一幕をあっという間にやり終え、
「よしやろう! すぐやろう!」
と、今まで誰も見たことのないテンションで鋼が急かす。
【じゃ、じゃけど、書き取りはしなくてよいのかの?】
「あっはっは! 久しぶりのゲームの前には、どんな障害だってライクアペーパーだよ!
ああ、今までシロニャにゲームを借りるという発想ができなかった数秒前までの僕を撲殺してやりたい気分だ!」
【お、おぬし、ちょっとテンション高すぎて怖いのじゃよ?】
と言いながら、自分のラディアントレッドのP〇Pをワームホール越しに鋼に渡す。
「おお、このフォルム、この光沢! これこそが夢にまで見たP〇P!
よくぞ我がもとに帰ってきた!」
【ちがうのじゃぞ! おぬしのじゃないのじゃぞ!
貸しとるだけじゃからな!】
シロニャが思わずビビるほどのテンションで久しぶりのP〇Pを拝み始める鋼。
そして、そんなところに現れたのが、
「ほむほむほむ。お主、面白そうな物を持っておるな」
立派なひげをたくわえ、ほむほむと笑う学院長だった。
学院長のひげはあまりに立派すぎて、鋼は最初、この人は人間というより何だかダンブルな扉のようだなと思った。……ダンブルってどういう意味だとか、何で扉なんだとか、深く考えてはいけない。絶対にだ。
鋼はこっちの世界の人間にこういうの説明しちゃっていいんだろうかと思いつつ、P〇Pについてざっと説明した。
そして、解説を聞いてさらに興味を引かれた様子の学院長へ、
【狩りゲームは大勢の方が楽しいのじゃ!】
との理由で、ワームホールからもう一つのP〇Pが飛び出してくる。
ちなみにP〇Pを二つも持っている理由については、
【べ、べつにもう一つのP〇Pで新キャラをたくさん作ってギルドカードを交換して、まるで友達がたくさんいるみたいに工作したワケじゃないのじゃからな!】
そういうことらしい。
鋼の想像以上に切ない理由だった。
しばらくは文化の壁もあり、言葉の壁もありでなかなか学院長は苦戦していたのだが、初心者の学院長とセーブデータがないため最初から始めた鋼に合わせ、シロニャもメインキャラの『シロナ』ではなく、新しく『シロニャ』というサブキャラを作ってやり始めたこと、学院長が驚きの言語能力を見せてあっという間に日本語の説明の意味を理解し始めたことで、ほどなくスムーズにゲームができるようになった。
ちなみに、
「ほむほむほむほむほむ!
このような言語、『ロゴス』に比べればちょろいわい!」
というのが、鋼にはおそらくどう頑張っても一生共感できない、学院長の当時の台詞であった。
その後三人がゲーム友達になるまで、そう長い時間を要さなかったことは想像に難くないだろう。
リリーアに頼まれた通り学院長と接触したこと自体はよかったのだが、やはり課題をこなすという意味ではこのゲームと学院長という要因はマイナスになった。
たとえば根が真面目な鋼は基本、ゲームは書き取りを一段落させたインターバルの時にやり始めるのだが、ひとたび狩りに熱中してしまうと簡単に三十分以上没頭してやり込んでしまうので、課題に差し支えること甚だしかった。
また、学院長がいるとやはり課題が進められない。
いくら鉄の心臓を持つとアスティ辺りにまことしやかに語られている鋼でも、学院長が隣にいる時に平然と書き取りはできなかった。
なんというかプライド的な問題もあり、さすがにこの人には自分がこんなもんを書いているとバレたくない気持ちがあったのだ。
そこで鋼はリリーアからの頼まれ事を心の言い訳に、学院長が傍にいる間は書き取りノートを閉じて、会話を優先することにした。
この日もほとんど課題が進むことはなく、昼に休憩を取って食事をした以外はひたすらゲームと雑談で時間が過ぎていった。
そして六時間目が終わる時間、ラトリスとの約束のため鋼たちは図書館を後にした。
「ラトリス、いるー?」
魔法学院寮の自分の部屋にもどった鋼はそう声をかけてみたが、返答はなかった。
