4-6
ペンキで塗られたオレンジ色の足型に乗ると、金属製の床がうなりを上げて、足場の下のギアが回転をはじめる。
ヴァレリーは空を見上げ、何度目かのため息をついた。頭上には人工の空が広がっていて、自然を装った雨が降り、風も吹く。整備された区画とは違って空気は若干淀んでいるような気がした。
ほこりまみれの風がテロリストたちの髪を揺らす。
商業施設を抜けてから、誰一人として口を開かない。
内側に二つの人格を抱える科学者は片眉をつりあげたまま唇をひん曲げているし、ワルターは苦々しい顔をしている。伊庭祥子は無表情のまま淡々と己の役目をこなし、ヴァレリーは唇を噛む。
フェシスのことを考えるたび、ヴァレリーは空を見上げて喉にこみあげる苦さを押し殺す。思わず震えそうになる肩に力をこめた。
──フェスを起こしに行かなきゃ。
ヴァレリーは足を一歩ずつ前に進ませる。戦場で泣いている暇などない。そんな時間があるのなら、目覚めを待つ友人、フェシスを迎えに行った方がいくらか建設的だ。そうやって自分を叱咤鼓舞するのに、走り疲れた脚は悲鳴をあげて引きつる。
「強情なのもほどほどにしたら」
問答無用でワルターの腕がヴァレリーの腰に絡む。両脇に人間を抱えて走り出したワルターに下ろしてと言うこともできず、ヴァレリーはうつむいた。いくら軍人として鍛えているといっても、人間の身体には限界が来ていた。みっともなく地面に座り込むようなことはないけれども、気力でかろうじて前に進んでいるような状態だった。
「ごめん」
聞こえるか聞こえないかの大きさで言ったつもりだったのに、ワルターは耳ざとく聞きつけて「こういうときはありがとうって言うんじゃないの」とぶっきらぼうに言った。
もう何度、ワルターに助けられて礼を言ったかわからない。何度も感謝するのは条件反射で言っているようで逆に申し訳ない。黙っていると「やっぱり強情だ」とワルターがつぶやいた。ヴァレリーはワルターの声が聞こえなかったふりをする。
どれくらい時間が経っただろう。祥子とワルターが足を止めたのに気付いて、顔を上げた。
「白河糸花が来ます」
伊庭祥子が索敵結果を告げる。ヴァレリーは自分の足で降り立って、白河糸花と対峙した。
「ねえ、レイリーちゃん」
ふわふわと踊るような足取りのまま、糸花が背負っていたメイジスを地面に横たえる。重量があるはずのメイジスをいともたやすく背負って来たことに驚いて、ヴァレリーは身構えた。人工筋肉の賜物だろう。
「メイくんが動かないの。見てあげて」
ワルターに抱えられたままになっていた白河空が耳障りな笑い声をあげる。
「どうやら勝負は決まったようだ。今回もインサイドの勝利だ。私がメイジスを再起動させれば、アウトサイドは負ける」
苦々しい顔つきになったワルターが腕を放して、白河空が床にぶつかった。
「先ほどから思っていたが、私の扱いが雑だろう! 私はアウトサイド、インサイド両国が奪い合うような宝だぞ! 偵察機ごときがやすやすと触れていいものではない。スクラップにしてやろうか!」
地上に戻る間、白河空の罵詈雑言に慣れたロボットとクローン人間は、すっかり聞き流している。
糸花がゆっくりと近付いてくるのに身構える。彼女が膝をついて白河空に視線を合わせた次の瞬間、乾いた音が響き渡った。
「白河博士!」
白河空が小さく宙を舞い、回転し、落下し、転がっていく。何が起きたのか理解できずに、ヴァレリーは思わず「えっ」と声をあげ、祥子は白河に駆け寄った。
「海くん、私はあなたをそんな口の悪い子に育てた覚えはありませんよ。めっ」
いくら人工筋肉が大きな力を発揮するといっても、軽く頬を打っただけであれほど人間が吹き飛ぶものだろうか。
「えっ、こっわ……人工筋肉こっわ。えっ、何? 特別製?」
「メイジスが白河糸花に用意したものだから、おそらくは」
人工筋肉の力を見たのは、今回が初めてではない。やっぱりお偉いさんは最先端のものに触れる機会があるんだなと、ヴァレリーは一人納得する。あのメイジスならば当然糸花に高性能、高出力の人工筋肉を装着させるだろう。
「メイくんもフェスちゃんも、みんな仲良く。ねっ」
糸花はにこやかに笑っている。ひとかけらの悪意もないのが、かえって恐ろしい。間を置いてゆっくりと起き上がった白河空の顔は変形していた。
