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妹と結婚するあなたのお店で、どうして私が働くのですか

作者: パリトン
掲載日:2026/10/21

 店の鍵を持っていたのは、妹だった。


 私が両手で抱えた菓子の箱を持ち直しているあいだに、フローラは真鍮の鍵を差し込み、白く塗り直した扉を開けた。頭上で小さな鐘が鳴る。その音が高すぎないようにと、私は金物屋で四つも鳴らし比べたのだ。


「お姉様、早かったのね」


 妹は扉を押さえ、私を中へ招いた。私は敷居の前で立ち止まる。鍵は明日渡すと、セドリックから聞いていた。


「どうして、あなたがそれを持っているの?」

「僕が渡したんだ」


 奥からセドリックが出てきた。上着の袖をまくり、両手に椅子を持っている。窓辺に置こうとしているのは、先週二人で選んだ椅子だった。昼を少し過ぎれば客足が落ち着くだろうから、ここで一緒に食事をしよう。そんな話をした場所へ、彼は椅子を並べた。


「ロゼッタ。菓子を置いて、話を聞いてくれないか」


 箱の底に、まだかすかな温かさが残っている。朝から焼いた蜂蜜の小菓子と、何度も配合を変えた梨のタルト。今日は彼に食べてもらい、開店の日に出す品を決めるはずだった。


 売り台に箱を置くと、セドリックは妹の隣に立った。


「君との婚約を解消したい。フローラと結婚しようと思っている」


 窓の外を荷馬車が通った。車輪が石畳を跳ねる音が、やけに長く聞こえる。私は箱を結んでいた紐から手を離せず、彼の口元を見ていた。聞こえなかったのだと思いたかったけれど、聞き返す言葉は出てこなかった。


「すまない。店の準備が忙しいからと、言うのを先延ばしにしていた」

「……いつから?」


 彼が妹を見る。そのわずかな間に、二人はもう何度もこの話をしたのだと分かった。


「結婚を決めたのは、先月だ」


 先月。私は勤めていた菓子店へ、辞める日を伝えた。師匠は一緒に店を持てるのが嬉しいだろうと笑い、使わなくなった大きな焼き型を譲ってくれた。セドリックもその場にいて、頭を下げていたのに。


「それなら、どうして私に準備を続けさせたの」

「店は予定どおり開くよ。君には、これからも菓子を作ってほしい」


 彼が箱へ手を伸ばす。蓋を開けようとする指を見て、私は思わず箱を引き寄せた。


「結婚の話と、仕事の話は別だろう。厨房は君がいなければ回らない。給金も、きちんと払うつもりだ」


 つもりだ、という言葉が引っかかった。私たちは給金の相談などしていない。彼が家族から譲り受けた建物を直し、私が道具をそろえて、二人で暮らせるだけの売上を目指す。店が軌道に乗ったら、二階の住まいへ移る予定だった。


「お姉様の菓子、私も好きよ」


 フローラはそう言って、窓辺の椅子に触れた。


「ここは私たちが食事をするところにしてもいい? 奥は暗いし、セドリックも、この窓が気に入っているって」


 返事を待つ妹の顔に、ためらいはなかった。私がここで何を楽しみにしていたか、彼は話していないのだろう。私は椅子の背を見つめたまま、唇の内側を噛んだ。


「今日は帰るわ」

「待ってくれ。三日後の試食会はどうする?」


 近隣の店主や、材料を卸してくれる人を招いてある。勤め先で私の菓子を買ってくれた客にも声をかけた。楽しみにしていると言われるたび、私も待ちきれない気持ちになったものだ。


「今は、考えられない」

「返事だけは早く頼む。材料も届くんだ」


 私は箱を抱え直した。彼は何か言いかけたけれど、私が扉へ向かうと道を空ける。鐘の音を背中で聞きながら、石畳を見て歩いた。濡れてもいない道で転ばないように、いつもより足元を確かめた。


     *


 三日後、私はその厨房で梨を切っていた。


 試食会の分だけは引き受けると、翌朝、セドリックへ伝えた。材料代とは別に仕事の代金を受け取り、その先の返事は会が終わるまで待ってもらう。そう決めたのは私だ。招いた人に迷惑をかけたくなかったし、ここまで準備した店を、もう一度自分の目で見てから考えたかった。