「ラトリスはまだ来ていないようじゃな」
そう白猫が言って、鋼の肩からベッドに降りた。
「じゃあ、少し待っていようか」
「うむ。そうじゃ、おぬしの能力をもう一度確認しておきたいから、カードを見せてくれるかの?」
シロニャの要望に、特に迷うことなく鋼はカードを猫の下まで運んだ。
「ふぅむ。やっぱり全体的に伸びてきたのう」
「そうだなー」
鋼はベッドに寝転がりながらそう返事をする。
鋼の記憶が正しければ、今の鋼の能力値は、
筋力98 知力67 魔力125
敏捷71 頑強0 抵抗0
といったところだったはずだ。
あんなに本を読んだのに知力の伸びがいまいちなのは、たぶん『脳筋の誓い』のせいだろうと鋼はひそかに思っている。
カードを覗き込んだシロニャは、感心したような声を出した。
「しかし、ここに来た当時の能力を思い返すと、ずいぶん伸びたものじゃな。
能力値は上に行くほど上がりにくくなるとはいえ、このままのペースで行けばこの学院で一年も過ごせば魔力は300越えするのではないか?」
「どうかなー」
鋼の気のない返事を、シロニャは聞き咎める。
「何だか他人事じゃのう。
普通の人間で、能力値が300まで上がる者なんてそうそうおらんのじゃぞ?」
「んー」
そのシロニャの言葉にも、鋼は煮え切らない返事を返す。
「なんというかさ。能力値が少しくらい高くても、あんまり意味ないかなって思えてきてさ」
「……どういう意味じゃ?」
「ほら、シロニャは見てないだろうけど、この前クロニャってのが襲ってきたんだけどな」
「ああ、異世界勇者じゃな?」
「あー、そうそう」
シロニャの合いの手にさらに相槌を返し、鋼は話を続ける。
「能力値がたとえ全部300越えても、ああいうのに勝てる気がしないんだよな」
「まあ、異世界勇者ならそのくらいは強いじゃろうな」
「だということはさ」
そこで、鋼は体を起こして、シロニャを見た。
「この世界は近い内に魔物に滅ぼされるって言ってたけど、その魔物たちっていうのはきっと勇者が必要になるくらいは強いんだろ?」
「……そうじゃな。ある程度以上、魔物の勢力が強まった時に現れる『魔王』という存在は、おそらく異世界勇者の数倍か数十倍か数百倍程度は強いと言われておるな」
アバウトだなー、と言いながら、鋼はもう一度、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。
それを呆れたように見ながら、今度はシロニャから口を開く。
「おぬしはおかしな奴じゃな。
目先のことばかり考えているかと思えば意外と先まで考えていたり、大きなもののために戦っていると思えば実はちっぽけなもののために体を張ったりもする。
じゃが、たしか世界を救うような勇者は目指さないのではなかったのかの?」
「そりゃ、今でもそんなつもりは全くないけどさ。
でも、もしもの時のために何か考えてなきゃ不安だろ?
そう思ったら、能力値がちょっとくらい高いより……」
「0の方がまだ使い道がある、じゃろ?」
口に出すつもりのなかった言葉を先回りされて、鋼がふたたび、がばっと体を起こした。
「なんじゃよ。図星じゃったのか?」
「いや、別に……」
言葉をにごそうとする鋼に、シロニャは追撃をかける。
「ずっとおかしいと思っておったんじゃ。
まあ、抵抗が上がらないのは納得できる。魔法攻撃は全部無効化してきたからの。
じゃが、武闘大会であれだけマッシの攻撃を受けたのに、どうして頑強が0のままなのじゃ?」
シロニャの追及に、鋼はグッと詰まった後、
「それは、闘技場でのことで、命の危険のない戦いだったせいだからじゃないか?
武闘大会では能力値が成長しないシステムになっているとか……」
「ほーう? じゃがおぬし、それからもリリーアに叩かれたり階段ですっころんだり、この前も足の小指をタンスの角にぶつけて悶絶したりしとったよな?