「糸花、私は白河空だ。君の夫……」
「海くん! 大変! 鼻血が出てるじゃない! どうしたの、どこかにぶつけたの?」
「人の話を聞……」
「上を向いて! たしか鼻血は、首の後ろに手刀を入れればいいのよね?」
右手で手刀を作って構える糸花を、ヴァレリーは目いっぱい制止した。
「さすがにこれ以上はやめてあげて! 白河の身体が死んじゃうから!」
「鼻血を手刀で止めるのはかなり古い方法。余計悪くなるから、今は使わない。下を向かせた方がいい」
「そうなの? ありがとう、眼鏡をかけたメイくん」
ワルターはメイジスの偵察機だけあって、白河糸花の扱いを心得ているらしい。
インサイドの基幹システムであるメイジスは白河糸花を壊れていると評したが、極端に場の空気を読まないところだろうかとヴァレリーは絶句する。
「違う。これは元々の彼女の性質」
言葉にしなかったのに、顔に出ていたのかもしれない。ヴァレリーは自分の顔にぺたぺたと手を貼り付けて表情を確認してから、「そっか」と複雑な思いで白河糸花を見つめた。
膝の上に白河の頭を乗せて鼻血が止まるのを待っている糸花は、インサイド総督というより、子を案じる母親だった。
「海くん、血は止まった?」
「止まった」
白河空は、自分が白河海でないことをもう主張しなかった。まぶたを閉じて大きなため息をつく白河空の額を、糸花がなでる。
糸花の眼差しは母親として、白河海に向けたものだ。ヴァレリーは白河空のことを決して好きにはなれないが、妻に欠片も思い出してもらえないのはさすがに寂しいだろうなと、わずかに目を伏せた。
「昔ね、空さんともこうして話したことがあったわ。あの人の話は難しくて、ちっともわからないのよ。ひねくれているし、気難しいし、すぐいばるの。あの人はね、子供みたいな人だから、楽しいことがあるとそっちに没頭しちゃう。ちっとも家に帰ってこないんだから、研究が楽しかったんでしょう」
白河空は糸花の膝の上で、ふと小さく笑った。
「もっと帰ってくればよかったと思う?」
ヴァレリーには、白河空が白河海としての言葉を選んでいるように思えた。長い付き合いではないが、白河空の口調ではなかったからだ。
「いいえ。だって私、あの人が好きなことをしているのを見ているのが好きなんだもの。あら、これは惚気ねえ」
うふふと笑う白河糸花を見ていると、ヴァレリーにもメイジスが言った「壊れている」という言葉の意味がじわじわと理解できてきた。
白河糸花は何百年と生きるうちに、幸せな記憶の中で時間を止めてしまったのだろう。
技術が進歩して人の寿命が延びても、長い時間を生きることに、人の心は耐えられない。
何世紀も前、高齢による認知症の特効薬は何年経ってもできず、かろうじてできたのが、進行を遅らせる薬だったとヴァレリーは習った。そのうち人類は別の解決法を見出した。それがクローン人間だ。人間もクローンもロボットもそれぞれに一長一短で、欠点を持ち合わせている。
長い時間を生きたとき、自分だったらどうなっただろう、とヴァレリーは思案する。戦闘機に乗っている以上、そうなる前に死んでしまうような気がする。
「陸のことも気にかけてやれって。父さんが」
「陸くんはね、空さんに似ているから、私が手伝おうとすると怒るわ。きっと自分の楽しいことを奪われてしまうようでいやなのね。自立心が強い子なのよ」
「君の愛情は伝わらない」
「空さんみたいなことを言うのね。空さんは愛情が嫌いな人だから、とにかくそういう意地悪を言うのよ。本当は家族のことが大好きなくせに」
わずかに唇をとがらせて一度すねてみせた後に、白河糸花は微笑んだ。
「伝えたくてやっているわけじゃないからいいのよ。私がそうしたいだけ」
それよりも、と言葉を区切って、糸花は肩にかけていたショールを白河の身体にかける。
「海くん、少しおやすみなさい」
「おやすみ。母さん」
直視するのも申し訳なくなって、ヴァレリーは目をそらす。ワルターが真剣に見入っているのに気が付いた。
「うらやましい?」
小声で尋ねると、首をかしげて「うーん」と考え込んでいる。
「……不思議、かな。ロボットには開発者しかいないから」
