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「ヴァレリー、あなたの承諾が欲しいの」


 伊庭祥子の声が、緊張感の満ちた空間に響いた。

 薄い青のライトに照らしだされた部屋には、キャビネットが並んでいる。

 下に行けば、さっきの書庫につくのだろうか。ヴァレリーはふと、場にそぐわないことを考えた。白河が代わりに「何の?」とたずねる。


「あのねえ、お嬢ちゃんの記憶をちょこっと、触らせて欲しいんだねえ。そのための承諾が欲しいんだよ。ぼくらね、第一級記憶操作技術者なんだね、実は」

「主任、機密をべらべら喋らないでください」


 祥子がテイラー主任をぎっとにらみつけたようだ。背中に感じる視線が痛い。


「いいじゃない。どうせ記憶、消しちゃうんだし」


 記憶を、消す? なんの?


 祥子は後ろから強烈なプレッシャーをかけてくる。逃れようもない状態で、ヴァレリーは初めて聞いた「第一級記憶操作技術者」という言葉をくりかえした。

 第一級記憶操作技術者という名は聞いたことがないが、消去屋と似たようなものだろう。消去屋は、政府に知られてはまずい記憶を消去する。年に一度の記憶情報検査をくぐりぬけるためだ。インサイド政府は国民の記憶情報をチェックし、日々の生活から適正を見出す。その適正によって、国民はあらゆる職業にふりわけられる。パイロット、諜報部員、研究者──父親、母親になるのでさえ、適正による審査が必要だ。記憶情報検査で反政府的な運動をした者、犯罪を犯した者を見つければ、容赦なく逮捕する。そこで消去屋が暗躍する。国家に知られてはまずい記憶を消去し、別の記憶を植えつけるのだ。


「その消去屋が、一体何の用?」

「消去屋! 楽しくない呼び方だなあ。もっとかっこよく、デリーターと呼んでよ」

「なんでその、デリーターのお世話にならなきゃいけないんですか」


 テイラー主任がようやく立ち上がる。動きがよろよろしている。諜報部員と言われても、にわかには信じられない。恰幅のいい体をよく見ればしっかりと筋肉がついているが、一見しただけでは、ただのさえない中間管理職だ。


「うんとね、だから」


 主任はマシンガンの先を振って、白河をヴァレリーの隣に移動させた。

 へたりこんだ白河の横に、ヴァレリーは腹を決めて座りこむ。


「ぼくらのことを忘れて欲しいんだよねえ」


 にこりと笑った主任を見ていて、ヴァレリーは気味が悪くなった。

 背後に感じていた重圧がふと、なくなった。祥子が銃を下げたらしい。


「ヴァレリー・モーリス。あなたは知りすぎたのよ。白河博士から聞いた記憶、アウトサイドの記憶……全部、消させてもらうわ」

「アウトサイドの記憶? そんなのほとんどないじゃない」

「アウトサイドの新型についての記憶よ」


 祥子の表情は変わらない。ヴァレリーは黙って、じっと二人のデリーターをにらんだ。


 新型の情報を消す?


 アウトサイドの新型機については、すでに報告済みだ。簡単な記録は伝わっているだろうが、インサイド政府は詳しい情報を欲しがって、ヴァレリーの記憶を探るだろう。敵の情報を欲しがらないわけはない。しかし、新型の情報を削除して得をするのは誰だ。


「あなたの承諾を得られなかったら、頭の中に直接自滅プログラムを送信することになる。不自由な生か、潔い死か──好きな方を選んでちょうだい」

「そんなの即答できるわ。この若さで死にたくないもの」


 生きていた方がいいに決まっている。それは、迷うことなく選ぶことができる。放っておいても一年前の晩ご飯のメニューなんて忘れてしまうのだから、命の方が大切だ。

 しかし二人は先ほど、白河の父の関係者だと言った。

 白河の母はインサイド総督のはずだ。だとすれば、政府の記憶検査対策をする必要などない。


 ……もしかして、白河のお父さんはアウトサイドの関係者なの? 親子喧嘩の次は夫婦喧嘩?