 厨房の作業台は、私の肘に合う高さになっている。粉の棚へも、踏み台なしで手が届く。建具屋と何度も相談したこの場所なら、一日中働いても腰が痛くならないだろう。焼き上がりを並べる棚も、よく乾いて使いやすそうだった。


 ここに残れば、菓子は焼ける。


 包丁を動かしながら、何度もそう考えた。セドリックを今すぐ嫌いになれなくても、そのうち仕事だけの相手になるかもしれない。よそで働き直すより、慣れた道具と、望んだとおりの厨房がある方がいいのではないか。


 焼き型に梨を並べていると、フローラが戸口から顔を出した。淡い黄色の服に、真新しい前掛けを合わせている。


「お姉様、このお菓子には何が入っているの?」

「梨と、卵と、牛乳。下の生地には胡桃も入っているわ」

「そんなにたくさん?」

「胡桃が食べられない人には、勧めないでね」


 妹は紙に書き留めた。これまでなら、覚えてくれようとすることを嬉しく思ったかもしれない。私は手元へ視線を戻し、端の梨を少しずらした。今から焼けば、客が来る頃には落ち着いて切り分けられる。


 昼前から、店先が賑やかになった。私も最初は売り台へ出て、皿を並べていたのだけれど、次の菓子を出すたびに厨房へ戻る。薄い壁の向こうから、セドリックが客を迎える声が聞こえた。


「こちらが婚約者のフローラです。店では主に接客を」


 声がするたび、手を止めないように努めた。天板が熱い。砂糖の蜜は煮詰まりすぎると使えなくなる。考えることはいくらでもあった。


「あら、ロゼッタさんは?」


 聞き覚えのある声に顔を上げると、勤め先でよく会った花屋の女主人が、厨房を覗いていた。私を見つけて笑い、それから妹とセドリックを振り返る。


「お二人で始めると聞いていたから、てっきり」

「事情が変わりまして。ですが、菓子は変わりませんよ。彼女に任せますから」


 私は蜂蜜の小菓子を載せた皿を、売り台へ置いた。


「開店後については、まだお返事していません」


 セドリックの笑顔が止まる。花屋の女主人は私を見て、小さく頷いた。


「そう。今日はいただいていくわね。あなたのこの菓子、うちの人が好きなの」


 包む紙を取りに戻ると、フローラが小声で言った。


「お姉様、今そんな言い方をしなくても」

「決まっていないことだから」


 妹は困ったように口を閉じた。私も、それ以上は言わなかった。手渡した包みを女主人が大切そうに籠へ入れるのを見て、少しだけ息がしやすくなる。


 最後の客が帰った頃、イーヴォが空の皿を厨房へ運んできた。角を落とした爪の脇に、黒い染料が残っている。通りを二本隔てた製本所で働く彼とは、以前の勤め先からの付き合いだった。


「これ、どこへ?」

「流しの脇にお願い。梨のタルト、どうだった?」

「二切れ目を取りに行ったら、もうなかった」

「感想になっていないわ」

「もう一切れ食べたかった」


 少し笑えた。そのことにほっとして、私は皿に残った菓子の屑を払った。イーヴォは、作業台の端に置いた赤茶色の帳面へ目を留める。私が粉のついた手で触るので、表紙はもう何か所も白くなっていた。


「背は、まだ緩んでいない?」

「ええ。昨日も思いきり開いたけれど、大丈夫」


 その帳面は、彼が作ってくれたものだ。試作の記録をばらばらの紙で持ち歩いていた私に、順番を決めて持ってこいと言って、一冊に綴じてくれた。代金の相談をしたら、六日間、違う菓子を一つずつという条件を出された。最後の日には、どれがいちばん好きだったかを、私の方が待ち構えて聞いた。


