始まり
「なっ! お前は、、、まさか」
「あら。 今、気がついたの?」
男が血反吐を吐きながら床から顔を起こし憎々しげに見上げる先に、薄ら笑いを浮かべ冷たい目で見下ろす女がいた。
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「すまないが、これを急ぎで頼むよ。明日の朝一番の会議で使うんだけど、俺。今から緊急会議なんだ」
「はい」
「いつも助かっているよ。残業申請はしておくから」
渡した男は、申し訳なさげに笑い去っていく。
慌ただしいオフィスで手渡された資料は、ずっしりと重い。
ちらりと時計を見ると、針は三時半を回っていた。
パラパラとめくると、なんの整理もされていない寄せ集めただけの資料だった。
貼り付けられている付箋には「緊急の場合はメールで連絡を。先日依頼の資料ミーティングはリスケで」と走り書きがあった。
資料を手渡した男は大友祐樹。
営業部でコンスタントな成績を保っている34才の主任だ。
明るい性格でリーダーシップがある大友は主任歴も長く、次期係長と噂されていた。
そして、そこそこイケメンで独身の大友は、社内の女性たちからの注目度も高かった。
ー今日は残業…ね。そして、今日のデートはキャンセル…か。
資料を受け取った伊藤絵里香は、周りに気づかれないように小さくため息をついた。
社員の産休の間にと派遣社員でこの広告代理店に入ってきた絵里香は、仕事の丁寧さから当時の課長に気に入られ、そのまま席をおいている。
入社当時から営業アシスタントとしてついているのが祐樹だ。
そして、会社では秘密にしているが、絵里香は祐樹と付き合っている。営業と営業アシスタント。仕事をしているうちにうちとけ付き合い始めた。
よくあるきっかけだ。
「えー、もしかして、今からその資料まとめるんですか?」
温かいココアでも買ってこようと資料をデスクに置いた時に、同じデスクの松沢あいりが声をかけてきた。
この会社はフリーアドレスオフィスで自由にデスクがつかえる。同じプロジェクトのメンバーや担当者は集まって大きなデスクを使う事が多い。担当被りの多いあいりとは、3人がけのいつもの丸いデスクを一緒に使っている。
あいりは今年二年目の正社員で、入社当初から絵里香が指導を任され面倒を見てきた。
黒髪ストレートで地味な装いの絵里香と違い、華やかな顔立ちで柔らかい女性らしい服装を好むあいりは男性社員に人気がある。仕事も絵里香の指導のおかげで評判もいい。フォローは必要だが。
あいりは、きれいにネイルされた指でデスクに置いた資料をめくる。
「時間かかりそう…。いつまでなんですか?」
「明日の朝の会議で使うそうなの」
「はぁ? ちょっとひどくないですか? こんな時間からやっていたら終電コースですよ!」
「仕方ないわよ。大友さんも最近忙しいから」
「むー。先輩ごめんなさい! 今日デートで定時上がり確定なんで残業はできないんです! でも、急ぎの案件無いんで、定時まではお手伝いします」
顔の前で手を合わせて、ちらりと見てくるあいりは、女の自分から見ても可愛いと思う。
「ありがとう。助かるわ」
「大友さんは、私があとで〆ておきますよ。もっとちゃんと計画性を持って仕事を依頼しろって」
絵里香のかわりにぷりぷりと怒りながら資料に目を通すあいり。
ちょっと要領の良い後輩ではあるが、憎めないかわいい後輩だ。
派遣社員が正社員を後輩と言っていいかわからないが。
「じゃ、お礼にココアおごるわ」
「やった! せんぱーい、砂糖とミルク多めでー」
「はいはい」
年の離れた妹が姉に甘えるようにいうあいりを見て絵里香はくすりと笑い、ココアを買いにその場を離れた。
「ふぅ。終わったわ」
ぱたんとノートパソコンを閉じるとフロアには誰もいない。
スマホを手に取ると8時を少し回ったくらいだった。 あいりの怒涛の手伝いと、たまたま以前作った資料が流用できたおかげで、思いの外早く終わることができた。
ー祐樹、会議終わったかしら。
もし会議が終わっていて社内にいるなら、コーヒーくらい一緒に飲めないかとチャットを打とうとしたが、絵里香は手を止めた。
ーメールで連絡をって書いていたから、チャットはだめよね。誰にチラ見されるかわからないし。
この会社は社員同士の社内恋愛を禁止していないが、取引先でもある派遣社員との恋愛は発覚したら暗に結婚する予定なのかと確認される。そして部署が同じ場合どちらかが移動となる。たいていは派遣社員のほうが異動させられるのだ。