「そっか。インサイドも生みの親と育ての親が違うから、不思議な感じがする。私もクローンだしさ」
白河が眠るのを見届けた後、糸花はそっと白河海の頭を膝から降ろすと「レイリーちゃん」とヴァレリーに呼びかけた。
「メイくんのこと、お願いしてもいい?」
「あー、いや。私はそういうのが得意じゃなくて」
ヴァレリーのオリジナルであるレイリー・モーリスがメイジスを開発したからといって、今現在のヴァレリーには再起動できる気がしない。インサイドの基幹システムともなれば当然複雑だろう。
しどろもどろになりながらどう説明するか悩んでいるヴァレリーに、糸花は「ごめんなさい。レイリーちゃんじゃないのね」と悲しげに眉を寄せた。
「今は何年? 私はどんな顔になっているの?」
総督の代替わりのたびに、顔のパーツを交換していると以前白河から聞いたことを思い出す。
祥子が小さな鏡を差し出すと「ありがとう」と糸花が受け取った。じっと鏡に見入ってから「知らない顔だわ」とつぶやく。
「私、誰なのかしら。鏡を見るとわからなくなるの。だからメイくんが、私の部屋から鏡をすべて撤去してしまった」
ぽつりと感情なくこぼれた糸花の言葉に、ヴァレリーは息をのんだ。
「私は本当に、白河糸花なのかしら。記憶を受け付けられた誰かだったりしないかしら。私の感情は、本当に私の感情なのかしら」
白河糸花の口元は微笑したままだ。見開かれた目からは感情が消えて、空色の瞳が渦を描いているような気さえする。
空に飲み込まれるようだ、とヴァレリーは思う。
どれほど優れたパイロットでも、空間認識を失って天地がわからなくなることがある。恐怖心から計器の指し示す値を信じ切れず、空に墜落していくのだ。
幸いヴァレリーにはその経験がほとんどないが、そうなった僚機に呼びかけつづけた経験はある。
「あなたは白河糸花。インサイド総督です。白河空の妻であり、白河海と白河陸の母親です。気をたしかに」
毅然とした祥子の言葉に、白河糸花は首を傾けて思案した。
「そうね。それが私を私たらしめている」
だから白河糸花は幸せな記憶の中で時間を止めてしまったのだ、とヴァレリーは得心がいった。
メイジスが白河糸花をことさら案じ、スリープ状態に陥ってまで外界から守ろうとした理由にも。
糸花の不安定さと連動するように、ドーム内の外壁がガラガラと大きな音をたてて崩れ落ちていく。
「ああ、海くんが起きてしまう」
場違いなほどのどかな声に、白河糸花という人はどこまでいっても母親なのだ、とヴァレリーは再認識する。
剥落した壁の下にあった配管が大きな音をたてて曲がる。吹き出した水が基盤にかかって、稲妻がちりちりと飛んだ。
ボーダー要塞まであと少しでたどり着けるのに、我を忘れた状態の白河糸花に話が通じるだろうか、とヴァレリーは危惧した。
彼女を正気にかろうじて繋ぎとめているのは、母親であるという自覚のようにヴァレリーには思えた。
「白河糸花。あなたが望んだのは、どんな世界ですか」
臆することなく声をかけたのは伊庭祥子だった。
「誰もが平等で、誰もが幸福で、安定した、穏やかな世界ではないのですか。あなたが不安定になると、インサイドの生命維持システムにノイズが発生します」
「そうね。フェスちゃんの言う通りね。空さんもレイリーちゃんも、みんな理想を持っていた」
アウトサイドの基幹システム・フェシスと、その偵察機である伊庭祥子は容姿が似ている。糸花にとって、伊庭祥子はフェシスでしかない。
「空さんはへそ曲がりだから理解されにくいけれど、悲しいことをなくそうとしたの。あの人は優しい人よ。悲しいニュースを自分のことのように受け取って、胸を痛めて、どうすればいいかをずっと考えていた。その答えが、今のインサイドの在り方」
ワルターに抱えられてわめいていた白河陸の姿をヴァレリーは思い出す。恋は盲目というが、まさにこのことではないだろうか。
記憶も出生も教育も職業も……まさにゆりかごから墓場まで管理されているインサイドの社会構造に人間の意思が介在するのか、甚だ疑問が残る。管理されているがゆえに避けられた悲劇はたしかにあるだろう。しかしそれが人間らしい暮らしと言えるのだろうか。
