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対面式の台所を迂回してパソコンデスクに向かうと、伊庭祥子は小さくため息をもらした。コーヒーの入ったカップを二つ持った祥子の中で、同じようにヴァレリーもため息をもらす。まだ追体験プログラムは終わりそうにない。
「昨日ちゃんと眠ったの?」
苦々しい祥子の声に、白河が画面から目をそらさないままコーヒーを受け取る。
「ごめん、もうちょっとだけ……もう少しでできあがるから」
横から画面をのぞきこむが、ヴァレリーには何が何やらわからない。それは祥子も同じようだ。理解しようと努力はするが、次の言葉がなかなか出てこない。
「祥子のシステムを基に作ったんだよ。経験を蓄積して学習するロボット……ヒューマノイドの新システム」
白河がコーヒーを飲んで微笑む。まったく同じタイミングで祥子もはにかむ。自然とそうすることが決まっていたように目と目を合わせた二人に、ヴァレリーは小さく肩をすくめた。インサイドでも恋人同士のやりとりを見たことはあるが、まさにそういう類のものだ。白河の笑みが祥子に向けられていると知っていても、自分に微笑みかけられているようで気恥ずかしい。錯覚だとわかっているから茶化してやりすごすが、どうにも居心地が悪い。
突如、荒々しく扉が開いて、祥子とヴァレリーは音の方を見た。癖のある赤茶の髪が人工の西日を浴びて輝く。見覚えがある──ヴァレリーは思わず目をみはった。侵入者を察知できなかったことに対する衝撃が、過去の祥子の心をざわめかせた。すぐに短刀を構えて臨戦態勢をとった祥子に、侵入者は穏やかな笑いを浮かべた。
「やめた方がいいですよ。あなたは僕に敵わない。だってあなたは、僕がこの部屋に入ってくることすら察知できなかったでしょう。僕はあなたと違って本体だもの。あなたを欺くことなんて、朝飯前というわけ」
涼やかな少年のような声と赤い髪。やはり見覚えがある。
眼鏡こそかけていないが、目の前にいるのはヴァーチャル・アウトサイドで知り合ったワルター・ミュラーだ。外見だけならそのものと言ってもいい。
──どういうこと?
違和感が強く残る。ヴァーチャル・アウトサイドで知り合ったワルターは口数がもっと少なかった。会話したのは数えるほどしかないが、受ける印象はまったく違う。それに祥子の記憶にワルターが出てくるのはおかしい。頭では否定するものの、目の前の赤い髪の青年は紛れもなくワルター・ミュラーの姿形をしている。
急に世界が一時停止した。小さなウィンドウが開く。現れたフェシスは、これまでにないほど青ざめていた。
《まさかヴァーチャル・アウトサイドで、この姿をした男に会ったのですか》
「ワルター・ミュラーよ。知ってるでしょう?」
唇を噛んだフェシスの瞳が瞬時に鋭くなって、つづけて淡い水色に変化する。ヴァーチャル・アウトサイドに接続しているのに違いない。
「どういうこと?」
《恐らくワルター・ミュラーはインサイドから送り込まれた偵察用プログラムです……私としたことが、迂闊でした。ヴァレリー、あなたは追体験を続けてください》
ヴァレリーがもう一度口を開くことを拒絶するように、過去の世界が再び動きはじめる。心にしこりを残したままのヴァレリーを我に返らせるように、赤髪の青年の楽しそうな声が部屋に響いた。
「本当に、フェシスによく似ていますね」
青年が祥子に向けた言葉に、ヴァレリーの心がほんのわずかに騒ぐ。フェシスと伊庭祥子、目の前の青年とワルター。フェシスを疑う気持ちはないが、はっきりと「似ている」と言われると心がざわめく。
──ワルター。ワルターがインサイドの。じゃあ今、目の前にいるのは……。
もう何が起こっても驚かない。そう思っていたはずなのに、まだ裏切られることには慣れない。
祥子は白河を後ろ手にかばい、構えを解かない。ヴァレリーは唇を噛んだ。どうせ過去は変えられない。うつろな気持ちとは裏腹に、祥子が戦闘態勢に入る。
「お前、誰だ?」
白河の声に、赤髪の青年は爽やかに笑ってみせた。ていねいにおじぎをしているが隙はない。全身に満ちた殺気が、ワルターと同じ顔の男との距離を詰めることを許さなかった。
「僕はメイジス。インサイドを司る最大のシステムだと言えばわかってもらえるでしょうか。白河海博士、あなたの自由期間はもうすぐ終わりですよ。インサイド全体の発展のために、僕と一緒に来てもらいます」
ヴァレリーの内側に苦い思いがあふれる。ため息をつく間もなく、祥子が短刀を構えて走り出す。戦闘がはじまれば、ヴァレリーの意識も瞬時に隼としての自分に変わる。余計なことを考えずにいられることが今は嬉しい。目の前の敵を倒すことだけ、考えればいい。
敵へと一直線に向かう祥子の動きがふと変化した。短刀が首筋を狙って繰り出される。メイジスは笑みを浮かべたままひょいと身をかわすと、指先でいともたやすく祥子のふりおろした刃をはさんだ。