以前、男性社員と女性派遣社員の不倫があり大きな問題となったからだ。
絵里香も派遣会社から「プライベートな事ですから口は挟みませんが、トラブルは避けてください」と、釘を差されていた。
だからか、祐樹はとても慎重に絵里香との交際をすすめていた。
「部署異動させられて絵里香のサポートを受けられなくなるのは個人としてもだが、部としても困るんだ。他に部に行ったら、その営業部は絵里香を返してくれないよ。絵里香はかけがえのない重要な戦力なんだよ。だからこの交際は、二人だけの秘密にしようと思うんだ。いいかな」
優しく抱きしめられて耳元でそう囁かれた言葉に、仕事を認められた嬉しさと『二人だけの秘密』という甘い響きに絵里香は、こくりと頷いた。
祐樹のその言葉を信じていた。
だが、秘密の交際も1年、2年と経ってくると少し不安になってくる。
祐樹を信じていないわけではないが、自分の身の回りでも結婚や出産をする友人が増えてきた。派遣会社の定期面接の時に、長く担当してもらった女性から育休で交代すると言われた時もだ。
「おめでとうございます」と告げると「ありがとうございます」と返された笑顔がまぶしくてうらやましくて、無意識に目を落とし大きくなったお腹を優しい手つきで撫でている担当の幸せそうな手をじっと見つめてしまった。
少し前にそれとなく、二人の将来のことを聞いてみた。
「将来のことは考えているよ。俺さ、もう少しで係長に昇進しそうなんだ。結婚したらすぐに子どもがほしいんだよ。やっぱり家庭持つって金かかるしね。独身で動けるうちに昇進したいんだ。将来のために」と、言われ「わかった」とうなづいた。
その後、「大友が次期係長。出世レースで一歩リードしたらしい」と社内の噂で聞いてから、最近のおうちデートのドタキャンも、今日のような急な残業も黙って受け入れてきた。
「いつか絵里香が、この会社を『卒業』するときの為に後輩を育ててほしい」と言われ、あいりを含めた数人の新人の指導もしてきた。「祐樹が頑張ってくれている。私も支えなきゃ」と。
「先輩。内緒ですけど、今日は今彼と初のお泊まりデートなんです! 彼、9時からレストラン予約してくれているみたいなんで、ネイルとマツエクをばっちりしなきゃなんです。ほんとうにすいません! 今度、彼を紹介しますねー」
定時と同時に笑顔で風のように退勤していったあいりを、ちくりとした気持ちで見送った。
ーうらやましいな。彼と外食か……。私も祐樹と居酒屋でいいから行ってみたいな。ううん、一緒に外を歩くだけでもいいんだけど。
祐樹が「どこに目があるかわからないから」と心配するから、デートはもっばら絵里香の家でのお泊りデートがほとんどだった。でも、それはそれで楽しかった。
二人の将来をイメージして、理想をなぞるように祐樹が使う小物を揃えていった。
ーいやいや、結婚すれば毎日でもできるのよ。赤ちゃんができるまで一緒に通勤して、残業で偶然一緒になったら、ふたり連れ立って外食もできるんだし。うん、それまで我慢よ。
ぼーっと、スマホの画面を見つめていたら警備員おじいさんが施錠にまわってきた。
「残業ですか?」
「あ、いえ。もう終わりました!」
急いでPCロッカーにパソコンをしまい、カバンを個人ロッカーからとりだすと[使用後、要シュレッダー]と書かれた資料を持ってフロアの端にあるシュレッダーに向かった。
「あ……」
シュレッダーには「故障中」の張り紙がしてあった。
「あ、それね。明日業者さんが来るんですよ。まだ2つ上のフロアが空いているから、そこのシュレッダーを使ってください」
「はい、ありがとうございます」
この会社の公共のものはフロアは違っても同じ場所においてあるので、エレベーターは使わずシュレッダーに近い階段で2つ上のフロアに上がり、資料をシュレッダーにかけた。
今日は空気が乾燥しているのか、パソコンの画面に集中しすぎたのか、やたら目がしばしばする。
ーもう誰もいないだろうから、いいわよね。
絵里香は使い捨てコンタクトをトイレで外すと手を洗った。
ーさ、帰ろう。
エレベーターに向かって、薄暗い廊下を歩いている時に明かりがついているリフレッシュルームから人が話すことが聞こえた。
ーあれ? 祐樹?
祐樹が誰かと話している声が聞こえた。