おぬしほどの成長力があれば、その程度でも一つや二つは上がっておらんとおかしいのではないか?」
「いや、だから、それはだな……」
ふたたび言葉に詰まる鋼。
しかしそこで、白猫はふっと笑って追及の手を緩めた。
「なーんてにゃ」
「へ?」
「ワシの考えすぎじゃったかもしれん。
それよりももっと楽しい話をするのじゃよ!」
「あ、ああ! そうだよな! な、何の話をする?」
シロニャの提案に、鋼は一も二もなく飛びついた。
それを確認して、シロニャは楽しげに話題を振る。
「そうじゃな、たとえば……『サイコロ』の話なんてどうじゃ?」
サイコロ、という単語を聞いた途端、鋼が分かりやすくビクッとした。
「な、なんでいきなりサイコロの話なんてするんだよ」
「あれ? ダメじゃったか?
なら、そうじゃなぁ……『サッカー』について話すのもおもしろそうじゃのう」
「さ、サッカー……は、おもしろそうだなぁ」
サッカー、という言葉にやはり過剰反応する鋼。
「おぬし、時々すごく分かりやすいんじゃな……」
そんな鋼に、白猫は少し呆れ気味だった。
「ま、これでだいたい分かったからいいんじゃよ。
まったく、あの時は興味がない素振りをしよったくせに、結局使っとるじゃないか」
とシロニャが憤激するように言うと、鋼はがっくりと肩を落とした。
「まったく、僕の周りには目ざとい奴が多くて困るよ」
「どういうことじゃ?」
「同じようなこと、リリーアとラトリスにも聞かれたんだよ。
ま、そっちは僕のタレントを見てないからね。
何とかごまかしたんだけど……」
「む。あの二人もか…!」
鋼が二人の名前を口に出した途端、シロニャの顔が不機嫌そうに歪んだのだが、鋼には見えていなかった。
はぁ、とため息をつく。
「まだ思いつきにもなってないような段階で、本当はこんな時点で話すつもりなんてなかったんだよ。
だからシロニャ、このことは他の人には秘密にしといてくれよ?」
「ふ、二人だけの秘密、じゃな?」
「ああ。漏らしてもらったら困る」
微妙にかみ合わない会話をするシロニャと鋼。
しかしそれでも、シロニャはうれしそうだった。
「そういえば、今の話で思い出したけど、あのタレントの実験に協力してくれたエルフの女の子、どうしてるかな?」
「ああ、あの赤面エルフじゃな?」
あいかわらず変なあだ名つけるなぁと思いつつ、鋼は話を進める。
「あの子たしか、魔法学院に入りたいとか言ってただろ?
もしかして、ここに転入してきたりとか……」
「あー、それはないじゃろ。
あやつ、年はたしか11とか言っておったじゃろ?
そりゃああの年にしてはうまく魔法を使っておったと思うのじゃが、この魔法学院の最年少入学記録は13歳。
あやつが入学しては、記録を更新してしまうのじゃ。
それに……」
「それに?」
「あやつはワシより胸が大きいから好かんのじゃ!!」
鋼はしばらく、何のコメントも言えなかった。
「正直、普通のまな板と、薄紙が一枚張り付いたまな板くらいの差しかなかったと思うんだけど……」
目視での判別は困難だった。
「そんな慰めの言葉はいらんのじゃ。
ワシとあやつの間には、薄紙一枚どころではない、三枚ほどの差がたしかに……って誰がまな板絶壁胸じゃぁあ!!」
「もう何を言っていいやら……」
鋼にもツッコめない時はある。
「もういいのじゃ! ワシは一人でおぬしのカードをめんこにでもして遊ぶのじゃ」
とすっかりへそを曲げてしまったシロニャだったが、
「……コウ?」
なぜかすぐに、非常に温度の低い声で、鋼を呼んだ。
「どうかしたか?」
無警戒に近付く鋼に、シロニャは怒気を込めて尋ねる。
「お前の二つ名が、『神落とし神』なんてふざけたものになってるんじゃが、これはどういうことじゃろうな?」
「え? あ、ああ。シロニャと仲良くなったからじゃないか?」
なんとなくドキッとしたが、鋼にはそれ以外に思い当たることがなかった。
しかしシロニャの怒気は収まらない。
「ほほーう? じゃが、今説明を見たら、『三柱の神の寵愛を受ける者』とあるんじゃが?」
「え、嘘だろ!?」
あわててカードを取り上げる。
というか、二つ名の詳しい説明が見れる機能がついているなんて知らなかった。
「だれじゃ! だれがおぬしをたぶらかしたんじゃ!」
ご乱神、もとい乱心するシロニャ。
「ええいおぬし、そこに直れ! 正座じゃ正座!」
「あ、ああ。うん……」
そしてベッドの上に正座させられる鋼。
どうするのかと思えば、シロニャはすかさずその上に乗って丸くなる。
「説教にこの体勢はないと思うんだけど……」
「ええい、ごまかすでないのじゃ!」
「ええ!? ここで僕が怒られるのか!?」
理屈の通じない猫だった。
「さぁ! キリキリ吐くのじゃよ!
