深夜の神社と青白い人魂
「あのぉ、夜分遅くにすみません…。こちらに伺えば、この神社で起きたことならなんでも相談に乗っていただけると聞きまして…。」
時刻は夜の23時を過ぎ、ミコが4畳ほどの和室に敷かれた布団で今にも眠りにつきそうにしていたとき、部屋の入り口にある障子戸が突然ガラリと開き、そこから1人の小柄な少女が身を縮こませながら部屋に入ってきた。
電気が消えて薄暗い部屋の中で、ミコは眠気まなこをこすりながらも障子戸の方を見ると、そこには朱の袴に白の小袖を纏った巫女の少女が、背を丸めながら足をガクガクと震えさせて立っていた。
「ああ、なんかまたトラブルでも起きた感じかな…ちょっと待ってね、布団から起きるから。」
ミコは独り言のように小さな声でつぶやくと、寝巻き用のジャージ姿のまま布団の中からゆっくりと起き上がった。
「おやすみのところ、起こしてしまってすみません。大したことではないんですけど、少し相談がありまして…。」
その少女はモジモジとしながら、ミコと目を合わせないように、自分の袴を両手でギュッと掴みながら俯いていた。
「ええっと、何かな相談って。手短に頼むよ。こっちも眠たいからね。」
ミコはそう言うと、部屋の電気をつけるためにスイッチのある障子戸の方まで歩いて行った。
突然、夜遅くに部屋に押しかけてきた少女は、相変わらず部屋の入り口にある障子戸を開けたまま、下を向いて黙っている。
ミコがその少女の前まで歩いて行って「いいよ、何でも話してごらん」と言うと、その少女はようやく決心がついたのか、噤んでいた口を開いた。
「あのぉ、ミコさんにこんなことを相談させていただくのも申し訳ないのですが……。実は私、さっき食堂前の流し台の方で青白い人魂のようなものを見たんです。それで怖くなってしまい…ミコさんの部屋に突然押しかけてしまいました……。」
その少女はか細い声でそう言うと、また下を向いて口を噤んでしまった。
「あー、人魂ねぇ…。まあ、たしかにうちの神社だとそういう類いの話はよく聞くけどもね。」
ミコはそ淡々とそんな事を言うのも、なんせミコ達が今いるこの場所は、京都で鎌倉時代から800年以上続く神社の境内にある社務所であり、国の重要文化財にも指定されるほどの歴史を持つこの神社では、幽霊や呪いといった類いの話を聞くのは日常茶飯事だからだ。
まあ、ミコはそんな幽霊とか人魂とか、オカルトじみた話はまったく信じていないが。
「まあ、一旦落ち着きなよ。温かいお茶でも飲んでさ。」
ミコは部屋の電気をつけると、障子の前でモジモジしている少女を手招きして、部屋の中心にある小さなテーブルの方に呼び寄せた。
その少女は「おじゃまします。」と小さな声で言ってから、ミコの布団が敷いてある部屋の奥の方まで朱の袴の裾を踏まないように摺り足でやってきた。
ミコはテーブルの上に置いてあったポットでお湯を沸かし、急須にお茶っ葉とお湯を入れて、温かいほうじ茶を振る舞ってあげた。
するとその少女は、ミコから差し出された陶磁の茶碗を手に取ると、ゆっくりと飲み始めた。血流や自律神経を高める効果があるほうじ茶を飲んだからか、その少女はゆっくりと顔に血の気を戻していった。
ミコはその少女が落ち着きを取り戻したのを見て、さっそく本題に入ることにした。
「ええっと、まずそもそもだけど、君って名前は何なの?」
ミコがそう少女に問うと、少女は手に持っていた茶碗をテーブルに置き、正座をして向き直り、「先程は部屋に急に押しかけてしまってすみませんでした。」と頭を下げてからゆっくりと話し始めた。
「私は伊井野琴乃と申します。こちらの神社では、2ヶ月ほど前から巫女として修行をさせていただいており、住み込みで働かせていただいています。今後ともよろしくお願いします。」
その琴乃という少女は、正座をしたままミコに頭を下げた。
「いやあ、そんなに畏まらなくていいよ。たぶん年齢的には同じくらいだし、そんな気を遣わないでよ。」
畳に頭をつけるかのような勢いでお辞儀をする様子を見ながらミコがそう言うと、琴乃は頭を上げて滅相もないというように頭を横に振った。
「何をおっしゃいますか。ミコさんは、私たちのような見習いの巫女たちの憧れなんですよ。だって、ミコさんは15歳という若さで、うちの神社の中枢を担う総務事業課で働かれているんですから。」
琴乃はそう言うと、キラキラとした羨望の眼差しでミコを見つめた。
「いやあ、総務課なんて大したもんじゃないよ。ほとんどやってることは雑用みたいなもんだし。」
ミコが今働いているこの神社では、神主課、巫女課、総務事業課の主に3つの部署がある。
神主課や巫女課は、将来他の神社で神主や巫女となるためにうちの神社に修行に来た12歳から25歳くらいの青少年たちで、神社で働く80人ほどのうち、大半がこの部門に配属されている。
そして、それらの2つの部門を執り仕切るのがミコが所属している総務課である。現在、総務課には最年少のミコを含めた8人ほどが在籍しており、神社の境内の治安と風紀を守るほか、神主課と巫女課の80人ほどの面倒を見ている。
「それで、早速だけども琴乃ちゃんが見た人魂らしきものって、どんな感じだった?」
ミコは明日の朝も早いので、単刀直入に聞いてみた。