「蜂蜜の菓子は、前の店でも焼いていたよね」

「最初から出そうと決めていたの。日持ちもするし」

「ここで、続けるの?」


 皿を重ねる指が止まった。イーヴォは扉の向こうを見ず、私の返事を待っている。


「仕事がなくならずに済むなら、その方がいいでしょう」

「君は、ここで働きたい?」

「自分で準備したのよ。作業台も棚も、何度も測って。今更、全部やめろって言われても」

「やめろとは言っていない」

「簡単に離れられるなら、今日だって来ていないわ」


 思ったより強い声になった。彼はしばらく黙って、それから、うん、と答えた。慰められるのも怖くて、私は顔を上げられない。


「今日は、お疲れさま。タルト、おいしかった」


 足音が離れ、店の鐘が鳴った。私は乾いた皿を拭き続けていた。やがてセドリックが厨房へ来て、客の評判は上々だったと話し始める。彼の後ろから、妹が二つの茶碗を運んでいた。


「疲れたでしょう、お姉様も休んでね。私たちは先にお茶にするから」


 二人は窓辺に座った。私は、三つ目の茶碗を棚から下ろしかけ、やめた。どこへ座ればいいのか、聞く気にはなれなかった。


     *


 イーヴォの製本所を訪ねたのは、二日後の夕方だった。


 手土産を焼こうとして、やめた。何か渡さなければ会いに行けない相手ではないはずなのに、手が空いていると落ち着かない。私は鞄の留め金を握り、作業場の入口で彼の名を呼んだ。


 窓際に座ったイーヴォが顔を上げる。すぐ立とうとしたので、手元の糸が気になって止めた。


「そこまで終わってからでいいの」

「ありがとう。あと二か所」


 彼の指が、折り重ねた紙の間へ針を通す。菓子を切る私の指とは違う動きだった。じっと見ていると、仕事の途中で客に話しかけられ、焼き加減が気になりながら返事をした自分を思い出す。待ってもらえるだけで、ずいぶん助かるものだ。


 糸を留め終えた彼は、針をしまい、椅子をもう一脚引き寄せた。


「この前、きつい言い方をして、ごめんなさい」

「俺も、疲れているときに聞くことじゃなかった」

「あなたが帰ったあと、片付けをしていて考えたの。私、あの店でどうやって働くつもりだったんだろうって」


 彼は膝の上で両手を組んだ。爪の脇に、今日は青い色がついている。鞄からハンカチを出して、その角を指で折った。


「窓のところに、椅子が二つあるでしょう」

「ああ」

「お昼を一緒に食べようって、私と話していたのよ。忙しい日は、食べながら次の日の仕込みを考えて。暇だったら、窓を開けて休もうって」


 声が震え、私は一度口を閉じた。こんな小さなことまで話すつもりではなかった。婚約を解消されたことだけを、ちゃんと説明できればよかったのに。


「一階で働いて、二階に帰るつもりだった。疲れた日は階段が短い方がいいねって、笑って」


 ハンカチを目に当てた。イーヴォは動かずにいる。その沈黙がありがたくて、私は顔を隠したまま続けた。


「私が準備していたのは、そういう暮らしだったの。あの二人が上で暮らしている家へ、毎朝、働きに行くつもりじゃなかった」


 言い終えると、もう取り繕えなかった。セドリックが私を選ばなかったのが悲しい。妹の持っていた鍵が羨ましい。給金をもらえるのだからと、自分に言い聞かせても、そのたびに窓辺の椅子を思い出してしまう。


 イーヴォが、水の入った杯を机に置いた。私は礼を言って、少しずつ飲んだ。


「……みっともないでしょう」

「俺なら、あの試食会まで引き受けられない」

「仕事をしているあいだは、考えなくて済む気がしたの」


 彼は頷いた。しばらく二人で窓の外を眺めていると、通りの向こうでパン屋が日除けを畳み始めた。日が傾き、製本所の床にも長い影が伸びている。


「帰ったら、師匠に手紙を書こうと思う」

「前の菓子店の?」

「ええ。少しでも仕事をもらえないか、聞いてみる。あんなに祝って送り出してもらったのに、情けないけれど」

「事情を話したら、叱る人なの?」


 師匠の顔を思い浮かべた。最初に泣いて、それから怒るかもしれない。けれど、焦がした菓子を隠したときも、失敗そのものより、言うのが遅いと叱られた。


「……もっと早く来い、とは言われそう」

「それなら、早い方がいい」


 鼻をかみ、杯を机へ戻す。立ち上がった拍子に、積まれていた小さな本が目に入った。表紙に梨のようなものが描かれている。手に取っていいか尋ねると、イーヴォが妙な顔をした。


