第五章 裸一貫男物語
存在が、ほどけていく。
「あ、ああああああああああああああ!
うあああああああああああああああ!」
我知らず、鋼の口から傷ついた獣の咆哮が漏れる。
だが、とまらない。
結城 鋼という存在を構成している要素の結合がほつれ、分解されていく。
闇しかないその空間に、かつて結城 鋼だった物体がまぎれ、消えていく。
存在が消える恐怖。自分が何者でもなくなるという怖れ。
まさにこの世の地獄を体現したかのような闇の世界に、
「とんでもないことをしてくれたのう」
鮮烈な光が差し込んだ。
「シロニャ……」
その姿を目にして、鋼の存在は安定した。
それは、存在の分解が停止したという意味ではない。
いまだに鋼を苦しめる存在の分解という現象は絶え間なく続いている。
しかし、それを受けてなお、無視できない存在感がシロニャにはあった。
いや、それでも無視できないほどの関係性が、彼とシロニャの間にいつの間にか形作られていた。
「とんでもないことって、なんだよ」
間断なく続く恐怖と痛みに耐えながら、鋼は強がった口調で白い少女に問う。
「分からんのか?」
静かな怒りを秘めたようなおごそかな声で、シロニャは問い返した。
鋼の頭にひらめく、一つの可能性。
「まさか、僕が力を使わせすぎたせいで、因果律が…?」
「いや、それは大丈夫じゃ。それは神が直接力を使った場合。
今回の場合は人間のおぬしが自分で抜け道を見つけて力を獲得しただけじゃから問題ないじゃろ。
それでもあの時事態に気付いたワシが黙認したなら『神の過剰な手助け』扱いされていた可能性もあったんじゃが……。
実際にはワシは妨害したワケじゃから、やっぱり人間自身の努力という扱いで因果律は働かないはずじゃ」
「じゃあ、何が問題なんだ?」
「なに、簡単な、ごく単純な話じゃよ」
沈痛な、どこか自虐的とも取れる態度で、シロニャはとうとう真相を打ち明ける。
「あんなバグがあったってバレたら、ワシは母様にお尻ペンペンされるのじゃあ…!」
「そ ん な 理 由 か っ !!!」
鋼はシリアスにしていた自分が一気にバカらしくなった。
しかし、それで収まらないのがシロニャだ。
「そんな理由、で片付く話じゃないのじゃよ! ワシはもう三歳なのに、母様はパンツまでおろして尻をたたくのじゃぞ!
神としての基本的な尊厳まで奪われるあの屈辱と、でもちょっと気持ちよくなってしまう感じ、おぬしに想像できるかの?!」
「したくもないわ!」
アブノーマルな告白ならよそでやるか、せめて転生中じゃない時にしてほしいと鋼は痛切に思った。
「ワシのお尻に紅葉ができちゃったらおぬしのせいじゃぞ! そうなったら写メ撮って見せに行くからの!」
「来なくていい!」
こんなバカなやりとりをしている間にも鋼の体は粒子になって絶賛消滅中なのだ。付き合っていられないにもほどがある。
神様僕は何か悪いことをしましたかと祈りそうになって、鋼は自分の目の前にいるのが神様だったことに気付いてあわててやめた。
「それより、今僕はどうなってるんだよ! なんか消えてるんだけど!」
生きながら存在を分解される恐怖なんてものは、体験しないと分かるものではない。
鋼は必死の形相でシロニャに問いかける。
「そりゃそうじゃろう。おぬしはこれから赤子となって、別の世界で生を受けるのじゃ。
じゃからこれまでの姿を捨て、新たな器を作る必要がある。当たり前の話じゃろ」
「当たり前って、こんな……。誰かさんのせいで、心の準備もできなかったのに…!」
これで、今まで十七年近く生きてきた『結城 鋼』という存在が死ぬ、消えるというのに、それを平然と見守るシロニャに思わず恨み言が漏れた。
だが、他のことはともかく、強制的に転生を開始してしまったことには責任を感じたのか、シロニャはわずかながら譲歩した。
「う、うむ。仕方ないのう。ならばワシから餞別じゃ。
ワシのとっておきを一つ追加で習得させてやるのじゃ」
シロニャが手をかざすと、鋼の体に何かが入り込んできた。
同時に、頭の中に直接響く、メッセージ。
鋼はタレント『瞬間記憶復元』〈思い出せそうで思い出せない芸能人の名前や昔の歌の歌詞などを瞬時に思い出すことができる〉を手に入れた!
「いらねえぇぇぇぇぇぇぇええええええええええ!」
それが鋼の、『結城 鋼』としての最後の、そして最期の言葉になった。
………………………。
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「あ、れ? 僕は……」
鋼が次に目を覚ました時、そこはもう、何もない世界でも闇の世界でもなかった。
「緑の、においがする」
辺りを見回す。鋼は木々に囲まれた野原のような場所にいた。
日本で似た光景を探すとなると、森林公園だろうか。
しかし、これだけではここが元の世界なのか、異世界なのかを断定することはできなかった。
「そうだ! たしかシロニャは転生すれば赤ん坊になるって……」
いそいで鋼は自分の姿を見下ろしてみた。
その時に鋼の、その両の眼に映ったもの、それは……
「な? え? どういうこと?」
大きさ的にはとても赤ん坊とは言い難いものの、生まれたままの自分の姿、つまり、
――全裸になった自分の体だった。