1-7
色気も何もない灰色の階段を駆けあがって、白河は足を止めた。こんな踊り場の真ん中になにがあるのかと、ヴァレリーは首をかしげる。
「なによ、まさかこんなとこに」
観葉植物の長い葉をくぐって、白河が指差した穴に、ヴァレリーはようやく気づいた。普段の生活では絶対に気づかないほど小さな穴が開いていた。
白河が白衣のポケットから端末を取り出し、コードをつなぐ。
「えっ、なんなの?」
ヴァレリーは驚きの声をあげたが、返事はない。端末の上ではすさまじいスピードで、白河の指が踊っていた。画面を横からのぞきこんで、ヴァレリーは目をまわした。
「何これ、こんな早く流れていく情報を、いちいち読んでるわけ?」
「読んでるよ、全部」
ようやく返ってきたのは実にそっけない声だった。恐らく集中しているのだろう。
ヴァレリーは研究者など運動音痴なのにちがいないと思い込んでいた。しかしこれは考えを改める必要がある。もしかして、動体視力がずば抜けて高いのかもしれない。
ヴァレリーも敵機を見極めるスピードには自信がある。しかし文字の内容を瞬時に理解するような真似はできなかった。
白河の指がキーボードの上で静かに止まる。
灰色の壁がほのかに色を変える。薄い青になった。照明の色らしい。
目を凝らして見ると、壁の模様に混じって、四角い棚が並んでいるのが見える。棚の中には本があるようだから、本棚なのだろう。ずいぶん前時代的なものがある。紙製の本を読むことは、今や裕福な好事家だけに許された趣味となってしまった。資源の節約が徹底的に叫ばれた二十二世紀に紙媒体のものはほとんどなくなった。一時期は電子文庫という、情報の入ったディスクを売る形式の読書も流行ったが、購入の手間からか、すぐに廃れた。現在は手持ちの端末を図書館につなぐだけで、国が一括買い上げした本が読める。
「行くぞ」
白河は壁からコードを引き抜くと、階段をのぼる。
「ちょっと、どこに……」
「本丸は上。今のでロック解除できたはずだ」
「ホンマル?」
「あー、本拠地で一番えらいボスのいるところって意味」
「一番えらいボスですって?」
白衣のすそをひらめかせて階段を上がっていく白河を、ヴァレリーは眉を寄せたまま追った。
本当に到着できるんでしょうね?
特務課に所属する自分でさえ、場所を知らない。一番えらいボスが誰なのかすら知らない。資料や命令などの情報はヴァレリーの端末に送信されてくるが、呼び出されることはない。命令といってもまだ待機命令くらいしか出ていないが、それでも人と接触する機会は極端に少ない部署のようだ。
次の踊り場に出たところで、急に足を止めた白河の背中にぶつかった。
「……ついたの?」
喉元で非難の言葉を飲みこんで、ヴァレリーは問いかけた。
踊り場の角、灰色の壁に白河が確かめるように手を触れ、左のこぶしで軽く叩く。壁の一部が落ちた。
ヴァレリーは先ほどまで壁だった板を拾う。手の中におさまるサイズだった。小さい。
「……なにこれ」
「まあ、見てろ」
壁に目を戻すと、小さな穴が現れていた。白河がその穴に指をかけて、横にスライドする。
扉が開いた。
「うそ……こんなとこに入り口があったの?」
なかは先ほど下の階で見た色と同じ、薄い青の光で満ちていた。入室してすぐに扉が閉まる。
「オレにかかればこんなもんだね」
「ねえ、一番えらいっていうのは誰……」
問いかけて、ヴァレリーはつづきを飲みこんだ。銃を構える。こちらを向いた白河のうしろから、確かな殺気が発せられている。急に銃を構えたヴァレリーに、友人は困惑していた。
「ヴァレリー、いきなりなんなんだよ」
「前言撤回。さっきちょっと研究者の運動神経を見直したんだけど、やっぱり鈍いわね」
殺気に照準をあわせたまま、白河の横にまわりこむと、殺気の正体は丸めた肩を揺らして笑った。腰のあたりにはサブマシンガンが構えられている。
まずい。
視認してすぐに、安全装置は解除してある。距離をつめたが、敵は撃ってこなかった。
姿勢が悪く前かがみなこともあって、中年男の頭頂部がよく見えた。
「いや、参ったなあ。隼のお嬢ちゃん」
中年男は、先ほど殺気をはなっていたのも忘れたように、へらへらと笑ってみせた。
「ややっ、そこにいるのは白河君。だからここを嗅ぎつけられたんだねえ。さすがだねえ」
どこかで会ったことがある?