「それは、梨じゃない」

「何も言っていないわ」

「そう見える顔をした。山の地図なんだ」


 言われて見直せば、確かに細い道が曲がり、麓には家がある。けれど、形はどう見ても梨だった。私が笑うと、彼も困ったように笑った。


「やっぱり、描き直すか」

「私は好きよ。でも、菓子の本かと思って開く人はいるかもしれない」


 彼は本を受け取り、表紙を見下ろした。それから私に目を戻して、少し安心したような顔をする。帰る頃には目元も乾いていた。外へ出ると、夕方の風が頬に冷たかった。


     *


 師匠には、やはり「来るのが遅い」と言われた。


 ただし、私の代わりに入った職人がいるので、以前と同じ日数は働けない。週に三日、朝の仕込みと祭礼用の注文を手伝う。それでも、暮らしながら次を考えるには十分だった。店に出すつもりで残していた貯金にも、急いで手をつけずに済む。


「あんたが辞めるときに、帳場で大きな顔をした男だろう」


 師匠はそう言って、切り分けた焼き菓子を私の前へ置いた。


「あれに食べさせるために、腕をつけたわけじゃないんだ。戻るなら、明後日の朝からおいで」


 私は何度も頷いた。菓子を一口食べると、まだ働き始めたばかりの頃、空腹を隠していた私へ同じように切れ端をくれたことを思い出した。今度は泣かずに、全部食べた。


 その足で、セドリックの店へ向かった。戸口には開店日を書いた札が出ている。私はそれを確かめてから中へ入った。フローラは売り台の布を替えていて、セドリックは帳簿から顔を上げた。


「ちょうどよかった。給金のことなんだけど」

「その話の前に、返事をさせて。私はここでは働きません」


 用意していた言葉なのに、声が少し掠れた。鞄の中で手を握り、二人の顔を見る。妹は布を持ったまま、彼に視線を向けた。


「少し休めば、落ち着くと思っていたんだが」

「考えて決めたの。試食会の仕事は済んだし、代金もいただいた。今日は私の道具を引き取ります」

「店はどうする? もうすぐ開店なんだぞ」

「別の職人を探して」


 セドリックは椅子を引き、立ち上がった。私が開店日を知らないかのように、壁の暦を指す。あの暦の丸は、私がつけたものだ。


「君が焼くと言うから、ここまで用意した。竈も作業台も、君の希望を聞いただろう」

「私も、あなたと結婚して、一緒に店をする約束だったから用意したのよ」

「だから、働く場所は残すと言っている。菓子を焼きたいんだろう?」


 まだ、同じ話をしているつもりなのだ。私は窓辺を見た。椅子の背に妹の肩掛けがあり、その横には新しく買ったらしい揃いの茶碗が置かれている。ここに私の茶碗を一つ足しても、欲しかった暮らしには戻れない。


「焼きたいわ。今も」

「なら」

「でも、妹と結婚するあなたのお店で、どうして私が働くの?」


 彼の口が止まった。私は続けた。途中で涙が出たら言えなくなると思い、ゆっくり、言葉を選んだ。


「あなたたちが一緒に出かける日も、上の部屋で休む日も、私はここで菓子を焼くのよ。あなたにお帰りなさいも言えず、仕事が終わったら一人で帰る。そんなこと、私にはできません」


 フローラが布を売り台へ置いた。


「……私が接客するのが嫌なら、店には出ないようにするわ」

「あなたが隠れていても、同じよ」


 妹を困らせたいわけではない、と言いかけて、飲み込んだ。今は二人の気持ちを軽くする言葉まで探せない。私は鞄から、持ち込んだ道具の控えを取り出した。帳面を見せながら、型と秤と銅鍋の数を確認してもらう。


 セドリックは銅鍋の前で立ち止まった。


「それも持っていくのか」

「私が買ったものだから。台所に借りていた大きな鍋は置いていくわ」


 何か言いたそうだったが、彼は頷いた。私はいつもどおり、型の間に布を挟んだ。大切に使えば、これから何年も働いてくれる。ひとつずつ木箱へ収めていると、背後で妹の声がした。


