第一章 よくある走馬灯
(これはずいぶん、早まっちゃったかなぁ……)
華麗に空を舞いながら、結城 鋼は少しだけ後悔をしていた。
高校からの帰り道、家に帰る途中のちょっとだけ大きな通りで、車道の真ん中に白いものが見えた。
それが子猫であることに気付いたのと、それに直撃するコースで車が迫っているのが見えたのは、ほとんど同時だった。
子猫は、動けない。いや、動いてはいるのだが、背中でアーチを作るような姿勢で小さく跳び上がっただけ。それは猫が驚いた時、反射によって起こる生理的な現象で、鋼はそのせいで猫が車にひかれる事故は後を絶たないと聞いたことがある。
危急の時にそんな思考が頭をよぎったのは余裕の表れなのか、それとも取り乱していたのか。とにかく鋼はその光景を見て、とっさに体が動いた……かどうかはよく分からない。
意外と猫を見つけてから時間が経っていたのかもしれない。しかし結局鋼は子猫の下に駆け付けて子猫を両腕で抱きかかえ、そこで容赦なく車にはねられた。
車はほとんどスピードを落としていなかった。
勢いのついた車にはねられた鋼は、そんな走馬灯のような内省が可能になるほどの時間、宙を舞い、そして落ちた。
横になった視界に、泡を食ったように蛇行した車が、そのままスピードを上げて走り去っていくのが見えた。
(ひきにげか。救われないね、こりゃ)
救われないのは、相手か、自分か。よく分からないまま、なんとなくそう思った。
そして、腕の間からスルリと逃げていく白い子猫。
当たり前だろう。子猫に自分の状況が分かっていたとは思えない。
鋼にとっては『苦労して車から助けた猫』であっても、猫にとっては『自分に不意にタックルしてきたよく分からない人間』に過ぎないのだ。
感謝どころか、最悪嫌われたり恐れられたりしている可能性もある。
しかし、それでも、
(助けられたんなら、よかったかな?)
そんなことも思う。
それは特に鋼がお人よしだからではなくて、そう思わなければやってられないということもある。
車に跳ね飛ばされた衝撃で、全身の感覚がおかしい。痛みはないが、不自然な寒気がする。異様に眠い。視界の隅には自分の流したものらしい血が見える。
これは死ぬのではないか、と自分で思ってしまった。
いくら何でも、自分の命と引き換えにして子猫の命を助けるほど鋼は善人ではない。きれいごとを言ったって鋼の知らない場所で子猫なんていくらでも死んでいるし、それを本当に助けたいと思うのなら、金を出してそういう団体でも作った方がよほど効率がいいだろう。
自分が死ぬ可能性なんて考えなかったから鋼は動けたワケで、そうじゃなければ鋼はただ子猫がひかれるのを硬直して見ていただけだろう。
(でも、だったらそれは、やっぱり少しだけ、よかった……)
もうろうとする意識で、そんなことを思う。
浮かぶ思考は、とりとめのないことばっかりで。
(あの人も、こんな気分、だったのかな)
思い出したのは、年上の従姉。十年ちょっと前に、あっさりと事故で死んで、鋼は初めて身内の葬式に出た。
鋼が死を、間近に感じた唯一の瞬間。それでも自分が死ぬ時のことなんて、これっぽっちも考えなかったけれど。
「……ぁ」
横切った白いものに、鋼の口から、声にもならないかすれた呼気が漏れる。
気が付くと、目の前には逃げ出したと思っていた白い子猫がいた。思ったよりも大きい、キラキラとした瞳で、こちらを覗き込んでいる。
(そう、か。死にざまとしては、これも、わるく、は、ない、か……)
――そうして鋼は自らが助けた白い猫に看取られ、人知れず最期の時を迎えた。……はずだった。
だが、
(な、なんだ…?)
唐突に、周囲の光景が歪む。
晴天だった空が、アスファルトの道路が、うす茶けたビルが、全て歪んでねじれて消えていく。矛盾する言い方が許されるなら、世界が増殖する無に侵食され、塗り替えられていく。
とうとう視覚までおかしくなったかと鋼は自分を疑ったが、歪んでいく世界の中で、目の前にたたずむ子猫だけは、まったくぶれずに元の姿を保っていた。
そして、辺りの光景が全て虚無にぬりつぶされ、その結果、必然として世界の変化が収まった時、白猫が動き出した。
いや、動き出したというのは正確ではない。
鋼が簡単に抱きかかえられる程度だったその小さな体躯が歪み、その姿を変えていく。
鋼が驚きのあまり何も考えられないでいる間に、子猫はあっという間にその体を変化させ、十二、三歳くらいの年の、人間の少女の姿になった。
「ふむ。『ゆーき はがね』か? 変わった名前じゃのう。
それにしても驚くべきは世知辛いこの時代、こうも簡単にお猫様トラップにひっかかる人間がいようとはの」
あまりに突然すぎて、その声が少女の口から出たものだと鋼には分からなかったが、子猫だった少女は一切斟酌せず、正しく鋼を見据えてこう言った。
「安心するのじゃ。結城 鋼。ワシがお前を生き返らせてやるのじゃよ!」