さもなくばこのひざでワシの爪を研ぐ!」
「それは痛い!」
膝の上で丸くなった猫に恫喝される鋼。
その光景は情けないを通り越してほとんどシュールだったが、当事者はどちらも真剣だ。
「でも、僕には本当に心当たりないんだけど……」
「ウソをつくんじゃないのじゃ!
ウソつきはみんなそう言うのじゃよ!」
しかし本当に、鋼には思い当たる節がない。
強いて言うなら、ミスレイを通じて戦神の加護を受けたのだから、三つの内の一つは戦神かもしれない。
だが、これでシロニャと合わせても二柱。
あと一柱には全く思い当たる神がいない。
「う、うなー! 浮気者は脳天にでっかい風穴じゃと昔から法律で決まっとるんじゃぞ!」
「それじゃ、素直に話しても結局死ぬじゃないか……」
「うわーんやっぱり浮気なんじゃワシは裏切られたんじゃぁああ!」
「いや、そういうことじゃなくて……」
錯乱してあらぬことを口走り出すシロニャ。
これではどうあっても収まりそうにない。
ここで鋼は最終手段に打って出た。
「この手だけは使いたくなかったけど……ごめんシロニャ!」
鋼の手が、シロニャのなめらかな毛並みに伸びる。
「き、きさま、にゃにをする!?
あ、ズルいぞコウ、こんなことでワシは…………ふにゃぁぁ」
鋼はシロニャを撫でて撫でて撫でまくった。
なんだかんだでこの一か月間、猫好きな鋼はブラッシングと称して、コミュニケーションと称して、ゴミがついているとか言い訳して、あるいは会話をしながら、勉強しながら、食事を取りながら、ゲームをしながら、とにかくずっとシロニャを撫でながら過ごしてきた。
たぶん一日の三分の一くらいは無意識にでもシロニャを撫でながら過ごしている鋼にとって、シロニャの弱点などすっかりお見通しだった。
シロニャがうにゃーんごろごろー、状態になったところで鋼はようやく手を止めた。
というか、鋼としてもちょっとやりすぎた感がないワケでもない。
「ええと……少し頭は冷えたか、シロニャ?」
「うにゃー、もっとぉ……ハッ!」
正気にもどったシロニャは、あわてて居住まいを正す。
「にゃ、にゃんじゃ? ワシは最初から冷静じゃぞ!?」
「まあ、それならいいんだけどね……」
しかし、少し時間を置いて冷静になったのはたしかなようだった。
「その、本当におぬしには心当たりがないんじゃな?」
「ああ」
「その言葉、ヘラクラーに誓えるか?」
「ヘラク……ああ、誓うよ」
「なら信じるのじゃ!」
さっきまでの狂態が嘘のように、あっさりと納得するシロニャ。
「ふふふ。しかしコウに横恋慕するなどバカな神たちじゃよ。
コウはもう、こんなにもワシにメロメロじゃというのにな!」
しかもその数秒後には立ち直ってこんなことまで言っていた。
鋼も別にメロメロになった覚えはないのだが、たしかに白猫バージョンのシロニャの撫で心地にはメロメロなので、とりあえず口ははさまなかった。
「と、ところで、なのじゃが……」
「ん?」
膝の上のシロニャが、今度はさっきまでとはまた違う、照れたような雰囲気で鋼を見上げてきた。
そして、
「そろそろ、おぬしとワシの付き合いも長いじゃろ?