「遅い遅い。直接戦闘に秀でた偵察型だというから期待していたけれど、僕が出る幕でもなかったのかな」
同時に祥子の首筋に手刀が入る。人工皮膚が触れた瞬間に激しい電撃が走って、祥子の身体が大きく震えた。追体験をしているヴァレリーに衝撃は一切ない。負担はすべて引き受けると言ったフェシスの言葉通りだ。
「あなたも白河海を狙ってるんじゃないですか? アウトサイドだって博士のこと、喉から手が出るほど欲しいんでしょう?」
「違う! アウトサイドのためじゃない!」
屈託なく笑うメイジスに祥子が吠えて、もう一度体勢を整える。短刀の刃を青白い光が包みこんで長さを変える。長く伸びた刃からくりだされる連撃が、部屋のあちこちを粉砕しながらインサイド最大のシステムに襲いかかった。
メイジスは瞬時に間合いを詰めて、祥子の脇腹に回し蹴りを食らわす。祥子は白い壁に激突して、床に崩れ落ちた。
「祥子!」
白河の声と同時に銃声が響いた。鉛の弾が白河の足元にめり込んでいた。牽制だ。祥子は息も絶え絶えにメイジスをにらみつける。メイジスは己に向けられる憎悪すら楽しむようにゆっくりと黒髪の女に近付くと、小さく首をかしげて白河へと微笑みかけた。
「とどめ、刺しましょうか」
「ふざけるな!」
白河の返答に、メイジスは赤い頭を揺らして笑った。金色の瞳が雲間から差す太陽のように妖しく光る。
「人間とロボットの恋愛ごっこですか。さぞかし楽しかったでしょうね。僕はインサイドの全システムに介入できる。祥子、あなたの目を通して、僕は白河海を毎日見ていたんですよ。あなたが白河海を見つめるたびに、僕は彼に残された時間を計算した」
自分の存在が愛する人を追い詰めていたと知るのは、どれほど苦しいことだろう。祥子の内にいるヴァレリーは深い絶望を、身をもって追体験した。それでも武器を握りしめて放さない祥子の心の強さは、ヴァレリーと重なってメイジスへの敵意になる。
「本当は白河海の自由期間が切れてから迎えに来ようと思っていました。けれど気が変わった。あなたたちがあんまり幸せそうだったから」
メイジスの足に蹴り上げられて、祥子が苦悶の悲鳴をあげた。祥子が再び床に横たわったとき、ワルターと同じ顔をした男は、はじめて怒りをあらわにした。
「よってたかってイトカを壊したくせに、自分だけ幸せになるつもりですか? さすがあの男の後継者だ!」
白河の制止も聞かず、メイジスは武器を握ったままの祥子の手を踏みにじった。関節の折れる嫌な音がする。
「イトカと違って部品を交換すればいいんですから、身体を壊されたって大したことはないでしょう」
人間に似せて作られた人工皮膚が破れて金属が覗く。踏みつけられて破れた合板の隙間から配線がはみ出した。
「ねぇ、白河海。さっきから僕の停止コードを押していますよね。効きませんよ。言ったでしょう? 僕はインサイドのすべてを司るシステムだ、って」
無惨にちぎれた配線がじりじりと音をたて、稲光のような光を発する。メイジスの攻撃は止まらない。祥子の身体から、動力が奪われていく。
「オレが行けばいいのか」
怒りを抑えた白河の声に、メイジスは足を思い切り振り下ろす。機械が壊れるときの音がする。
「行く! だからそれ以上祥子を傷つけるな!」
「ようやく決断していただけたようですね。人間というのは判断に時間がかかりすぎる。不便だ」
メイジスに連行されていく白河の後ろ姿を見つめながら、祥子は手のひらに残る武器を手放そうとしない。くりかえし白河の名前を呼ぼうとして、声にならない。無力さを噛みしめる。
半壊した扉が閉まり、主の不在を強調するように部屋の電気が消えたとき、ヴァレリーはあまりの絶望に呼吸を忘れた。泣くことはもちろん、嗚咽することさえできなかった。
いつかこれと同じようなことが起こるのだろうか。祥子が戦っても、自分が戦っても、白河海は世界のために消費されて死んでいく。
荒れ果てた部屋の暗がりで、たった一つ、小さな明かりがともる。ぽーんという電子音と共に「メールが到着したよ」と懐かしい声がした。祥子が聞いた先代の白河海の最後の声。それはヴァレリーの会った伊庭祥子が携帯端末に使っていた音声だ。
壊れかけたロボットは床に横たわったまま、部屋の管理システムに意識を繋げる。メールを開くと、短い文章が目の前に現れた。
アウトサイドへ戻れ。陸に連絡した。
差出人の名前はなかったけれど、それが誰から送られたものかということはすぐにわかった。白河陸と容易に連絡のとれる人間など、インサイドにはいない。
追体験プログラムの内側にいるヴァレリーと同じように、伊庭祥子は左手で顔を覆った。そうして右手から片時も放さなかった武器を、さらに強く握りしめた。
涙を流すことはできない。ロボットにも追体験プログラムにも、涙を流すという機能は備わっていなかった。