「帳面だけでも置いていってもらえない? 次の人が、同じものを作れるように」


 私は赤茶色の帳面を手に取った。紙の端には、試食の感想を書き足した跡がある。売り物になるまでの失敗も、売り物にならなかった菓子も、ここに入っている。


「これは、持っていくわ」

「写すだけでも」

「フローラ。ほしいものを全部、私に頼まないで」


 妹の目が大きくなった。私は帳面を鞄へ入れ、留め金を閉じた。声を荒らげたわけでもないのに、言った自分まで驚いていた。


 道具は、呼んでおいた荷運びの人に預けた。最後にセドリックが、開店を遅らせることになると告げた。私は返事を迷い、それから頷く。


「お客様には、私が働かないことも伝えてね」

「……ああ」


 今度こそ扉へ向かった。鐘が鳴る直前、振り返りそうになったけれど、手を離さず外へ出る。荷車の横に立っていた男が行き先を確かめたので、師匠に貸してもらうことになった物置の住所を伝えた。


 歩き出してから、足が震えていることに気づいた。男は私が追いつくまで荷車をゆっくり押してくれた。積まれた木箱に手を添え、しばらく、その速さで一緒に歩いた。


     *


 秋が深まる頃、私は週に二日、小さな売り場を借りることになった。


 場所は王都の西門に近い、屋根付きの市場だった。茶葉を売る女主人が休む二日間だけ、棚と台を貸してくれる。菓子は師匠の店で、竈の空く時間を借りて焼く。家賃も材料代も払ったうえで、どれだけ残るか。何度も計算し直し、蜂蜜の小菓子と梨のタルトの二種類から始めることにした。


 セドリックの店は、予定より三週間遅れて開いたと聞いた。結局、菓子を焼く職人は間に合わず、別の店から仕入れているという。私が働いていると思って訪ねた人には、彼が事情を説明したそうだ。花屋の女主人が教えてくれたけれど、私はそれ以上、詳しくは聞かなかった。


 製本所へは、ときどき顔を出していた。イーヴォが針を持っているときは話しかけず、仕事が一段落するまで、持ち込まれた古い本の背表紙を眺める。彼が休める日は川沿いを歩いた。菓子の包みを渡すこともあったが、何も持たずに訪ねても、もう落ち着かなくなることはない。


 彼は意外に早口になる人だった。橋の修理に使う木の話や、近くの山で道に迷った話になると、こちらが相槌を挟む隙もない。私が、あの梨の地図で迷ったのかと聞くと、迷ったから地図を書いたのだと真面目に答えた。


 仕事をしている横顔しか知らなかった頃には、そんな顔をする人だとは思わなかった。笑わせてみたくて、私は時々、わざと間の抜けた質問をした。


 開店の五日前、商品の札を受け取りに行った。丈夫な厚紙に、品名と値段が大きく書いてある。小さな字で材料も添えられ、私が頼んだ以上に見やすかった。代金を渡すと、イーヴォは一枚ずつ傷がないか確認して、布で包んでくれた。


「店の名は、これでよかった?」


 最後に出てきた札には、『ロゼッタの菓子』と書いてあった。飾り気はないけれど、通りからでも読めそうな字だ。


「ええ。誰が作っているか分かる方がいいと思って」

「君らしい」


 彼は札を包みに重ね、それから、まだ片手を離さずに私を見た。


「開店の日、店を閉めたら夕食に行かないか」

「私がお礼をする方でしょう。こんなに丁寧に作ってもらったのに」

「代金は、もらった」

「それでも」

「仕事のお礼じゃない。君と二人で食事をしたくて、誘っている」


 私は返事をしないまま、札の包みを見下ろした。嬉しいと思ったら、そのあとから怖くなった。川沿いを歩いた日のことも、彼の作業を眺めていた時間も、急に別の意味を持ち始める。