これから危険なこともあるじゃろうし、おぬしさえよければ、正式にワシの祝福を……」
おずおずと何かを提案しようとしたその時、
「ラトリスです。入っても宜しいでしょうか?」
待ち人、来たる。
「あ、ちょっと待つのじゃ……」
というシロニャの制止も虚しく、
「ああ。入って」
と鋼はすぐに答えてしまっていた。
「失礼します」
メガネを光らせ、ギルドの職員をしていた時と同じようなビシッとした服装のラトリスが部屋に入ってくる。
「うぅ! これからじゃったのにぃ…!」
とシロニャがひそかに憤慨していたが、小声すぎて鋼には聞こえなかった。
「申し訳ありません、ハガネ様。
内密の話がしたいので、どうか人払いを」
人払いを、と言いつつ、ラトリスの視線は一直線に猫を向いていた。
それに対して、
「わ、ワシはコウのパートナーじゃぞ!」
とシロニャが叫ぶと、コウの腰の横で何かがブルルと振動した。
しかし、これから始まるのは真面目な話のようだ。
「シロニャ。悪いけど、ちょっとこいつを持って外で遊んでおいてくれ」
「にゃんじゃとぉ……むぐ!」
そう言って、シロニャに腰の木の枝をくわえさせて部屋の外に出した。
それでもオラクルで会話を聞いている可能性は大だが、そこまで禁じるつもりはなかった。
「それで、話っていうのは?」
シロニャを外に出してもどってきた鋼がそう聞くと、ラトリスはメガネの奥の目をすっと細めた。
「はい。ハガネ様がここに連れて来られた時のことを覚えておられますか?」
「ああ、あれは強烈だったな……」
食事の途中に突然レメデスがやってきて、色々と衝撃的な事実をぶちまけた後、鋼をここまで転移させてきた。
あんな体験は、忘れようもない。
「あの時、ハガネ様は単独でレメデス教師に転移をさせられました。
彼女に敵意はなかった為問題は起こりませんでしたが、敵対している者に同様の事をされた場合、転移先に敵が待ち構えている可能性も考えられます」
「あー。そうだなぁ」
これがゲーム基準の能力の弱いところだ。
鋼は攻撃魔法には強いが、ゲームにおいて攻撃に使われるはずのない移動魔法などを使った策には意外ともろいかもしれない。
「そこで、それに対抗する手段を提案しに参りました。
『血縄の絆』と言います」
「なんだか、すごく物騒な名前だけど……」
ラトリスは首を横に振った。
「いえ、名前はそうかもしれませんが、単に契約するのに血を使うだけで無害な術式です。
効果としては、転移の魔法等を受けた場合に、これで結ばれた相手も同時に転移するという物となります」
「つまり、転移の罠にかかったりしても、単独で敵を相手にする危険がなくなる、ってこと?」
それが本当なら、*おおっと! テレポーター*、となっても安心ではある。
「はい。それに、転移しなければいけない対象が増える事で、転移自体を阻害する事も可能になるかもしれません」
「なるほど……」
転移魔法は高度な魔法だと聞く。
ギリギリ一人を飛ばせるだけの術師なら、二人になったら魔法自体が使えなくなる、ということもあるだろう。
「その術式を、私に使わせて頂きたいのです」
そう言って、ラトリスは頭を下げた。
だが、頭が下がるのは鋼の方だった。
ラトリスには有形無形の色々な手助けを受けている。
感謝をするとすればこちらの方だ、と鋼は思った。
「その、いつもありがとう。
何度も言うけど、それはこっちが頼む方だよ」
そう鋼は言うが、
「いえ」
ラトリスは頑なに首を振るだけだ。
しかし、ここで時間を取ってもお互いにとって無駄な時間にしかならないだろう。
鋼はあえて頭を切り替える。
「それって、ここですぐにできる?」
「はい。契約自体は単純ですので。
ただ、二度と解除出来ないというだけで……」