「そうですね。私が人魂を見たのは今日の夜の10時半くらいだったと思います。夜中にお腹が空いたので、ひとりでこっそり食堂の方に向かっていたら、食堂前の流し台で青い人魂のようなものを見たんです。」
琴乃は身振り手振りを加えながら、人魂の形や大きさなどを懸命に説明してくれようとした。
まあ、琴乃という少女が夜中にこっそり食堂で盗み食いをしようとしていたことは、神社内の風紀を正す総務課の一員であるミコにとっては見過ごせないことだが、とりあえずこの件は一旦不問にした。
なぜなら、ミコは最近、神社で起こる数々の騒動のせいで睡眠不足が続いており、今回のトラブルも早急に解決してしまいたかったからだ。
先週、神主課に属する20代の男子2人組が神社内でお酒を飲みすぎ、酔っ払って神社の備品を壊すという事件が起きた。その後、事件を起こした男子2人は神社の偉い人たちに厳しく叱られ、半年間の禁酒を命じられたらしい。
その騒動のせいで、ミコはここ最近ずっと寝不足が続いていた。
「つまり、琴乃ちゃんは昨日の夜、食堂前の流し台で青白い炎の塊を見たってことだね。うーーん、まあねぇ…、青い炎を出すってなると、人魂の正体はたぶんあれだと思うんだけどな…。」
ミコは独り言のように呟きながら、琴乃に向かって言った。
「よし、琴乃ちゃん。とりあえず、今からその食堂前の流し台まで一緒に行ってみよう。」
そうして、ミコは琴乃と一緒に人魂が出たという食堂前の流し台まで行くことにした。
夜遅くになると、ミコや琴乃をはじめとする神社の関係者たちが生活している社務所には明かりが完全に消えており、食堂まで続く一本道の廊下も真っ暗だった。
スタスタと歩くミコの後ろを、琴乃が腰を縮こませて遅れまいと、ミコのパジャマの袖を枯れ枝のような細い腕でがっしりと掴んだままついてくる。
(それにしても、臆病な琴乃はよくこんな暗い道をひとりで歩いて行ったな。いくら食堂で盗み食いするためとはいえ、食欲って本当に人をどうにかさせるんだな)
後ろでビクビク震えている琴乃に対してそんな風にあきれていると、食堂前の流し台に着いた。
「琴乃ちゃん、青白い炎の塊を見た場所って本当にここで合ってるんだよね?」
流し台周辺には、特に不審なものは見当たらなかった。あるとすれば、食堂の入り口に置いてあるアルコール消毒液くらいで、他には別に気になるものは置いていなかった。
(まあ、アルコール消毒液に火をつければ青白い炎を出すけどな。なんで、この騒動の犯人はアルコール消毒液を流し台で燃やそうとしたんだろうか)
ミコは、琴乃から食堂前の流し台で青白い人魂のようなものを見たという話を聞いた時、真っ先に人魂の正体はアルコール消毒液に何らかの方法で火がつき、青く燃えたことだろうと考えていた。
「なんで、流し台にアルコール消毒液を流して、そこに火をつけようなんて考えたんだ?結局、犯人の動機がわからないんだよな。」
ミコが顎に手を当て、ぶつぶつと呟きながら考えていると、横にいた琴乃が「ミコさん、早く部屋に戻りましょうよ。寝室から離れた食堂なんて、平日の夜に誰も来るはずないですし」と急かしてきた。
(琴乃ちゃん、お前がわざわざ私の部屋に押しかけてまでこの事件を解決しようとしてきたくせに、早く帰ろうなんてふざけんなよ)
琴乃に袖を引っ張られながら1人考えていると、ふと流し台の上に置かれていた金属製のうがい用のコップに目が止まった。
この金属製のコップは、流し台の上に20個ほど置かれており、食堂で食事をする神社の関係者たちがここで食事前にうがいをしている。
ミコは、その大量に置いてあるコップの中で1つ、メッキが剥がれた金属製のコップを見つけた。そのメッキが剥がれた金属製のコップを見つけた瞬間、ミコの中でこの事件に関する一つの仮説が浮かび上がった。
ミコは、食堂の前に置かれているアルコール消毒液と、流し台の上に置かれているメッキが剥がれた金属製のコップを交互に見比べた。
(そういえば、先週、神主課の男子2人組が酔っ払って暴れたせいで、あいつら半年間の禁酒をくらってくらってたよな。まさかな…。そんなバカなことしないよな、さすがに…。)
ミコは、自分の突拍子もない考えに一度はありえないと首を横に振ったが、念のため、この事件の当事者である琴乃に1つ質問をしてみることにした。
「琴乃ちゃん、もし覚えていたら何だけど、昨日の夜、食堂前の流し台で青く光る炎を見た時、その近くで何か匂いを嗅がなかったか?例えば、アルコールの匂いとか。」
(消毒液にはアルコール以外に不純物が多く含まれているから燃やすと刺激臭がするだよね)
ミコの問いかけに対して、琴乃は指先でこめかみを押さえながら必死に思い出そうとした。
「うーーん……。あっ、たしかにそうだった。昨日の夜、食堂に行った時、食堂までの廊下で突然ペンキみたいな鼻につく匂いがしてきた気がします。まあ、そのせいで食欲が無くなって、結局、食堂で盗み食いをすることはなくなったんですけどね。」
琴乃はそう言うと、照れくさそうに小さく笑った。
その言葉を聞いて、ミコの中で先ほどの仮説がより現実味を帯びたものへと変わった。
(やはりあいつら、アルコール消毒液を使ってお酒でも作ろうとしていたみたいだな)