「……私、まだ時々、セドリックのことを思い出すわ」

「うん」

「会いたいわけじゃないの。でも、どうしてあんなことができたんだろうって。考えてしまう日がある」


 彼は包みから手を離した。急がなくていいと言われたら、頷いて帰ってしまいそうだった。帰ったあとで後悔するのも分かっていたから、私は顔を上げた。


「でも、この札を頼みに来る日は、何を着ていこうか迷ったの」


 イーヴォが瞬いた。私は自分の袖を見て、それから彼を見る。


「仕事のお願いに来るだけなのに。あなたは、服より札の寸法を気にするだろうと思っても、やっぱり迷った」

「気にしているよ」

「寸法?」

「服も」


 彼の耳が赤くなっていた。私も同じくらい赤くなっている気がして、包みを抱きしめた。


「夕食、ご一緒したいです」


 イーヴォが笑った。いつもの、こちらがつられてしまう笑い方だった。


「よかった。断られたら、札の文字まで嫌いになりそうだった」

「それは困るわ。私、毎日見るのよ」


 笑いながら、もう少しここにいたいと思った。今度はその気持ちを隠さず、彼が片付けを終えるまで待って、一緒に通りへ出た。


 開店の日は、朝から晴れていた。


 売り台の後ろは、二人立てば狭い。師匠の店から運んだ箱を開けると、焼いた胡桃と蜂蜜の匂いが広がった。私は皿の位置を直し、商品の札を立て、通り側へ出て、どんなふうに見えるか確かめる。その作業を三度繰り返したところで、イーヴォが来た。


「札、曲がっている?」

「いや。俺が書いたとおり、真っすぐだ」

「よかった。今から見ると、値段が高い気もして」

「昨日までは?」

「これ以上安くしたら、来月の粉が買えないと思っていた」

「じゃあ、昨日の君を信じた方がいい」


 私は両手を前掛けで拭き、もう札に触らないことにした。イーヴォは外套を脱ぎ、貸した前掛けを結ぶ。今日は彼の休日で、最初の一時間だけ手伝ってくれる約束だった。


 最初の客は、幼い男の子を連れた女性だった。男の子が、蜂蜜の菓子を指さす。私は箱の陰から出て、女性へ声をかけた。


「いらっしゃいませ。こちらは、蜂蜜を入れて焼いた菓子です。胡桃は使っていません」

「少し、硬いかしら。この子、まだ小さくて」

「端はさっくりしていますけれど、真ん中は柔らかいです。お試しになりますか」


 試食用に切っておいたひと欠片を渡すと、男の子は母親の顔を見てから口に入れた。しばらく噛んで、私ではなく菓子の皿へ向かって頷く。その真剣な顔がおかしくて、私は笑った。


「これを二つ、いただける?」

「はい。ありがとうございます」


 紙に包み、代金を受け取る。母子が去ったあと、私は掌の銅貨を見た。師匠の店では、何度もしたことだ。それなのに、自分の札の前で受け取ったお金は、しまうまでに少し時間がかかった。


 横を見ると、イーヴォが次の包み紙を広げていた。何も言わずに差し出してくれたので、私は受け取った。


「もう一枚、お願い」

「はい、店主」


 昼前には、梨のタルトが売り切れた。蜂蜜の菓子は、まだいくつか残っている。仕込みを減らしすぎたかもしれないし、タルトを切る大きさも考え直した方がいい。帳面を開き、思いつくままに書いていると、別の仕事でいったん帰っていたイーヴォが戻ってきた。


「休む時間だよ」

「あと少し。今日のこと、忘れないうちに書いておきたくて」

「食べながら聞く。食べ終わってから、書き忘れがないか一緒に確かめよう」


 顔を上げると、彼は二つの包みを持っていた。朝、私が用意して渡した昼食だ。市場の外には腰を下ろせる場所がある。茶葉店の女主人から借りた『休憩中』の札を、私は台の真ん中へ置いた。


 外へ出ると、日差しの当たる石の長椅子が空いていた。二人で座って包みを広げる。パンに挟んだ焼き野菜は、製本所の小さな炉で温め直してくれたらしく、紙越しにも温かい。


「タルトが売り切れたの」

「見た。札が裏返してあった」

「次は、もう一台焼こうかしら。でも、今日だけかもしれないし」

「今日は何人が買った?」


 私は指を折って数え始め、それから、パンを持っていたことを思い出した。イーヴォが自分の包みを膝へ置き、代わりに指を折る。あの客が二切れ、その次が一切れと話すたび、彼の指が増えていった。


「ほら。食べて。数は覚えているから」


 私は頷き、まだ温かいパンをかじった。もう一口食べるあいだ、彼は指を折ったまま待っていてくれる。


 飲み込んでから、私は朝いちばんの小さな客の話をした。続きを聞こうと、イーヴォがこちらへ顔を向けた。


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