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視界が一瞬途切れて、身体の感覚が宙に放り出される。次の瞬間、ヴァレリーの目に映ったのは薄い青の世界に並ぶ本棚の群れとハゲタカだった。
急激な変化についていけない。たった今、白河海が連行されたのを追体験したばかりだ。青い世界はそんなヴァレリーを静かに迎え入れた。やわらかな青い光が世界を包む。水の底はこんな感覚だろうか。波間に射す光が床に踊っていないかと確かめて苦笑する。そんなはずはない。
「イバ君、メイジスのやり口は知ってるよね?」
騒いでいたヴァレリーの心が完全に落ち着く前に、ハゲタカはにこにこと笑顔で話しかけてきた。ヴァレリーはようやくさえない男の名前を思い出した。アーネスト・テイラー。第一級記憶操作技術者だ。
「メイジスは白河海の直接のアクセス権を持ってない。イトカさんが接続を認めなかったからね。だからメイジスは白河海のまわりの人間の記憶をのぞいて、リミッターの状態を調べてるわけ。……さて、ここで僕らの出番だ。わかる?」
ヴァレリーは新しくもたらされた情報に無関心な自分に気付いた。気持ちを整理する時間を与えられた祥子は、すでに前を向いている。新たな白河海が生まれたのを確認したとき、祥子はどれほど深く悲しんだだろう。涙を流すことのできないロボットはひたすら己の能力を悔いたに違いない。いずれ来る破綻を知りながら、備えるよりも幸せな時間を送ることを選んでしまった自分を呪ったのに違いない。ボーダー要塞ではじめて話しかけたときの影のある表情を思い出す。もう死んでるから――そう言った祥子の心をそのまま知ることはできない。けれどもヴァレリーには、わかるような気がする。
──祥子さんは、そう簡単に諦めるような人じゃない。
彼女が何を考えているのか、何をしようとしているのか。それはきっと、これからの白河海のための何かだろう。
「リミッターの状態が伝わらなければ、メイジスは白河海の様子を知ることができない。ならば私たちにできるのは……周囲の人間の記憶操作でしょうね」
ファウストの操縦桿を握ったときのように心が落ち着いていく。目標が決まれば進むだけだ。感情の嵐に飲まれるのは後でいい。今は戦わなくてはならない。
きっと、祥子さんも同じだよね?
一度は裏切られた。けれどもアウトサイドに亡命して真実を知った今のヴァレリーにとって、祥子は明確な敵ではなくなってしまった。
「ご名答。さすがイバ君」
テイラー主任の間延びした声は誰かを思わせた。主任は薄くなった頭の上もあらわに鼻歌を歌いながら、カツラにブラシをかけている。
「イトカさんにとって、海君は特別なんだねぇ。こんなこと言うといまどき笑われるかもしれないけど、イトカさんは母親として海君を愛しているんだと思うなぁ。残念ながら白河陸はサイボーグ手術を受けたときにメイジスの侵入を許しちゃってるからね。イトカさんは代表を海君と同じようには扱えない。どこまでメイジスに乗っ取られてるかわからないんだろうね。疑心暗鬼にかられちゃったイトカさんは、実の息子である白河陸の命を狙った。そうなったらもう、国外逃亡せざるをえないよね」
「まるで見てきたように言いますね」
「僕の本体、白河陸だからね」
本体という言葉にヴァレリーは眉をひそめる。テイラー主任の本体はアウトサイド代表だったらしい。今思えば間延びした、冗談めいた口調が似ている。ヴァレリーが小さく息をついた途端、目の前に小さなウィンドウが現れる。
《アーネスト・テイラーと代表の関係は、そのまま祥子と私の関係に適用できます》
次々と新しい情報が飛びこんで来るが、進軍を続ける途中で補給ポイントを知らされたくらいの感慨しかわかない。ヴァレリーは短く「ありがと」と告げると、祥子の過去に再び触れた。