「え、いや、ちょっと?」
不穏な単語に、鋼が焦る間にもラトリスはてきぱきと動き、
「ハガネ様、左手の薬指を出して下さい」
「え、あ、ああ」
有無を言わせぬ口調に、つい左手を差し出してしまう。
「失礼します」
するとその指に、ラトリスは素早く顔を近付け、
「つっ!」
小さく歯を立てた。
わずかながら指からしたたる血。
ラトリスがそれに口早に何かを唱えると、
「……糸?」
それは真っ赤な糸となって、ラトリスの指に絡め取られた。
「これが、『血縄の絆』の名前の由来です。
後は、これを私の体のどこかに巻きつければ完成です。
……構いませんね?」
ラトリスのメガネの奥に、わずかな不安が揺れているのを見て取って、
「……ああ、構わない。
いや、じゃなくて、ラトリスにやって欲しい」
鋼は結局、そう答えた。
するとラトリスは、無表情な顔にわずかに喜色をたたえて、
「お任せ下さい!」
とめずらしく溌剌とした声で応じる。
しかし、薬指から垂れる赤い糸なんていうのは、まるで女の子の好きな迷信のようだ、と鋼は思う。
もしラトリスがこれを自分の薬指に巻きつけたりなんかしたら照れるな、と鋼が思っていると、早速ラトリスが赤い糸をつまんで、くるりと器用に巻きつけた。……自分の首に。
「ちょっと待った! その場所はおかしい!」
鋼がたまらず叫ぶが、
「はい?」
ラトリスはもう、首に血の糸を巻いた後だった。
役目を果たしたせいか、赤い糸は見えなくなり、表面上は鋼たちは元にもどった。
しかし何だか鋼は、取り返しのつかないことをしてしまった気がしていた。
そして、それを裏付けるように、ラトリスがその場で三つ指をついて、大きく頭を下げた。
「私を一人前にして下さって、有り難う御座います」
「い、一人前、って何が?」
「この『血縄の絆』の術式は、私のお世話になった里では互いに一生を添い遂げるという意志を示す為に行われ、主に婚姻の儀や主従の契約を結ぶ時に使われるのです。
もちろん軽々しく結べる物ではありませんし、無理矢理に出来る物でもありません。そこで忍びの間では、この術を使う事が出来たら一人前、とする習わしがあるのです」
その言葉を聞いた鋼の顔から血の気が引いていく。
(重い! この忠誠心は重すぎる!)
正直鋼としては、もうちょっと軽々しく結べる物を使って欲しかった。
また、ラトリスの言葉が終わるか終わらないかの内に、部屋の外からガリガリガリガリと猫がドアをひっかくような音と、ドンドンドンドンと枝がドアをたたくような音が響いてきて、鋼の混乱をあおる。
そんな混迷する事態の中、ラトリスだけは平静に、
「これからも、末永く宜しくお願い致します」
まるで嫁入りのあいさつのような口上と共に、もう一度深々と頭を下げたのだった。
そこから一拍遅れて、ドアが内側に弾け飛ぶ。
木の枝がばびゅーんと鋼目がけて飛んでいき、猫が鋼のみぞおち目がけてダイブする。
鋼の右手に収まった木の枝はまるでチェーンソーのようなけたたましい音を出し、
「もうこうなっては遠慮などしていられないのじゃ!
コウ! すぐにワシの祝福を……」
白猫は鋼の胸元に爪を立てながら何やらまくしたてる。
そして、その混乱をさらに助長させるかのように、開け放たれた扉を新たな影が潜り抜け、
「ハガネ、朗報よ! メンバーがとりあえず二百五十人集まったから、十日後に第一回の作戦会議を開くわよ! ……って」
突然現れたアイドルの少女は、部屋の惨状――鋼にしがみついて叫ぶ白猫、鋼の手の中で激しく振動する木の枝、極めつけとして床で土下座している女教師――を見渡し、もう一度鋼を見て、
「……あんた、何やってんの?」
いつぞやと同じ台詞を、以前よりももっと冷え切った声で放ったのだった。