「レイリーちゃんは楽しいことを増やそうとした。ロボットにも、人間と同じように喜んだり悲しんだりする感情を持ってほしい、とかね。破天荒だったわ、あの子。『宇宙人が攻めてきたら困る』なんて理由で戦闘機まで作っていたけれど、全然深刻そうじゃないの。ロマンとか言って目を輝かせてたくらい。よくわからないものばかり行き当たりばったりで開発するけれど、不思議と後から役に立ったりするの」
ワルターがその通りだというように小さくうなずいた。ヴァレリーは、クローン人間である自分のオリジナルがどのような人間だったのか、積極的に知ろうとはしてこなかった。
否応なしに足跡を知らされる機会があるのだから、わざわざ自分から影を追う必要はない。
ワルターの視線が自分に向いていることに気付いて、似ているのだろうな、とヴァレリーは頭をかいた。以前は嫌だったが、今はうんざりするのとも、気恥ずかしいのとも少し違う。単純にばつが悪い。
「私には開発者として、あの人たちと並び立つような能力も高い理想もなかった。穏やかで優しい暮らしがつづけばいいとは思っていたけれど。空さんには幼稚だと笑われたわ。でも子供の頃に内乱を経験した私にとって、穏やかな日常こそが特別なものだった。子供たちと遊んで笑ったり、美味しいものを食べたことを日記に書いたり、次はこんなものを作ってみたいって、実際に作る能力やあてがなくても空想したり。きっとみんなにとっては当たり前のことなんでしょう。でもみんなが手にしている当たり前のものを、私は持っていなかった」
わからないわよね、みんなにとっては当たり前のことだったんですもの、と糸花は目を伏せて微笑する。
「ようやくそれを手に入れたとき、よりによって空さんが、穏やかな日常を壊してしまった。悲しい行き違いよ。空さんは愛情があるから争いが生まれるなんて露悪的なことを言うけれど、人や社会を愛していた。だから社会全体が幸せになればいいと願っていた。それを願うのは統治者である責任だと言っていた。私はただ、家族が幸せであることを願っていた。そんなに大きくは変わらないはずなのにね」
ドーム内の電灯が揺らいで、大きな音をたてて灯りが消える。暗がりの中でも、糸花の目がせわしなく動いているのが見えた。話すことをためらっているのだろう。
「空さんが事故に遭ったとき、汚染を防ぐ隔壁を動かすボタンを押すのを一瞬だけ躊躇したの。ためらわなければ、あの人は助かったかもしれない。でも子供たちをクローン人間やサイボーグにしてしまったあの人がいたら、今後家族が穏やかに暮らせるかどうかわからない。そんなふうに考えた。家族の幸せを願っていたはずなのに、いつの間にか私の考える家族の中から、あの人がいなくなっていたの。あの人が子供たちに向けた愛情が、長く生きられるようにという親心が、私には歪んだものにしか見えなくなってしまったから」
私は偽善者よ、あの人を信じ切ることができなかったから、と糸花が悲しそうに笑う。
煤けた世界でとつとつと話す糸花に、ヴァレリーはあっけらかんと言う。
「いいんじゃない? 私なら、白河父をぶん殴ってる。なんで家族に相談もなく、話を勝手に進めるんだ、って」
隣でワルターが吹き出した。君ならそうするだろうな、という気配を読み取って、ヴァレリーは苦々しい視線を送る。
「私たち家族は統治者として選ばれたんだ、光栄なことだって言う人もいたわ。でも私には、そうは思えなかった」
「人間はそれぞれ考えることが違うから、そういうこともあるんじゃない?」
適当な応答ばかりするヴァレリーに笑いをこらえきれなくなったワルターが肩を震わせる。ヴァレリーは「ええい」と赤い髪の偵察機の肩をはたいた。
「空さんはね、家族のことを考えてくれてはいた。守ろうとしてくれていた。方法が違っただけ。恨む気持ちはあるわ。でも笑ったり泣いたりして私たちが過ごした時間も、変わりなく存在している」
「それでいいんじゃない」
「長い昔話を聞かせてしまってごめんなさい。聞いてくれてありがとう。……あなたのお名前は?」
そういえば伝えていなかったな、とヴァレリーはまばたきをくりかえして、にっこりと笑ってみせた。ピースサインをしてから、自分には似合わないポーズだな、と苦笑した。
「ヴァレリー・モーリス」