「そう……よかった。軍を辞めて大人しくしていてね。でないと、退役工作をした意味がないから」


 ヴァレリー・モーリスは来月退役予定になっている……そう言ったのは白河だ。今日は色々なことが一度にありすぎて、忘れてしまいそうになるが、確かに彼はそう言った。

 どうやらこのまま軍を辞めさせられるらしい。きっと、自ら望んで退役したという記憶を新しく植えつけられるのだろう。


「説明する義務が、祥子さんにはあるよね?」


 祥子は背の低いキャビネットの上に座って、ふと笑った。


「私も小細工は好きじゃない。でもね、決して秘密を外にもらすなというのが、ボスの遺言なの」


 だから彼らは、どんな些細なことでも、アウトサイドに関わる記憶は消去するのだろう──。


「そんなことして、気付かれないの」

「帳尻はこちらであわせるわ。大丈夫。あなたの記憶も、地下倉庫に置かれるだけよ」


 青い光の中に無数に浮かんだ四角い棚を思い出した。ぎっしりと本の詰まった棚には、人々のアウトサイドについての膨大な記憶が眠っている。記憶の持ち主から抜き取られ、忘れ去られた後もずっと倉庫に置かれている。


 いやだ。


 ヴァレリーの胸に苦い感情が湧き上がる。己がクローンだと告げられた日のことが蘇った。


『クローン技術で全ての脳内情報をコピーするには、膨大な手間と時間と金が要る』

『だから人口操作のためのクローンは、記憶までは継承しない』

『記憶を全て消して、同じ遺伝子情報を持った子を育てるのさ。だからこの国の人口は一定なんだ』


 養育施設にいる育ての父にその話を聞くまで、ヴァレリーは自分がクローン人間ではなく、数少ない人間なのだと思っていた。

 ヴァレリー・モーリスが死んだら、まったく同じ遺伝子情報をもった新しいヴァレリー・モーリスが作られる。そうしてインサイドという国は維持される。

 延々とコピーが作られていく中で、自分とそうでないものの区別がつけられなくなる。かつてのヴァレリー・モーリスと、今ここにいるヴァレリー・モーリスの区別など、きっと誰にもつかない。

 区別がつけられるとしたら、記憶だ。

 じゃあ記憶をなくすのは、死ぬのと同じことじゃないか。自分の中から切り離された記憶は、倉庫に眠る本になる。記憶は誰にも思い出されることのないものとなり、自分はかつて体験したことを失くしたまま生きることになる。


 ──いやだ。


 唇を噛む。今からでも遅くないだろうか。祥子はすでに銃を下げている。抵抗しようと間合いを計るが、先ほど床に落とした銃は、ごていねいに遠くまで投げられていた。祥子かテイラー主任から銃を奪うしかない。

 そんなヴァレリーの様子を見たハゲタカは、にっと黄ばんだ歯を見せて笑った。見透かされている。銃を狙って動きだせば、すぐに蜂の巣にされるだろう。


「白河家のこと、話した方がいいかなあ。海くんも聞きたい?」


 主任の言葉に促されるようにして、白河の様子を伺う。

 先ほどまで挙動不審だった白河は、意外にも落ち着いていた。


「親父は死んだ。オレと同じで、出来損ないだったから」


 白河の言葉に、ふふん、と主任が鼻を鳴らす。


「海くん、それはちがう。君のお父さんは偉大な研究者だった」


 主任の言葉の最中も銃を奪う好機をうかがうが、隙がない。殺気が四方八方へ飛んでいた。わずかな隙を見つけて踏み込んでも、勝ち目はなさそうだ。


「アウトサイドに人間は住めないというけれど、なんだかんだ維持されているのはなぜだと思う? 君のお父さんが天才的なひらめきをもつ研究者だったからだ。現在アウトサイドで使われているシステムを作ったのは、白河空、その人だ。あんな形で亡くなってしまったのが残念だよ」