ハゲタカはていねいに整えたカツラを専用ハンガーにかけ、各方面から眺めはじめる。ときどきうなずくが、ブラシをかける前のカツラとそれほど大きな変化は見出せない。どういうこだわりなのかよくわからなかった。
「アウトサイド代表は逃亡する際、空さんの作ったデータを持ち出した。今アウトサイドで使われてる技術のほとんどは、そのときのデータなんだよ。でもねぇ、白河空の作ったデータには致命的な欠陥があった」
青い部屋に一つしかない机を占領している男は、一度言葉を切って真剣な目をした後、にこりと祥子に笑いかけた。
「聞きたい? 結構エグイよ」
「そこまで言って話さないつもりですか?」
「そうだね。ここまで話したなら、最後まで話さなくちゃね」
奪われた記憶は本になって青い空間に納められ、静かに時が来るのを待っている。己を手にとる誰かが現れる日を夢見て、本棚に眠る。
静かなはずだ。ここは奪われた記憶の墓場なのだから。
ヴァレリーの感傷を打ち破るように、アーネスト・テイラーは古びた本を一冊取り出して祥子に手渡した。ぱらぱらと中を開いた祥子に、ハゲタカはゆっくりと告げる。
「白河空は、人の心に左右されない社会を作りたかったんだよ」
まったく予期しなかった言葉に、ヴァレリーの頭の中は真っ白になった。
祥子が思わず本を取り落とす。古びた本が書庫の床にぶつかる前に、アーネスト・テイラーが宙で本を受け止めた。
「危ない危ない。貴重な本だよ」
「すみません」
「空さんはね、人に心があるから、公正な判断ができなくなると考えたんだね。たとえば……そうだなぁ、十九世紀からしばらく、心神喪失状態で行われた犯罪や未成年者の犯罪は、罪にならなかった地域があるらしいじゃない。罪が罪として裁かれるためには、責任能力がある、という条件が必要だったわけだね。でも空さんは、自覚がなくとも罪は罪として裁くべきだと考えるような人だった」
かつて白河空の関係者だと語った男が珍しく鼻で笑った。明らかな軽蔑の仕草だった。
「空さんは最初、環境汚染の影響を少なくする研究をしてたんだって。でも若造の研究なんて、まともに信じる人はいなくてね、カルト教団みたいな扱いだった。そのうち、空さんの研究がめざましい効果をあげだすと、長生きできるとか身体にいいとか話題になって人が群がりはじめてね……金になると踏んだ出資者たちが、無茶な要求をしてくるようになった。空さんはちょうど多感な時期に、人間の嫌なところを見すぎてしまったんだね。だから再起をかけた発展途上国が、国家レベルで空さんの研究を実行するという話が舞い込んだとき、インサイドみたいな、人間の心に左右されない仕組みを作り上げた。バカみたい」
アーネスト・テイラーはカツラを指先にひっかけてまわした。ふわりと髪が浮いたのを見て、すぐさま笑いをひっこめる。カツラの髪型が乱れたのに肩を落としてため息をつくと、すぐにブラシを握りしめて髪型を整えはじめた。
「天才ってのは困ったもんだね。子供かコンピュータみたいに、0か1しかないことがある。そのくせ凡人には考え付かないようなものを遺していく。インサイドは遺伝子でなんでもかんでもふりわけるでしょう? 適応する施設で、それぞれに適した学習プログラムを使って育てられて、そのまま適職につかされて死ぬ。葬式の種類まで用意されてるんだから、まさにゆりかごから墓場まで、だよね」
インサイドで育ったヴァレリーには、テイラー主任ほどの嫌悪感はわかない。ヴァレリーにとって、インサイドはただ窮屈な世界というだった。アウトサイドのことを白河海から聞くまでは、違和感や憤りを覚えながらも受け入れて暮らしてきた。
髪型を整えたカツラを満足そうにながめて、ハゲタカがブラシを置く。つるりとした頭をなでまわして、話が長くなっちゃったねぇ、と祥子に笑いかけた。