その顔に見覚えがある気がして、ヴァレリーは思考をめぐらす。
誰だっけ? 思い出せない。……でも、ハゲタカに似てる。
ふとひらめいた答えは、目の前の光景と重なって、ヴァレリーの笑いのツボをくすぐった。そんなバカなことを考えている場合ではない。懸命に打ち消すがどうにも我慢できず、くっ、と口から声がもれた。手がふるえた。
ハゲタカの銃は、構えられたままぴくりとも動かない。人を油断させたところを狙うつもりなのだろうか。
大きく息をついて、ヴァレリーは銃を構えなおした。笑っている場合ではない。
「ぼくね、アーネスト・テイラー。主任ね。お嬢ちゃんの上官にもあたるよ。お嬢ちゃんはさっきからぼくの頭ばかり見ているねえ。まあ、気になるのも仕方ないよね。いまどき、みんな育毛なり植毛なりするものねえ。でも普段はちゃんとカツラをかぶっているんだよ。今日は突然のお客さんだったもんで、油断してたんだね。髪の具合は覚えなくていいから、名前と顔を覚えてくれよ。アーネスト・テイラー。いい? 覚えた?」
このおじさん、なんて自虐的な自己紹介をするの!
歯を食いしばって笑いをこらえる。テイラー主任はサブマシンガンを下ろしていない。
「一度食堂でも会ったことあるよねえ。ほら、イバ君と一緒にごはん食べてた、さえない中間管理職だよ。思い出した? カツラかぶってないからわかんないかな。あ、なんでカツラなんて使ってるのかって思ったでしょう。ぼくねえ、自然体が好きなんだねえ。だからこうやって、いつでも着脱できるカツラをかぶっているんだよ。いいでしょう、自然体。本当なら裸で暮らしたいくらい。気温も湿度も管理されてるのに、どうしてみんな服を着るんだろうねえ。ヌーディスト要塞なんて、そこにいる白河・アンヂュジェイ・海研究員も、大喜びで賛成してくれそうだけど」
ああ、また馬鹿が一匹増えた。これ以上この人に口を開かせちゃダメだ。
思わず頭を抱えたくなって、隣にいる、言いにくい名前の男に助けを求めようとする。
目を見開いて、おろおろしていた。挙動不審だ。
「何よ、アンズデッ……今さらびびってるんじゃないでしょうね?」
「今呼びなれなくて舌噛んだな」
「いいから質問に答えてよっ。シラヂュッ……」
「混ぜるなよ!」
白河が言葉をにごすのを、テイラー主任はさわやかな笑顔で見守っている。
「やっぱりねえ、人間、自然体が一番だよねえ」
「まさか白河、ヌーディスト要塞に賛成なの?」
「違うわ! オレはチラリズム派!」
白河が叫んだ次の瞬間、ヴァレリーの頭の後ろでかちっと硬い音がする。体中の毛穴からふきだした冷や汗が、背中をつたっていく。
「ごめんなさいね」
テイラー主任が「やあ、イバ君」と、にこやかに片手をあげてみせた。
後ろを見ることはできなかったが、祥子が銃を構えて立っているのだろう。
なんとかこの場をきりぬけられないだろうか。
白衣の男に目をやる。白河はいまだ混乱のなかにあるらしく、落ち着きがなかった。
なんて使えない奴。隙をついて主任のマシンガン奪うくらいしてくれたっていいじゃない。
「白河君、どうして君の秘密の名前を知ってるか、聞きたいんでしょ」
主任が立ち上がって、白河に近づく。絶体絶命だ。
「ぼくらねえ、君のお父さんの関係者なのね。お母さんじゃなくって、お父さんの方。白河空さんね」
白河の父親?
母親がインサイド初代総督イトカだということは聞いた。父親のことは、見せてもらった記憶情報には特に書かれていなかった。
一般人じゃ、ないの?
おろおろしたままの白衣の男に、ハゲタカは銃を突きつける。
ああ、もう、動くのやめて、さっさと両手を上げなさいよ!
じれったくなって思わず前に出て行こうとしたヴァレリーの後頭部に、固いものが当たった。後ろには祥子がいるのだ。動けない。
「銃を捨てて」
ヴァレリーは素直に銃を捨てて、両手をあげた。それを見て、白河もようやく両手をあげた。
ごくりとつばを飲む。
本当に所属しているかどうか、もし退職することになっているのならその理由を確かめに来ただけなのに。
好奇心で関わってしまった己を呪った。
「私をだましたの?」
「だました……のかもね」
背後にいる祥子の姿はもちろん見えず、いつかのような影のある声だけが聞こえた。