 中年男はすっと目を細くする。先ほどまでのへらへら笑いは消えている。ひどく真面目な口調だった。心の底から白河空の死を悼んでいるようだった。


「あんな形って?」

「実験に失敗して、全身汚染された状態で死んだんだ。一度汚染された細胞を使ってクローニングしても、汚染された肉体しか再現できない。だから、親父のことはあきらめるしかなかった」


 ヴァレリーの問いに白河は淡々と答えた。

 薄く青い光が天井から降り注いで、水の中にいるようだ。こちらに向けられたテイラー主任の銃さえなければ居心地はいいのかもしれない。

 アウトサイドのことを知りたいとは思っていた。でもこれは──知らなくてもいいことだ。

 遠い世界の出来事を、主任と白河が話しているのに過ぎない。


「そう。それも陰謀だよ。空さんほどの人の細胞だ。研究所に置いておかないわけがない。総督の意向で、空さんは見殺しにされたんだ。インサイドを裏切ったと疑われて。そして白河陸が、空さんの遺志を継いだ」


 ヴァレリーはちらりと白河を盗み見る。その表情はまったく変わっていなかった。

 家族の話なのに、表情一つ変えない。


「これで親父も、オレの手が届かない、遠い存在になったんだな。ちょっと親近感持ってたんだけど」


 少し垂れ下がった眼が、静かに瞬きをしているだけだ。

 呼吸のように静かに吐き出される言葉を、ヴァレリーは渋い気持ちで見守った。


「オレは出来損ないです。だから家族の話を聞いても、雲の上の人たちの話にしか思えません。あなたたちの目的にも興味がない。ただ、ヴァレリー・モーリスはオレの友人です」


 友人と言われた瞬間、ヴァレリーは、白河が本来ここに来る必要がないことに気付いた。

 退役予定の話なんて、白河は黙っていればよかったんだ。そうすれば、彼は巻き込まれなかった。

 申し訳なくて、ヴァレリーは思わず背を丸める。近接戦闘においては戦力にならないけれど、こんなおおごとに関わらせてしまったのは、自分の責任だ。


「イバさんと言いましたっけ? オレの記憶は消去しないんですか」

「ええ、あなたは記憶検査から除外されているから」


 白河は不思議と笑っているように見えた。


「隼」


 白河が自分を呼んだのだということに気付くまで、少し時間がかかった。


「な、なに?」

「お前の記憶はオレが保管する。オレに任せろ」


 ついさっきまでパンツ見えてたくせに、というのは黙っておいた。猫背なくせに、というのも、ちっとも役に立たないくせに、というのも黙っておいた。


「エロサイダー、私のスリーサイズとか、見ないでね」

「それくらいは保管料だと思え」

「大丈夫。ヴァレリー・モーリスから抜き出すのはアウトサイドの情報だけだから」


 祥子の声に、ヴァレリーは思わず肩をすくめる。


 わかってない。軽口を叩くのは、それが白河とのあいさつだからだ。「お願い」だなんて照れくさい。


「ま、ちょっと一部の特権階級になった気持ちで、お前の記憶、預かっとくから」


 じゃあ行こうか、と立ち上がったテイラー主任の後を、ヴァレリーは追う。主任がボタンを押すと、壁が左右に開いた。エレベーターらしい。ヴァレリーは手袋をしていない右手をひらひらさせて、手術室へとつづくエレベーターに乗り込んだ。


「隼、死ぬなよ」

「待望の専用機に乗るまでは、死んでも死にきれないね」


 いつか、これと似たようなやりとりをした。記憶はヴァレリーの中にある。


 ……でも手術が終わっても同じでいられる?


 隼と呼ばれる少女は不安を打ち消して、友人に笑顔で手をふった。目の前で、重い扉が閉じていった。

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