「これが、人の心の介在しない社会だ。誰の意思も働かない、感情があるようでない社会。感情のふり幅のほとんどがあらかじめ想定されてて、そこからはみ出す者は下層へ落とされる。全体の利益を守るために、一部の者は犠牲にしてもいい。そういう人だよ、空さんは」
自分を省みて、ヴァレリーはほんの少しだけ笑う。はみ出した者、犠牲にされた一部。祥子の記憶の追体験で見た、インサイドの下層の崩れかけた壁や、ほこりっぽい空気を思い出す。たとえ誰かの手のひらで踊らされていたとしても、人々は活き活きと暮らしていた。
「だから空さんは奥さんを独裁者に仕立てあげることだってできたし、白河海にあんな特殊なリミッターをつけることもできた。めちゃくちゃだよ。……それでも僕の本体の父親だし、偉大な研究者であることにかわりはないけどね」
世界の進歩のために犠牲にされたのは、白河海でなく、人間そのものだったのかもしれない。
ヴァレリーは顔を上げて、今見えている世界を目に焼き付けた。
──これが、インサイドでは見ることの叶わなかった世界だ。
青い世界の中の奪われた記憶たちが、亡霊のように浮かんでは消えていく思いがした。
「主任に白河空を悪く言う資格がありますか? あなたの本体だって白河海の能力を欲しがっているじゃありませんか」
不敵に笑って切り返した祥子に、アーネスト・テイラーは素直にうなずいた。
「そこがアウトサイドの苦しいところなんだよねぇ。どれだけ苦々しく思ってても、空さんの作った技術に頼らざるを得ない。空さんの作ったデータを基本にする以上、白河海を犠牲にすることからは逃れられないんだねぇ。悪しき連鎖を断ち切ろうとしても、また新たな仕組みがいるわけで……結局リミッターの外れた白河海に頼るしかない」
「いくら綺麗事を並べたって、やっていることはインサイドと変わらない」
テイラー主任は両手をあげて肩をすくめ「その通り」と手を打った。能天気な仕草に祥子が眉をしかめながら携帯端末を開く。小さな画面に自分の顔が映っているのに気付いて、ヴァレリーは祥子の内側で息を飲んだ。
「次の目標、確認しました」
いらだちを押し隠した祥子の声に、ハゲタカの翼のようにすくめられた肩が小さく上下に震えた。笑いを堪えているらしい。
「隼のお嬢ちゃんだよ。削除して欲しいのはアウトサイドに関する情報。戦闘中に見たものは報告されちゃってるけどね。メイジスによる精査が入る前に消去したい」
「消去屋って、便利な仕事ですね。都合の悪いことがあれば何でも消せるんだから」
嫌悪感をあらわにした祥子に、アーネスト・テイラーはふいに真摯な表情を向けた。薄い笑みが唇に浮かぶ。猛禽類のような鋭い眼光に、ヴァレリーは鳥肌がたつような思いがした。
「君だって、白河海を守るために手を汚したクチだ。今さらどうこう言える立場にないよ」
「ええ、そそのかされたと言い逃れするつもりはありません」
「そうだよね。メイジスから白河海を守るという点において、僕らの利害は一致するんだもの。……さあ、作戦決行だ。場所は食堂。いいね?」
ハゲタカはそっと両手でカツラを乗せ、ぱちんとクリップをとめる。獲物を狙う目を笑顔の奥に隠して、よろめきながら立ち上がった。
「そういえば、イバ君とランチをご一緒するのは久しぶりだね」
「そうでしたっけ?」
「うん。君はどうでもよさそうだね」
ヴァレリーは祥子の表情を探ろうとして、あたりを見回すが、鏡は見当たらなかった。とりつく島もない答えが返ってくることを予測しているテイラー主任は、既に苦々しい笑みを浮かべている。
「ええ。必要のないことは、定期的に忘れるようにしていますから」
「余計なお世話だろうけど、味気ないね」
一足先にエレベーターに向かった主任を見送って、祥子は青い世界をふりかえる。
伊庭祥子にしても、アーネスト・テイラーにしても、他人の胸の内をすべて知ることはできない。墓標のような本棚の並ぶ部屋は、悲しい光をたたえた海底のようだとヴァレリーは思った。




